
二月の終わり。真壁航は、東京のビジネスホテルの窓から、見知らぬ街の煌びやかな夜景を見下ろしていた。 この一年、彼は憑かれたように勉強した。陽葵が一人で守ってくれている部室に、恥ずかしい結果を持って帰るわけにはいかない。その一心だった。
夕食のホテルのビュッフェは、種類こそ豊富だったが、何を食べても味がしなかった。部屋に戻り、明日の最終確認のために単語帳を開く。パラパラとページをめくる乾いた音だけが、狭い部屋に響く。
ふと、手が止まった。 単語帳の隅に、小さな落書きがあった。いつだったか、部室で勉強していた時に陽葵がいたずら書きした、下手くそな前方後円墳のイラストだ。
「……あ」
急に、陽葵の笑顔が脳裏に浮かんだ。 泥だらけで藪を漕ぐ姿。錆びついた遊園地ではしゃぐ姿。そして、最後に部室を出た時の、泣き出しそうなのを必死に堪えていた顔。
もし、明日受かったら。 僕は東京に行く。少なくとも四年間、彼女とは離れ離れになる。そのまま東京で就職すれば、もう二度と、あの街で彼女と肩を並べて歩くことはないかもしれない。
「そうか……」
航は、眼鏡を外して目を覆った。 合格することしか考えていなかった彼の心に、初めて「合格した後の喪失」の重みがのしかかった。 あの輝かしい日々。埃っぽい部室の匂い。彼女の体温。それらすべてが、過去のものになってしまう恐怖。
だが、不思議と迷いはなかった。 (受からなきゃいけない。彼女が背中を押してくれたんだから) 航は再び眼鏡をかけ、単語帳を閉じた。不安は、もうなかった。
受験当日。航は驚くほど冷静だった。前の晩に覚悟を決めたおかげか、難解な問題も、まるで古文書を解読するように淡々と処理できた。
そして、三月上旬。合格発表の日。 航は地元の自室で、ノートパソコンの画面と向き合っていた。心臓の音がうるさい。深呼吸をして、指定されたURLにアクセスし、受験番号を入力する。
エンターキーを押した。
画面が切り替わる。そこには、簡潔な文字が並んでいた。
『合格』
「……よしっ」 短く息を吐き出す。喜びよりも先に、安堵感が全身を駆け巡った。 すぐにリビングにいる両親に報告しようと立ち上がりかけ――止まった。
違う。一番最初に伝えたい人がいる。 半年間、一言も口を利かず、ただ黙って自分を信じて待っていてくれた、あの小さな部長に。
春休み中の学校は、ひっそりと静まり返っていた。 航は息を切らせて、特別教室棟の階段を駆け上がった。誰もいるはずがない。分かっている。それでも、足が勝手に向かっていた。
「地域歴史調査同好会」の部室の前。 航は呼吸を整え、半年ぶりにその引き戸に手をかけた。鍵は開いていた。
ガラガラッ、と懐かしい音が響く。 夕暮れの部室には、西日が長く差し込んでいた。埃の匂い。古い紙の匂い。何も変わっていない、彼の「原点」。
誰も、いなかった。 当然だ。春休みの夕方に、こんな場所にいる物好きはいない。
「……はは、やっぱりいないか」 航は乾いた笑いを漏らし、ゆっくりと自分が使っていた机に近づいた。そこには、陽葵の筆跡で書かれた「新年度活動計画」のメモが置かれていた。彼女は、本当に一人でここを守り抜いたのだ。
胸の奥が熱くなった。愛おしさが込み上げてくる。
「……陽葵に、会いたかったな」
誰もいない空間に向かって、ぼそっと本音が漏れた。その時だった。
「……ぶ、ちょう?」
背後から、信じられない声が聞こえた。 航が弾かれたように振り返る。
部屋の隅、書架の陰に、彼女がいた。 小鳥遊陽葵。少し髪が伸びた彼女が、驚きに目を見開き、手に持っていたモップを取り落として立ち尽くしていた。
「え、なんで……陽葵さん、どうしてここに」 「今日は、その、大掃除をしようと思って……部長こそ、なんで……」
言葉より先に、体が動いた。 航は数歩で彼女との距離を詰めると、反射的に、その小さな体を力いっぱい抱きしめた。
「えっ、ひゃっ!? ぶ、部長!?」 陽葵の体か硬直する。半年ぶりの彼の匂い、体温、腕の強さ。思考が追いつかない。
「ごめん。……ごめん、少しだけ」 航は彼女の肩に顔を埋めた。震える彼女の背中を、確かめるように強く抱きしめる。
「……受かったよ。第一志望」 陽葵の体がビクッと跳ねた。 「……ほんと、ですか?」 「ああ。君のおかげだ。君が、この場所を守ってくれたから」
陽葵の目から、ポロポロと大粒の涙が溢れ出した。 「よかった……っ、本当によかったぁ……!」
彼女が泣きじゃくりながら、航の背中に腕を回し、しがみついてくる。 その温もりを感じながら、航は、ずっと言えなかった言葉を口にした。
「陽葵」 「……はい」 「好きだ。……歴史調査のパートナーとしてじゃなく、一人の女性として。君のことが、どうしようもなく好きだ」
陽葵の嗚咽が止まった。彼女は涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、信じられないというように航を見つめた。
「……うそ」 「嘘じゃない。東京に行ったら、離れ離れになる。すぐには会えなくなる。それでも……僕の未来には、君が必要なんだ」
航は、眼鏡の奥の瞳で、真っ直ぐに彼女を見つめた。 余所者だった自分に、この街の地図を広げてくれた少女。空白だった自分の青春に、鮮やかな色を書き加えてくれた少女。
「……私もっ、私も、部長のことが大好きです! ずっと、ずっと前から!」
陽葵が再び航の胸に飛び込んだ。 西陽が二人を優しく包み込む。 そこには、この二分間の集大成があった。 泥だらけの青春があった。不器用な愛情があった。 そして、二人がこれから描いていく、新しい未来の地図が広がっていた。
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