
鏡に映る自分を見る。腰まで伸びた黒髪、これといって特徴のない中肉中背の身体。二十代後半にもなって、私は薄暗いショッピングモールの一角にある、さらに薄暗いブースに座り続けている。
私には、人に言えない秘密がある。 幼い頃から、人の心が読めた。それが当たり前だと思っていた私は、無邪気に友人の本音を口にし、瞬く間に「嘘つき」の烙印を押された。十歳になる頃には、この力は呪いであり、決して他言してはならないものだと理解した。
思春期を迎える頃、私は能力に「鍵」をかけることを覚えた。四六時中流れ込んでくる他人の思考のノイズを遮断する術だ。けれど、鍵を手に入れたことで、逆に私は「扉」を開け放つ誘惑に勝てなくなった。 十代の教室は地獄だった。片っ端からクラスメイトの心を覗いた。そこにあったのは、肥大化した自尊心、虚栄心、嫉妬、そして欲望。 私は人間に絶望し、静かに心を閉ざした。
大人になった今、私は「よく当たる占い師」として生計を立てている。 まともな社会人生活など、嘘と建前が渦巻くあの世界では、私には到底務まらなかった。 「あなたは今、迷っていますね?」 目の前の客の過去の記憶を読み取り、その中にある「やりたいこと」を少しだけ後押しする。未来など見えないが、過去と本音さえ分かれば、人間を喜ばせることなど造作もない。 夕方から夜までの数時間。報酬は多くないが、生活には困らない。安アパートに帰り、動画サイトを巡回して眠るだけの日々。 満足はしていないが、不満もなかった。少なくとも、この忌々しい能力に対するコンプレックスは、もう消え失せていた。
そんなある日、その男は現れた。 仕事終わりのスーツ姿。疲れた顔をしていたが、どこか人懐っこい雰囲気を持っていた。 いつものように、私は彼の心にダイブした。
『……綺麗だ。一目惚れって、本当にあるんだな』
思考が、あまりにも真っ直ぐに私に向いていた。 嘘も、下心も、打算もない。ただ純粋な好意。 今まで何千人もの心を覗いてきたが、これほど美しく、私に向けられた肯定的な感情に触れたことはなかった。 私もまた、一瞬で彼に惹かれてしまった。孤独な魂が、熱に浮かされたように。
占いの終わり、彼はおずおずと私を食事に誘った。私は即答した。
デート当日。会話は弾み、食事は美味しかった。少し酒が入り、互いの頬が朱に染まる。 私は自制できず、デート中ずっと彼の心を読んでいた。 『楽しい』『もっと一緒にいたい』『彼女が好きだ』 疑いようもない好意の奔流。私は幸せだった。 帰り道、良い雰囲気の中、私は勇気を出して彼の手を握った。私もあなたに気があるのよ、と伝えるように。
その瞬間だった。 彼が立ち止まる。つられて私も足を止める。 見上げると、彼の表情から笑みが消えていた。急に温度を失った瞳で、彼は言った。
「騙すつもりじゃなかったんだ。ゴメンね」
意識が暗転する。
気がつくと、私は冷たいコンクリートの床に転がされていた。 目を開けようとするが、目隠しをされていて何も見えない。身体を動かそうとして、身動きが取れないことに気づく。 拘束衣だ。両腕を胸の前で交差させられ、革のベルトできつく締め上げられている。 薬品と埃の混じった臭い。ここはどこだ。
「おい、目が覚めたらしいぞ」 下卑た男の声が響く。足音が複数、近づいてくる。 「気分はどうだ、お姫様」 「抵抗できない女ってのはそそるな。ここでおかしてやろうか」 「痛い目にあいたくなかったら素直になることだ」
罵声、脅迫、卑猥な言葉。 心当たりなど全くない。恐怖で心臓が早鐘を打つ。 だが、奇妙なことに、私の頭の片隅は冷え切っていた。 (……うるさい) 彼らの口から出る言葉よりも、彼らの頭の中から漏れ出る「思考」の方が遥かに雄弁だったからだ。
私は深呼吸を一つすると、震える声を装って叫んだ。 「こ、この服……どうやって脱ぐのよ!」
男の一人が心の中で嘲笑う。 『バーカ、その拘束衣の南京錠は4桁のダイヤル式だ。番号を知らなきゃ外れねえよ。ちなみに番号は”8910″だ』
(8910、ね。ありがとう)
私は身をよじりながら、手首の角度を調整する。拘束衣の構造上、指先はわずかに動かせる。手探りでダイヤルに触れる。 男たちは私が無駄な抵抗をしていると思って笑っている。 「ここから出して! 出口はどこなの!」
『出られるわけねえだろ。この地下倉庫の扉は、右の通路を突き当たりまで行って、階段を登った先にあるんだからな』
(右の通路、突き当たり、階段の上。了解)
私は叫び声を上げながら、指先でダイヤルを回す。 カチリ、と小さな音がしてロックが外れた。 男たちが「え?」と思考を停止させる一瞬の隙に、私は拘束衣を脱ぎ捨て、目隠しを引きちぎった。
「なっ!?」 驚愕する男たちの横をすり抜け、私は脱兎のごとく走り出す。 彼らの思考が地図代わりだ。迷うことなく右の通路へ。 背後で怒号が飛び交うが、彼らの動き出すタイミングも、どちらの手で掴みかかろうとしているかも、全て手に取るようにわかる。 振り向きざまに、思考を先読みして相手の足を引っ掛け、転ばせる。 階段を駆け上がる。 心臓が破裂しそうだ。でも、これでもう終わりだ。
重い鉄の扉を押し開ける。 外の光が差し込み、私は目を細めた。 やっと、出られた。
「お疲れ様」
そこには、あの彼が立っていた。 デートの時と同じ、にこやかな笑顔で。しかし、その手には花束ではなく、書類のバインダーが握られていた。
私は荒い息を吐きながら、彼を睨みつける。 彼は悪びれる様子もなく、私に近づき、手を差し伸べた。
「状況把握、情報収集、そして脱出。すべて満点だ」
彼の心を読む。そこにはもう、あの甘い恋心はない。あるのは、任務を遂行したプロフェッショナルの、冷静な評価だけ。 騙された。あの恋心さえも、私を油断させるための偽装工作、あるいは……いや、今はどうでもいい。
彼はニヤリと笑い、私に告げた。
「試験は合格だね。ようこそ、特殊捜査課へ」
コメントを残す