
「ふざけんなよ……あの女」
Bar「宵闇」。その薄暗いカウンターで、佐藤健一はグラスを握りしめていた。これで五杯目だ。普段はビール党だが、今夜は酔いが回る気がせず、強い酒ばかり煽っていた。
健一は中堅メーカーの営業マンだ。理不尽な要求には慣れているつもりだった。だが、今回の相手は度が過ぎていた。 大手商社の担当者、高橋玲子。 大した取引量もないくせに、彼女は会社の看板だけをかさに着て、自分がさも「仕事のできる女」であるかのように振る舞う。 要求内容は業務範囲を逸脱した無茶ぶりばかり。当然、健一は丁重に断りを入れたのだが、それが彼女の逆鱗に触れた。
『あなたごときの会社なんて、私がその気になればいつでも潰せるのよ!』
電話越しに響いたヒステリックな叫び声。実際には、彼女の会社との取引がなくなったところで、健一の会社には一切影響がない。単なる脅しだ。 だが、問題は社内にあった。上司の田中部長だ。
『佐藤君、君が上手くやらないからこうなるんだ。どうにかして彼女の機嫌を取りたまえ。私が責任を取る羽目になったらどうするんだ!』
典型的な事なかれ主義の部長は、事情も聞かずに全てを健一のせいにした。そして明日、高橋への「謝罪の会」がセッティングされたのだ。土下座でもさせられるのだろうか。
「……やってられるかよ」
吐き捨てるように呟いた時、目の前にスッと猪口(ちょこ)が置かれた。透明な液体が、表面張力で震えている。
「なんだ、これ。俺は日本酒は嫌いなんだが」
「嫌いなものほど、よく効く薬になることもある」
低い声に振り向くと、隣の席に男が座っていた。 現代のバーのカウンターには不釣り合いな、暗色の着物を着流し、黒い羽織を無造作に纏った男――漣蒼介だ。その目だけが、異様に鋭く光っている。
「少し、話を聞かせてもらえないか。あんたの背中に張り付いている、二つの影について」
「影? 二つ?」
健一は怪訝な顔をしたが、誰かに話を聞いてほしい気持ちが勝った。彼は堰を切ったように、高橋の理不尽さと部長の無責任さを洗いざらい吐き出した。
蒼介は黙って聞いていたが、全て聞き終えると、短く言った。
「それは『鬼女(きじょ)』の仕業だな」
「キジョ……?」
「自己顕示欲を高め、相手を貶めることで快感を得る下女の怪異だ。その商社の女、完全に飼い慣らされているな。ヒステリーは鬼女の咆哮だ」
蒼介は猪口の酒を飲み干し、続けた。
「そして、今回の魔は一人じゃない。あんたの上司にも、鬼女の『手下』が付いている」
「部長にも?」
「ああ。強い魔に怯え、思考停止して言いなりになる、哀れな小鬼だ。奴らは共鳴し合って、あんたをサンドバッグにしようとしている」
健一は背筋が寒くなった。まさか、そんな非現実的なことが。だが、蒼介の言葉には奇妙な説得力があった。
「で、でも、明日には謝罪の会が……」
「場所は?」
蒼介が尋ねる。健一がおずおずと答えると、彼はニヤリと笑った。
「ちょうどいい。まとめて祓ってやる」
翌日。都内の高級料亭の個室は、針のむしろのような空気に包まれていた。
上座には、腕組みをして不機嫌を隠そうともしない高橋玲子。その対面には、小さくなって冷や汗を拭う田中部長。そして、二人の間に座らされた健一。
「それで? 田中部長。御社の誠意というのは、手ぶらで来ることかしら?」
高橋の声は、氷のように冷たかった。
「い、いえ! 滅相もございません! 佐藤、早く! お詫びの品をお渡ししろ!」 田中部長が慌てて健一を促す。
健一が震える手で菓子折りを差し出そうとした、その時だった。
パーンッ!
乾いた音が響き、障子が左右に乱暴に開け放たれた。 料亭の畳を踏みしめる、雪駄(せった)の音。現れたのは、黒い羽織を翻した漣蒼介だった。
「な、何だ貴様は! ここをどこだと……」 田中部長が立ち上がる。
「部外者は引っ込んでろ。用があるのは、そっちの女だ」 蒼介は部長を一瞥もせず、高橋の前に立った。
「あら、何よ、この時代錯誤な格好の男は。佐藤さん、これが御社の『誠意』?」 高橋が鼻で笑う。その背後で、陽炎のように空間が歪み始めた。
「よく吠えるな。だが、その声、お前自身のものか?」
蒼介の目が射抜くと、高橋の背後から、角を生やし、耳まで裂けた口を持つ、般若のような女の影が立ち上がった。 同時に、田中部長の背後にも、それに怯えるように縮こまる小柄な影が現れる。
「キシャァァァァ!」 鬼女の影が、鼓膜をつんざく咆哮を上げた。
蒼介は懐から二枚の聖札(せいさつ)を取り出した。
「二匹まとめて、地獄へ送り返してやる」
蒼介は右手の札を高橋に、左手の札を田中に向けた。
「――滅(めっ)!」
二枚の札が同時に放たれ、それぞれの額に張り付く。
バヂィィィンッ!
二つの破裂音が重なり、個室が青白い浄化の炎に包まれた。
「ギャアアアアアアア!」「ヒィィィィィッ!」
鬼女と手下の影が断末魔を上げ、炎に焼かれて霧散していく。 だが、本当の地獄はここからだった。
「あ、あが……っ、わ、私の、自信が……空っぽ……!」
高橋が自身の喉をかきむしり、畳に倒れ込んだ。白目を剥き、涎を垂らしながら痙攣する。
「憑き物が落ちたな。鬼女が肥大化させていた自己顕示欲と万能感が消えれば、残るはその反動――底なしの自己嫌悪と、他者への根源的な恐怖だ」
蒼介が冷たく見下ろす。 高橋は「見ないで! 私を見ないで! 私はゴミよ、価値なんてないのよぉぉぉ!」と叫びながら、畳に顔を擦り付け、自分の顔を爪で引き裂き始めた。今まで他人に与えてきた「お前は無能だ」という圧力が、全て自分自身に跳ね返っているのだ。
一方、田中部長は部屋の隅で丸まり、ガタガタと震えていた。
「決断が……できない……息をするのも、怖い……誰か、指示を、指示をくれぇぇ!」
「手下の小鬼がいなくなれば、ただの臆病な抜け殻だ。自分の意志では一歩も動けず、永遠に責任の恐怖に怯え続けるがいい」
自尊心を失い自傷を続ける女と、恐怖で思考が停止し廃人となった男。 高級料亭の個室は、一瞬にして阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。
「……仕事は済んだ」
蒼介は、永遠の苦しみに落ちた二人を一顧だにせず、踵を返した。 健一は、あまりに惨たらしい元上司と取引先の姿に言葉を失っていたが、胸の奥底から湧き上がる暗い喜びを否定できなかった。これが報いなのだ。
「あ、あの……ありがとう、ございました」
震える声に、蒼介は立ち止まらず、背中越しに片手を振った。
「礼には及ばん。……それにしても、不味い酒だったな、昨夜のは」
そう言い残し、羽織を翻して廊下へと消えていった。 残された健一は、二人の絶叫が響き渡る部屋で、深く、長く息を吐き出した。もう二度と、彼らが健一を苦しめることはないだろう。一生、自分自身を苦しめるのに忙しいのだから。
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