まほろし奇譚 5話

カラン、と氷が溶ける音が、虚ろな心に響く。

Bar「宵闇」。カウンターの隅で、望月未央は死んだような目をしていた。 これで5杯目。強い酒で感覚を麻痺させなければ、胸の奥の黒いモヤに押し潰されてしまいそうだった。

同棲して3年になる彼氏、紺野拓也。 未央は彼を愛していた。いや、愛していると自分に言い聞かせていた。

幼い頃から、両親は不仲で、家の中に未央の居場所はなかった。「愛される」という感覚を知らずに育った彼女に、初めて「好きだ」「君が必要だ」と囁いてくれたのが拓也だった。

けれど、その甘い蜜月は長くは続かなかった。 拓也は仕事を辞め、未央の部屋に転がり込んだ。最初は「すぐに次の仕事を見つける」と言っていたが、やがて「今月ピンチなんだ」「夢のために投資が必要だ」と、金をせびるようになった。

彼はいつもいない。未央が仕事から疲れて帰っても、部屋は真っ暗だ。 それでも、たまに帰ってきて、優しく抱きしめてくれる瞬間だけが、未央の生きる糧だった。それが偽りだと薄々気づいていても、縋(すが)るしかなかった。

「……私、何やってるんだろ」

ため息をつくと、目の前にスッと、見慣れない猪口(ちょこ)が差し出された。

「安酒で自分を誤魔化すのは、その辺にしておけ」

低い声に顔を上げると、隣にいつの間にか、時代錯誤な和装に黒羽織の男――漣蒼介が座っていた。

「少し、話を聞かせてもらえないか。あんたの心臓に食らいついている、その『男』について」

未央は、見ず知らずの男に警戒心を抱く気力もなかった。堰を切ったように、拓也とのことを話し始めた。彼がくれる一時の優しさと、それに伴う搾取の苦しみを。

蒼介は黙って聞いていたが、最後に猪口の酒を飲み干すと、静かに告げた。

「その男は、『飛縁魔(ひのえんま)』かもしれんな」

「ヒノエンマ……?」

「人の心の隙間に入り込み、愛を囁いて依存させ、骨の髄までしゃぶり尽くす寄生虫だ。本来は女の妖怪だが、稀に男に取り憑き、宿主を『天性のジゴロ』に変える」

蒼介の鋭い視線が、未央の空虚な目を見据える。

「あんたが愛しているのは、その男じゃない。男の皮を被った、甘い幻覚だ。このままじゃ、あんたは全てを吸い取られて抜け殻になるぞ」

未央は言葉を失った。認めたくなかった。けれど、蒼介の言葉は、目を背け続けてきた真実を残酷なまでに突きつけていた。


週末の午後。久しぶりのデートだった。 陽光が降り注ぐカフェのテラス席。拓也は上機嫌にコーヒーを飲んでいる。

「やっぱ未央といると落ち着くなぁ。あ、そういえばさ、今度どうしても必要な機材があってさ、十万くらいなんだけど……」

まただ。甘い言葉の後の、金の無心。未央の胸が締め付けられる。

「……ごめん、拓也。今月はもう、余裕がなくて」 勇気を振り絞って断った。拓也の表情が、スッと冷たくなる。

「なんだよそれ。俺のこと信用してないわけ? 俺たち愛し合ってるんじゃないの?」

その言葉が、未央の呪縛だった。「愛」を人質に取られると、何も言えなくなる。

「ごめん……なんとかするから、機嫌直して」

そう言いかけた時だった。

ザッ。

砂利を踏む音と共に、テラス席に黒い影が落ちた。羽織を翻した蒼介が、二人のテーブルの横に立っていた。

「誰だお前? 俺たちのデートの邪魔すんなよ」 拓也が不快そうに睨みつける。

蒼介は拓也を無視し、未央を見た。 「これが、あんたの『愛』の正体か」

蒼介の視線の先で、拓也の背後の空間が歪む。未央の目にも、それが映った。拓也の肩に、美しいがどこか禍々しい、妖艶な人型の影がしなだれかかっているのが。影は未央を見て、嘲笑うように口角を上げた。

「……っ!」 未央が息を呑む。

「仕事の時間だ」 蒼介が懐から、朱色の文字が躍る聖札(せいさつ)を取り出した。

「な、なんだよそれ! やめろ!」 拓也が立ち上がろうとする。蒼介はその胸倉を掴み、聖札を振り上げた。

「やめて!!」

叫んだのは、未央だった。 彼女は反射的に蒼介の腕にしがみついていた。

「やめて! 拓也を傷つけないで! お願い!」

「……正気か。こいつはあんたを食い物にしているだけだぞ」 蒼介が冷徹な目で見下ろす。

「それでもいい! 嘘でもいいの! この人がいなくなったら、私を愛してくれる人は誰もいなくなっちゃう! 一人にしないで!」

未央は泣き叫びながら懇願した。それが偽りの愛でも、搾取のための演技でも、彼女にとっては唯一の「温もり」だった。それを奪われる恐怖は、死にも等しかった。

だが、蒼介の目に慈悲の色はなかった。

「……甘えるな。腐った縁(えにし)は、断ち切らねばならん」

蒼介は未央を冷たく振り払った。彼女が地面に倒れ込むのと同時に、蒼介は聖札を拓也の額に叩きつけた。

「――滅(めっ)!」

バヂィィンッ!

青白い閃光が走り、拓也の背後から、この世のものとは思えない女の悲鳴が上がった。 「キィィィィィヤァァァァァッ!」

飛縁魔の影が、浄化の炎に包まれて悶え苦しむ。拓也は白目を剥いてガクガクと痙攣し、やがて糸が切れた人形のように椅子に崩れ落ちた。

影が完全に消滅すると、周囲の喧騒が戻ってきた。カフェの客たちが、何事かと遠巻きにこちらを見ている。

「……あ、ぁ……」

未央は、這いつくばったまま、呆然と拓也を見上げた。 拓也はゆっくりと目を覚ました。だが、その目には、いつもの人を惹きつけるような甘い光はなかった。どこにでもいる、少し疲れたような、平凡な男の目だった。

「あれ……俺、なんでここに……? 未央……?」

拓也は未央を見て、きょとんとしている。憑き物が落ちた彼は、自分が今まで何をしていたのか、何を感じていたのか、その熱病のような感覚を失っていた。

未央は悟った。自分を狂わせるほど魅了していた「何か」が、彼から永遠に失われたことを。 残ったのは、借金と、虚無感と、平凡な他人行儀な男だけ。

「……仕事は済んだ」

蒼介は、崩れ落ちたまま動かない女と、記憶が曖昧な男を一瞥もしないまま、踵を返した。 未央がこれからどうなるのか。男と別れて真っ当な道を歩むのか、それとも「愛」の抜け殻に縋りついて共に沈んでいくのか。

彼らが幸せになったかどうかを、祓い屋が知ることは永遠になかった。


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