マレーシア旅行記2

この話はフィクションです。

神は、私に酷な試練を与えるのがお好きなようだ。

「二度と来ることはないだろう」 そう誓ってからわずか一年。私は再び、クアラルンプールの熱気の中に立っていた。 会社の方針とは常に非情なものだ。今回のアジアパシフィックの重要顧客ミーティングのハブとして、またしてもこの国が選ばれたのである。 前回の教訓を活かし、フライトの日付は何度も確認した。ホテルも会社指定の最高級グレードだ。 しかし、マレーシアという国は、私の警戒心の斜め上を行く形で、その牙を剥いてきた。

到着翌日の昼、私は少しでも精神の安寧を得ようと、世界共通の聖域である「マクドナルド」へ足を踏み入れた。 現地のローカルフードは、昨年の経験から何が起こるか分からないという恐怖があったし、マクドナルドなら世界中どこでも同じオペレーション、同じクオリティが保証されていると信じていたからだ。 ビッグマックセット。慣れ親しんだその味にありつこうと、包みを開け、ポテトをつまみ、バーガーを一口かじろうとした瞬間だった。 レタスの隙間から、黒い何かが覗いていた。 胡椒ではない。明らかに有機的な、足のある「何か」だ。 私は言葉を失った。日本なら店長が飛んできて土下座しかねない事案だ。 震える手でカウンターへ持っていくと、店員は「ああ」といった顔で新しいものと交換しただけだった。 「Sorry」の一言はあったが、そこには謝罪の念など微塵もなく、「運が悪かったな」程度の響きしか含まれていない。 食欲は完全に失せ、私は逃げるように店を出た。グローバルチェーンの看板さえ、この国では現地の杜撰さに飲み込まれてしまうのか。

店を出て、心を落ち着けようと少し通りを歩くことにしたのが間違いだった。 この街の「音」は、私の神経をやすりで削るように逆撫でする。 電車に乗れば、隣の男がスマートフォンの動画を最大音量で垂れ流している。イヤホンという文明の利器は、この国にはまだ輸入されていないのだろうか。 ショッピングモールに入れば、そこは無法地帯だ。 未就学児とおぼしき子供たちが、奇声を上げながら全速力で走り回っている。ぶつかられそうになり、私が避ける。 親はどこだと視線を巡らせると、近くのベンチで、やはり大音量のスマホ画面に見入っていた。 子供が他人に迷惑をかけても、親は我関せず。注意する素振りさえない。 「公衆道徳」という概念が、湿気と共に蒸発してしまっているようだ。

頭痛を覚え、近道をしてホテルへ戻ろうと路地裏へ足を踏み入れた。 表通りこそ近代的な高層ビルが立ち並んでいるが、一歩裏へ入れば、そこは別世界だ。 舗装は剥がれ、大きな穴が口を開けている。雨季のスコールでできた水たまりは濁り、得体の知れない悪臭を放っている。 足元を気にしながら歩いていると、バイクが猛スピードで私の脇をすり抜けていった。泥水が跳ね、私のスラックスの裾を汚す。 バイクの男は振り返りもせず、そのまま消え去った。 私は立ち尽くした。 高級スーツの裾についた泥のシミは、まるで私のプライドにつけられた傷のようだった。

「もう飲まないとやってられない」 夜、私は完全に疲弊していた。今日のすべての不条理をアルコールで消毒したかった。 同僚を誘う気力もなく、一人でふらりと街に出た。 しかし、ここでも私はマレーシアという壁にぶつかる。 適当に入った食堂で「ビール」と頼むと、店員に怪訝な顔で首を横に振られた。 「No Alcohol」 忘れていた。ここはイスラム教の国だ。 ハラル認証の店では酒は置かない。街中の手軽な食堂の多くは、ムスリム経営なのだ。 日本のように、赤提灯で一杯、コンビニで缶ビール、というわけにはいかない。 酒を求めて彷徨うこと30分。ようやく見つけた中華系の店は満席で、騒音レベルの話し声が充満しており、入る気になれなかった。

結局、私はホテルのバーに戻るしかなかった。 日本なら数百円で済む酔いが、ここでは数千円の出費となる。 グラスに注がれたウィスキーを煽りながら、私はため息をついた。 食には虫、耳には騒音、足元には泥濘、そして逃げ場の酒さえ遠い。 日本の「当たり前」がいかに奇跡的なバランスで成り立っているか、痛いほど思い知らされる。

モラルも、インフラも、サービスも。 すべてが私の肌に合わない。 踏んだり蹴ったりとはこのことだ。 グラスの氷がカランと音を立てた。その音だけが、今日一日で唯一、私の知っている清潔で整った音だった。 やはり、前回の誓いは正しかったのだ。

マレーシア。三度目こそ、絶対にあってはならない。


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