ガラスの導火線 第二話

 

派遣社員としての10社目の職場は、都内にある中堅の食品商社だった。  この春で、私は30歳になる。  世間一般で見れば、30代の独身女性など珍しくもない。結婚適齢期という言葉すら死語になりつつある時代だ。けれど、「20代」というブランドが手元から滑り落ちていく感覚には、形容しがたい焦燥があった。

 もちろん、私には結婚など望むべくもない。  感情が高ぶれば物理的に爆発を起こす女だ。夫婦喧嘩のたびに自宅を更地に変えるわけにはいかないし、愛する人を肉片に変える未来しか見えない。  私は「化け物」だ。誰かと深い関係になる資格はない。

 それでも、鏡に映る自分を見るたび、妙なプライドが鎌首をもたげるのが厄介だった。  私は、素材だけで言えば悪くない。むしろ、かつてはそれが災いの元だった。  だから今の私は、毎朝30分かけて「武装」をする。  肌のトーンをわざと二段階落とし、血色を消すようなベージュのリップを引く。眉はあえて整えず、野暮ったい黒縁メガネをかけ、髪は無造作に後ろで束ねるだけ。  名付けて「事務員Aの迷彩」。  美貌はトラブルの火種だ。男の情欲、女の嫉妬。それらが私の感情を刺激し、起爆スイッチを押そうとする。だから私は、世界の一部分、ただの背景になることを選んだ。

「ねえ、山野さん。このエクセルの関数さ、もっと効率いいやり方あるんだけど知ってる?」  思考を遮ったのは、隣の席の佐々木という正社員だった。  典型的な「マウントを取りたい男」だ。仕事は大してできないくせに、派遣社員というだけで私を下に見ている。 「……いえ、勉強不足ですみません。教えていただけますか」  私は能面のような笑顔で答えた。心の中のコップの水面が、ぴちゃりと揺れる。  こういう手合いに限って、女性には縁がなさそうなのが笑える。自分の承認欲求を、立場の弱い人間にぶつけることでしか満たせない哀れな生き物。  右手の拳を机の下で握りしめ、私は心の中で素数を数えた。2、3、5、7……。爆発を抑えるための、いつもの儀式だ。

 そんな淀んだ日常に、奇妙な風穴を開けたのは、経理部の**工藤(くどう)**という男だった。

 工藤は、不思議な男だった。  社内では「冴えない人」として通っている。サイズの合っていないダボダボのグレーのスーツに、寝癖のついた髪。猫背気味に歩き、誰とも必要以上に会話をしない。  当然、女性社員からの人気は皆無だ。

 しかし、私は気づいてしまった。  給湯室で一緒になった時、彼が汚れた眼鏡を外してレンズを拭いていた一瞬のことだ。  露わになったその横顔は、驚くほど整っていた。切れ長の目、スッと通った鼻筋。俳優と言われても通用するほどの造作だった。  だが、彼は眼鏡をかけ直すと、すぐにまた猫背の「冴えない工藤さん」に戻った。

(……わざと?)

 私と同じだ、と直感した。  彼もまた、何かを隠している。自分の価値を意図的に下げ、周囲のノイズを遮断しようとしている。  その瞬間、彼と目が合った。  普段は焦点が合っていないような彼の瞳が、その時だけは、私の「迷彩メイク」の奥にある素顔を射抜いたような気がした。

「……お疲れ様です」  彼がボソリと言った。 「お疲れ様です」  私も短く返す。  それだけの会話。けれど、そこには奇妙な共犯者めいた空気が流れた。言葉にしなくても、「お互い、演じるのも楽じゃないですね」と言い合っているような感覚。

 それから、私たちは少しずつ距離を縮めた。  派手なデートなどしない。帰り道が偶然一緒になったり、安居酒屋のカウンターで並んで座ったりするだけ。  彼は多くを語らなかったが、私の沈黙を苦にしない人だった。  私が佐々木の嫌味に耐えて眉間をピクリとさせた時も、工藤は横で小さく「29、31……」とつぶやいた。私が素数を数えていることに、気づいていたのだ。

「……山野さんはさ」  ある夜、二駅分の距離を歩いている時、工藤がポツリと言った。  街灯の明かりが、彼のダサいスーツの肩を照らしている。 「本当は、すごく綺麗だよね」  心臓が跳ねた。爆発の前兆ではない、別の鼓動だ。 「……皮肉ですか? こんな地味な女に」 「いや。俺にはわかるよ。俺も、似たようなことしてるから」  彼は少しだけ自嘲気味に笑い、ポケットに手を突っ込んだ。 「目立つと、ろくなことがない。勝手な期待をされて、勝手に失望されて。だから、最初からハードルを地面に埋め込んでおくんだ」

 ああ、やっぱり。  この人は、私と同じ種類の人間だ。  世界に対して諦めを持ち、それでも生きるために擬態している。  30年間、誰とも共有できなかった孤独の周波数が、初めて誰かとピタリと重なった気がした。

「付き合ってみない? 俺たち」  ロマンチックのかけらもない、業務連絡のような告白だった。 「お互い、無理しなくていい相手が必要だと思うんだ。……俺の前では、その厚塗りのファンデーション、落としてもいいよ」

 私は立ち止まり、彼の目を見た。  眼鏡の奥の瞳は、穏やかで、静かだった。  この人となら。  この人となら、私の「爆弾」も、湿って火がつかなくなるかもしれない。

「……後悔しますよ。私、結構、性格悪いんで」 「奇遇だね。俺も性格は最悪だよ」

 私たちは、どちらからともなく笑い合った。  こうして、私の30代は、奇妙な共犯関係と共に幕を開けた。  それが、私の導火線にどんな火をつけることになるのか、まだ知る由もなく。


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