ガラスの導火線 第七話  

 豪田が父に「お嬢さんをください!」とドデ七い声で頭を下げてから、時間は瞬きするような速さで過ぎ去った。  私は山野夢香から、豪田夢香になった。

 ほどなくして子供を授かったとき、私は遺書を書いた。  母は出産で死んだ。陣痛という激痛と、新しい命への愛おしさ。その感情の奔流に、私の「コップ」が耐えられるとは思えなかったからだ。  けれど、私は生き延びた。  分娩室で豪田が「頑張れぇぇぇ!!」と、産む私より大きな声で叫び続けていたおかげかもしれない。彼のうるささに呆れているうちに、私の身体から小さな命がするりと抜け出していた。  生まれたのは女の子だった。  あれから3年。娘はよく食べ、よく笑い、たまに癇癪をおこすが、おもちゃを吹き飛ばすことも、窓ガラスを割ることもない。  どうやら、私の呪われた血は、ここで途絶えたようだった。  私は初めて、心の底から安堵し、普通の母親としての幸福を噛み締めていた。

 そんな平穏な水面に、石を投げ込む者が現れた。  主人の会社の部下だという女性だった。  主人はいわゆる「浮気」ができるような器用な男ではない。誰にでも親切で、誰にでも全力なだけだ。けれど、その裏表のない優しさを、自分への好意だと勘違いする人間は一定数存在する。  その女は、まるで発情した雌猫のように執拗だった。  無言電話、ポストへの手紙、そして休日の待ち伏せ。  主人は「困ったなぁ」と頭を抱えるばかりで、邪険にすることもできない。その優柔不断さが、私の神経を逆撫でした。

 ある晴れた日曜日。  娘と二人で公園からの帰り道、その女が現れた。  主人がいない時を狙ったのだろう。彼女は私の前に立ちはだかると、狂気じみた目で私を睨みつけた。

「あなたが邪魔なのよ。あの人は私が支えるべきなの。あなたみたいに暗くて、地味で、何を考えているかわからない女じゃ、彼にはふさわしくない!」

 その言葉が、私の記憶の棘を深く抉った。  ――あんた、調子乗ってんじゃないわよ。  ――暗いんだよ、化け物。  中学時代、私を取り囲み、罵倒し、そして私が焼き尽くしてしまった少女たちの顔が、目の前の女と重なった。

 ドクン。  心臓が早鐘を打つ。視界が赤く染まる。  制御できない。  これは、いけない。今までの比ではない。世界を、この街ごと消し飛ばしてしまいそうなほどの、巨大な破壊のエネルギーが腹の底から湧き上がる。  目の前の女を消し炭にするのは簡単だ。でも、私の後ろには、三歳の娘がいる。

(ああ、ダメだ)

 臨界点を超えた。爆発する。  その瞬間、脳裏に浮かんだのは、隻眼の父の寂しげな笑顔と、豪田の暑苦しいほどの満面の笑みだった。

 ――夢香、お母さんはね、自分自身に力を向けたんだ。

 父の声が聞こえた気がした。  私は、湧き上がる爆炎を、歯を食いしばって飲み込んだ。  外へ放出してはいけない。全部、私の中で終わらせるんだ。  私の内側で、何かが粉々に砕ける音がした。内臓が、血管が、細胞の一つ一つが、凄まじい熱量で焼かれ、弾け飛ぶ。  痛みは一瞬で通り過ぎ、感覚が消えていく。

「……え?」  目の前の女が、突然糸が切れたように崩れ落ちた私を見て、後ずさりした。  私はコンクリートの地面に倒れ込んだ。体からは血の一滴も流れていない。けれど、中身はもう、空っぽの抜け殻のようになっていた。

「夢香!!!」

 遠くから、聞き慣れたバカでかい声がした。  買い出しに行っていた主人が、全速力で駆けてくる。  私のそばに滑り込み、私を抱き起こす。その温かさが、急速に冷えていく私の体に染み渡る。

「おい、しっかりしろ! 夢香! なんで……!」  主人は泣いていた。女は恐怖に引きつった顔で逃げ去っていった。どうでもいい。

 私は、主人の肩越しに、立ち尽くす娘を見た。  娘は泣いていなかった。  ただ、じっと私を見つめていた。その瞳の奥に、私は見てしまった。  小さく揺らめく、青白い光を。  私の体から抜け出したエネルギーが、娘へと流れ込み、受け継がれていくのを。

(ああ……そうか)

 遺伝しなかったのではない。まだ、覚醒していなかっただけなんだ。  そして今、私の死を目の当たりにした感情の揺らぎが、彼女のトリガーを形成してしまった。

 口を開こうとしたが、声にならなかった。  伝えなければ。この力は呪いかもしれない。でも、大切な人を守るための、最強の盾にもなり得るのだと。  ごめんね。こんな重い荷物を背負わせて。

 けれど、不思議と絶望はなかった。  薄れゆく視界の中で、主人の顔がアップになる。    大丈夫。  この人なら。  この、とびきり声が大きくて、誰よりも優しくて、少し抜けているこの男なら。  かつて父が私を守り抜いたように、きっと娘を愛し、守り抜いてくれる。  彼女がいつか爆発しそうになった時、その大きな腕と大きな声で、世界を繋ぎ止めてくれるはずだ。

「……あい、してる」

 最期に漏れたのは、爆音ではなく、微かな愛の言葉だった。  私は静かに目を閉じた。  硝子の導火線は燃え尽き、あとには静寂と、託された未来だけが残った。


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