
重苦しい闇に支配された空間で、緑色の巨大な球体がドクン、ドクンと、以前よりも強く、激しく脈打っていた。その鼓動は、まるで苛立ちを露わにしているかのようだ。
その御前、緑色の怪物は、主の不機嫌さを敏感に察知し、震える声で報告した。
「わ、我が主よ……申し訳ございません。風の戦士は、仕留めることができなかった模様です……」 怪物は脂汗を流しながら、必死に言葉を紡ぐ。 「報告によりますと、風の力があまりに微弱すぎたため、探索の網に引っかからず、見つけることができなかったとのことで……。まさか、それほどまでに弱いとは誤算でございました」
怪物は自らの失態を隠すため、タケルの力を過小評価する嘘を吐いた。球体の鼓動が一瞬、威圧的に強まる。
「ひいっ! す、すぐに次の手を打ちます! 次は、七つの力の中で最強と目される『聖』の力……奴を確実に潰します。今度の八代将軍には、対象の息の根が止まるのをその目で確認するまで帰還するなと、厳命を下しております! 今度こそ、奴らの首を主に捧げてみせますゆえ!」
怪物は床に額をこすりつけながら、主の怒りが収まるのを祈った。
一方、故郷を失ったタケルは、あてもなく彷徨った末に、大陸中央部に位置する巨大な都市国家「セントラル」へと辿り着いていた。
「すげえ……岩でできた山みたいだ」
見上げるような高い城壁、石造りの堅牢な建物がひしめき、通りには見たこともない装飾を施した馬車や、きらびやかな服を着た人々が行き交う。風の谷とは何もかもが違う、圧倒的な文明の光景に、タケルは憧れと同時に、居心地の悪さを感じていた。
だが、どんなに街並みが変わろうとも、風だけは変わらずに吹いていた。 ビルの谷間を縫う風を感じたタケルは、無意識のうちに背中の翼を広げた。 「へへっ、ちょっと高いところから見物させてもらうか」 風がタケルを押し上げ、彼は石造りの建物の屋根から屋根へと、軽やかに飛び移っていく。
「おい、あれを見ろ! 人が飛んでいるぞ!」 「なんだあの恰好は! 鳥人か!?」 街の人々は、空を舞うタケルを指差し、驚きと畏怖の混じった声を上げた。彼らにとって、風を操る力など未知の領域だった。
雑踏の視線を心地よく感じていたタケルだったが、突如として、見えない巨大な手に押さえつけられたような感覚に襲われた。
「ぐっ!? なんだ!?」 空中でバランスを崩し、路地裏へと落下する。受け身を取ろうとした彼の前に、一人の男が立ちはだかった。
「中央都市において、許可なき飛行は重罪である。何者だ、貴様」
白銀の甲冑に身を包み、冷徹な眼差しをした長身の男。彼が手をかざすと、タケルの体は金縛りにあったように動かなくなる。 抵抗しようともがくタケルは、男の右手の甲に、ある紋章が浮かび上がっているのに気づいた。 白い光を放つ、『聖』の文字。
(まさか、こいつも……?) タケルの直感が告げた。こいつは、あのバッタ野郎とは違う。自分と同じ、「力」を持つ者だと。 敵意がないことを示すため、タケルは抵抗をやめて両手を挙げた。
男はタケルをじっと見定めた後、拘束を解いた。 「私は中央都市聖騎士団団長、リチャードだ。見たところ、悪意はないようだな。だが、力を持つ者としての自覚が足りん」
それが、二人の戦士の出会いだった。
「違う! 足の運びが雑だ! 風任せにするな、風を『制御』しろ!」 「いってえ! いきなり叩くことねえだろ!」
聖騎士団の訓練場。タケルの怒鳴り声が響く。 リチャードはタケルに悪意がないと知ると、彼を騎士団の訓練生として迎え入れた。しかし、それは優しい指導とは程遠かった。 リチャードは、自由奔放なタケルに対し、中央都市の法律、騎士としての規律、そして力の制御方法を、徹底的に叩き込んだ。
「お前の力は強力だが、危うい。感情に流されれば、守るべきものまで傷つけるぞ」 リチャードは冷ややかに言い放つ。 「うるせえ! 俺は俺のやり方で強くなるんだよ!」 タケルは反発しつつも、リチャードの言葉が正しいことを痛感していた。風の谷での戦いでは、怒りに任せた結果、バッタの怪人に軽くあしらわれたのだから。
リチャードは厳格だが、決して理不尽ではなかった。彼は常に市民の安全を第一に考え、自らも厳しい規律の中で生きていた。その揺るぎない「正義」の姿勢を、タケルは内心で認めていた。
(くそっ、いつか絶対に見返してやる……!) タケルは唇を噛み締めながら、リチャードの課す過酷な訓練に食らいついていった。
そんな奇妙な共同生活が数週間続いたある日。 中央都市の平穏は、唐突に破られた。
ドォォォンッ!!
街の北門付近で大爆発が起こり、黒煙が上がる。警報の鐘が鳴り響く中、タケルとリチャードは現場へと急行した。 そこで彼らが見たものは、風の谷の悪夢の再現だった。
装甲車のような厚みを持つ、黒鉄の外骨格。頭部には巨大な角。カブトムシと人間が融合したような重厚な怪物が、大剣を振り回し、城壁を破壊していた。その周囲には、鋼鉄の身体を持つクワガタ型の兵隊たちが群がっている。
「我こそは黄泉の八代将軍『兜割(トウカツ)』! 我が主の命により、この脆弱な街を鉄屑へと変えてくれるわ!」 兜割の低い声が、腹の底に響く。
「ひゃっはー! 壊せ壊せぇ!」 クワガタ兵たちが市民に襲いかかる。悲鳴と怒号が交錯する。
「あの野郎……ッ!」 タケルの脳裏に、燃える故郷と父の死がフラッシュバックする。全身の血が沸騰し、風が荒々しく渦を巻く。 「ぶっ潰してやる!」 タケルが飛び出そうとした瞬間、その肩をリチャードが強く掴んだ。
「放せ! あいつらは俺の敵だ!」 「落ち着け、タケル!」 リチャードは静かだが、有無を言わせぬ迫力でタケルを制した。 「奴の狙いは我々『力』を持つ者だ。今お前が単独で突っ込めば、奴の思うつぼだぞ」
「だけど、目の前で人が……!」
「だからこそだ! 怒りに身を任せるな。それは奴ら怪物と同じ思考だ」 リチャードの瞳が、静かに、しかし熱く燃えていた。 「個の力ではない。力を合わせ、連携して戦う。それが『人間』の強さだ!」
タケルは歯を食いしばり、リチャードの言葉を受け入れた。 「……わかったよ。どうすりゃいい!?」
リチャードはニヤリと笑い、剣を抜いた。 「聖騎士団、総員傾注! これより対大型魔獣戦術『アイギス・フォーメーション』へ移行する! 私とタケルが前衛で敵将を引きつける! 副団長ガレスは後衛部隊を指揮し、周囲の雑魚を掃討せよ!」
「「「はっ!!」」」
リチャードの指揮は見事だった。 タケルが風の力で高速移動し、兜割の注意を引きつける。その隙に、リチャードが『聖』の力で強化された剣技で、鋼鉄の装甲を削り取っていく。
「ちょこまかと鬱陶しいハエどもがぁッ!」 兜割が大剣を振り回すが、タケルは風に乗って紙一重で回避する。 「今だ、タケル!」 「おうっ!」
タケルが風の刃を放ち、兜割の体勢を崩す。そこにリチャードが肉薄し、渾身の一撃を叩き込む。 「聖剣技・断罪の光!」 まばゆい光と共に、兜割の片腕が斬り飛ばされた。
「ぐおぉぉぉッ!?」 「やったか!?」 タケルが勝利を確信した、その時だった。
「……ご苦労様です、団長」
背後から聞こえたのは、聞き慣れた、だが酷く冷たい声だった。 リチャードの動きが止まる。彼の胸から、赤錆びた剣の先端が突き出していた。
「が……はっ……?」 リチャードは信じられないという表情で、ゆっくりと後ろを振り返る。 そこには、副団長のガレスが、歪んだ笑みを浮かべて立っていた。
「ガレス……きさ、ま……なぜ……?」 「なぜ? 決まっているでしょう。あちらの方が、より強い『力』をくれると言ったからですよ」 ガレスの腕が、不気味に脈打つ泥のようなものに変質していく。彼もまた、すでに怪物たちの手先となっていたのだ。
「なっ……!」 タケルは思考が停止した。信頼していた仲間が、背中から刺す? そんな馬鹿なことがあってたまるか。
「ギャハハハ! よくやったぞ裏切り者!」 片腕を失った兜割が、狂ったように笑いながら迫ってくる。 「さあ、聖の戦士よ、そして風の小僧よ! ここで終わりだ!」
絶体絶命の状況。リチャードは口から血を吐きながら、タケルに叫んだ。 「タケル……逃げろ……! お前だけでも……!」
その言葉が、タケルの時間を動かした。 (親父も、そう言った……。また、俺だけ生き残るのかよ!?)
「ふざけんなッ!!」
タケルは咆哮と共に、凄まじい突風を巻き起こした。砂煙が舞い上がり、兜割とガレスの視界を奪う。 その隙に、タケルは崩れ落ちそうになるリチャードの体を抱え上げた。
「つかまってろよ、団長!」 タケルは全力で風を圧縮し、爆発的な推進力を生み出す。二人は弾丸のように空へと射出された。
「逃がすかぁッ!」 背後から兜割の怒号が聞こえるが、構うものか。 タケルは街の外へ、人がいない荒野へと向かって一直線に飛んだ。
(あいつらの狙いは俺たちだ。俺たちが街から離れれば、被害は減るはずだ……!)
それはリチャードから学んだ、苦渋の選択だった。 遠ざかっていく中央都市からは、まだ黒煙が上がっている。守るべき人々を置き去りにし、信頼していた仲間に裏切られ、傷ついた師を抱えて逃げる。
「……これで、よかったのかよ……」 タケルの問いかけに答える声はなかった。腕の中で意識を失っているリチャードの顔は蒼白で、命の灯火は消えかかっていた。
眼下に広がる荒涼とした大地に、二人分の影が寂しく落ちていた。風は、ただ冷たく吹き荒れるだけだった。
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