重く湿った玄関の扉を閉め、二人が洋館の中に一呼吸置いたところで、ようやく我に返った。 いくら緊急事態とはいえ、見知らぬ他人の敷地に無断で押し入ってしまったのだ。一刻も早く住人に挨拶をし、事情を話さなければならない。
あらためてあたりを見回すと、そこは個人の邸宅というよりは高級ホテルのロビーを思わせるだだっ広い空間だった。磨かれた床に、ゆったりとしたソファーが数脚設置されている。
ユウキは息を整えると、おそるおそる大声を張り上げた。
「すいませーん! どなたか、いませんかー!?」
屋敷の広さを考えれば、すぐに返事がないのは当然かもしれない。しばらくの静寂が空間を支配する。だが、三十秒が過ぎ、一分が経過しても、人の気配すらしなかった。
ユウキは喉を鳴らし、もう一度叫んだ。
「すいませーん! どなたかいらっしゃいませんかー!?」
さらに数十秒。やはり静まり返ったままだ。 二人とも全身濡れねずみで、このまま放置されれば間違いなく風邪をひいてしまう。
「……誰もいないのかな。とりあえず、着替えようか」
元々一泊旅行の予定だったため、トランクには二人分の着替えがしっかり入っている。 ユカは少し頬を赤らめ、躊躇するように身を縮めた。
「え……でも、ここ、着替える場所もないし……」 「今更だろ。初めて裸を見るわけでもないんだから、さっさと着替えてよ」
デリカシーのないユウキの言葉に、ユカは恥ずかしそうに小さく頷いた。 男の意地として、着替え中のユカを直視しないよう細心の注意を払いながら、ユウキも乾いた服へと着替える。湿った服を脱ぎ捨てて新しい服に袖を通すと、それだけで人心地がついた気がした。
二人は濡れた服をまとめると、ソファーに腰を下ろした。
「はあー……疲れたな。家の人もいるか分からないし、これからどうしようか……」
ユウキが漠然と呟いた、その時だった。ユカの口から思いがけない提案が飛び出した。
「このままソファーで眠るのも、なんだか怖いし……屋敷の中を探索してみない?」
普段はおとなしい彼女からの申し出に、ユウキは一瞬驚いたものの、男としての威信を守るため即座に頷いた。
「ああ! 実は俺もそう思ってたんだ。屋敷の中を探検しよう」
この期に及んで女の子に主導権を握られてたまるか、とユウキは気合いを入れ直す。
「じゃあ、まずは一階の右の通路から順番に回っていこう」
言うやいなや、彼は自ら先頭に立ち、足早に右手の通路へと足を進めた。ユカは何も言わず、静かにその背中についてくる。
(よし、うまくリードできてるぞ)
心の中で胸を張ったユウキは、突き当たりのドアの取っ手を回した。 扉の向こうに広がっていたのは、広大なキッチンだった。
普通の家庭では到底見られないような大型のシンク、巨大な冷蔵庫、業務用並みのコンロとオーブン。しかし、それらは決して清潔とは言えなかった。シンクの中には、洗われていない食器が山のように積み上げられている。
(廃墟じゃない……! 人が住んでるんだ)
ここが誰もいない廃屋ではないと分かった安心感と同時に、勝手に侵入した家主を早く見つけなければという義務感が再び膨らんだ。人の家に無断で足を踏み入れている背徳感にユウキが身を縮めていると、背後からユカが無邪気な声をかけた。
「なんか、ちょっとお腹空いてきたな。何か食べたい」
「えっ……!?」
いくら何でも、知らない人の家のキッチンで、勝手に食べ物を漁るなんてできるわけがない。ユウキの良識がそれを激しく拒絶した。
「流石に知らない人の家のものを勝手に食べたらダメだよ!」 「……ワカッタ」
ユカはいつになくつまらなさそうに不機嫌な顔をして、短く呟いた。
気を取り直した二人は、さらに奥へと進むことにした。 キッチンの勝手口のような扉を開けると、そこは薄暗い廊下になっており、奥にいくつかの扉が確認できた。
生活感を目の当たりにしたことで、これ以上他人の家を捜索していいものか、ユウキは迷い、ピタリと足を止めてしまう。 すると後ろから、ユカがのんきな調子で尋ねてきた。
「何で止まってるの?」 「いや……明らかに住んでいる人がいるのに、これ以上家捜しみたいにして回るのはどうなんだろうって……」 「そんなこと言ったって、住んでいる人がいる場所に黙って勝手に寝泊まりする方がよっぽど危ないよ。朝になって見つかったら通報されるかもしれないし」
「うーん……」
ユウキが頭を抱えて唸っていた、その時だった。
ギィ……と不気味な音を立てて奥のドアが開き、しわがれた甲高い声が廊下に響き渡った。
「あんたたち、誰だい!?」
ビクッと肩を跳ね上がらせて視線を向けると、そこには寝間着のようなラフな格好をした一人の老婆が立っていた。目を見開いて二人を睨みつけている。
ユウキは一瞬腰を抜かしそうになりながらも、慌てて頭を下げ、事のあらましを必死で説明した。車がガス欠になったこと、大雨とスズメバチから逃れてやむなく入ってしまったこと——。
「本当に大変申し訳ありません! 外は真っ暗で豪雨なので……厚かましいお願いですが、朝まで入り口のところで雨宿りさせていただけないでしょうか」
老婆は深くシワの刻まれた顔を不満げに歪めた。
「まったく、最近の若いのは準備が足りないねえ。……まあいい、流石に今夜のこの豪雨じゃ、外に放り出すわけにもいかないかね。一晩だけなら構わないよ。ついてきな」
舌打ち混じりにそう言うと、老婆は背を向けてロビーの方へと歩き出した。 命拾いした二人は胸を撫で下ろし、老婆の後を追う。ユカが背後から、こそっとユウキの背中をつついた。
「助かったね」
ロビーを通り抜け、中央の大きな階段を上った二階。そのすぐ目の前にある部屋の前で老婆は立ち止まった。
「ほら、この部屋は客間だから使いな。シーツはこないだの大掃除の時に洗ったばかりだから綺麗なはずだよ。それと、トイレは向かいの部屋だからね」
あてがわれた部屋は、まるで高級ホテルのスイートルームのように洗練された広い客室だった。 想像以上の手厚い扱いに、ユウキは思わず焦ってしまう。
「えっ、いえ! こんな立派なお部屋、申し訳なさすぎます! 僕たちはロビーのソファーで十分ですので……」
言い終わらないうちに、老婆が手で制した。
「若いのが余計な遠慮をするんじゃないよ。若い男女をこんな寒い廊下にほったらかしたなんて知れたら、親御さんに申し訳が立たないだろうが」
二人は恐縮しながら、何度も大きく頭を下げてお礼を言った。
老婆は部屋を出て行こうと扉に手をかけたが、ふと思い出したように振り返った。
「ああ、そうそう。ひとつだけ言っておくよ。この辺りは風が強くてね、変な地形のせいもあって、風の音がまるで人の叫び声みたいに聞こえることがあるんだ。……用もないのに、トイレ以外で部屋の外を出歩かないでおくれよ。ただでさえ見知らぬ人間を泊めるんだ、最低限のマナーは守っておくれ」
風の音? どんな音なのかと尋ねる間もなく、老婆はバタンと重い音を立てて扉を閉め、去っていってしまった。
何はともあれ、今夜の安全と快適なベッドは確保された。 明日になればガソリンをどうにか手に入れて、予定通り旅行を続けられるはずだ。大変な目に遭ったが、これも過ぎてしまえば二人の大切な思い出になるだろう。むしろ、サークルの連中に話す面白いネタができたとさえ思えた。
ユウキがそんな楽天的な考えに浸っている横で、ユカはそそくさと化粧を落とし、トランクから出した部屋着に着替えていた。
すっぴんになり、無防備な姿になった彼女を目にした瞬間、ユウキの中でむくむくと男の欲心が持ち上がった。普段とは違う状況、二人きりの豪華な部屋。
彼は吸い寄せられるように、後ろからそっとユカの胸に手を伸ばした。
——次の瞬間、激痛が走った。
「痛っ!?」
ユカが容赦なくユウキの手の甲をつねり上げていたのだ。爪が食い込むほどの強い力だった。
振り返ったユカは、完全に無表情だった。その瞳には冷ややかな光が宿っている。
「……今は、そういう気分じゃないの。そもそも、ユウキのせいでこんな目に遭ってるのに、ごめんの一言もないの? まさか『良い思い出になった』なんて能天気なこと考えてないよね?」
(ず、図星だ……!)
「い、いや! まさか! そんなこと思ってるわけないじゃないか……!」
動揺のあまりしどろもどろになるユウキを、ユカは冷ややかな目で見つめた後、ふいっと背を向けてベッドに入ってしまった。
冷静になってみると、ユウキ自身も長距離運転と度重なるトラブルで、精神的にも肉体的にも限界を迎えていた。手痛いお仕置きの痛みに耐えながら、彼は反対側のベッドへと潜り込んだ。
とりあえず、今は寝よう。
旅の疲れが一気に押し寄せ、二人はすぐに深い眠りへと落ちていった。
——それから、どれほどの時間が経っただろうか。
「キャァァァァァァァッ……!!!!」
突如として館内に響き渡ったのは、裂けるような人間の悲鳴だった。 鼓膜を刺す耳障りな叫び声に、二人は飛び起きるようにして目を覚ました。

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