憂いの館 第三話

「何があった……!?」

ユウキはあわてて飛び起き、薄暗い部屋の中で周囲を警戒した。心臓が嫌な鐘を打っている。

しかし、隣のユカは体を起こそうともせず、布団に小さくくるまったまま答えた。

「……さっき、おばあさんが言ってたでしょう。風の音だって」

その声を聞いて、ユウキは少しだけ冷静さを取り戻した。

「あ、ああ、そうか。そう言ってたな……」

自分に言い聞かせるように呟くと、ユウキも拍子抜けした心地で再度布団にくるまり直した。なんだ、風の音か。老人の言っていた通りじゃないか。

だが、それから十数分が過ぎた頃だった。

「きぃいいいいいいい…………!」

再び館内に響き渡ったのは、人の声だとすれば歓喜とも悲哀とも判断のつかない、不気味で甲高い叫びだった。 さらに数分後、立て続けに異音が重なる。

「ひぃいいいいい……!」 「がぁあああああ……!」

とても風の悪戯などとは思えない声が、矢継ぎ早に暗闇を切り裂く。

そして——

「ダメダーーーーーーーーーー!!!!」

それは、はっきりと理解できる言葉であり、明らかに人間の声以外の何物でもなかった。

流石にこの事態はおかしい。ユウキが恐怖で引きつりながらユカに目をやると、彼女は我関せずと言わんばかりに静かに眠り続けている。 安全を考えたユウキは、ユカの肩を揺さぶり起こした。

「ユカ、起きろよ! 流石にこれは風じゃない! 何かが起きてるんだよ!」

ユカは眠そうに目をこすりながら、面倒くさそうに呟いた。

「なにー……? さっきおばあちゃんが風の音って言ったんだから、きっとそうだよ……」 「そんなわけないだろ! 完全に人の声だよ! もしかしたら、何か危険が迫ってるかもしれないんだぞ!?」 「……そんなに気になるんなら、見てきたら?」

投げやりなユカの態度に、ユウキは少し怒りを覚えた。

「何があるか分からないのに、ユカを一人にして見に行けるわけないだろ!」

ユカは体勢を変えようともせず、低く答えた。

「だったら、変に動かないでここにいる方が安全だと思うから……入り口で見張っててよ」

そう言われてしまっては、男としての意地がある。後には引き返せなくなったユウキは、半ばヤケクソで言い返した。

「わかったよ! 俺が外で見張ってる!」

ユウキは勢いよく部屋を出て、ドアを閉めた。

さて、見張ってやると意気込んで廊下に立ち尽くしたものの、暗闇の中で何もせずにじっとしているのはあまりにも退屈だった。ユウキは早々にポケットからスマートフォンを取り出した。

画面に表示された時刻は、3時16分。 普通なら誰もが深く眠っている時間だ。やはり部屋に引き返して寝るべきかとも思ったが、一度冴えてしまった目が簡単に閉じるはずもない。 (自分の言葉通り、ユカの安全のためにもう少し見張ってみるか)

そう思ってあたりを見回してみるが、当然のように深い闇が広がるばかりで、何も見ることはできなかった。

ユウキは恐怖を紛らわせるため、SNSを開いて時間をつぶすことにした。 タイムラインを開くと、自分が昨日の昼ごろに投稿した写真が目に飛び込んでくる。長野の店でユカと並んでそばを食べている画像に、「初旅行でアガってます」という一言を添えたものだ。

そこにはサークルの友達からの数十件の「いいね!」と、祝福のコメントが並んでいた。 このアカウントは友人以外には非公開に設定しているため、不快なコメントやくだらない冷やかしは一切つかない。 守られた世界で、穏やかな相対関係。対応さえ間違えなければ、これほど快適で安全な場所はないのだ。

ユカとの関係も、本来はこの守られた空間の中にある安全な出来事のはずだった。変な諍いやトラブルなんて御免だ。

自分へのコメントを確認して胸を撫で下ろすと、今度は友人たちの投稿を順にチェックしていった。 今日食べたご飯の写真、バイトの愚痴、恋人とのデートの報告、就活の不安。どれもこれも、心底たわいもない話ばかりだ。

けれど、それは安全で、楽しく、快適な、素晴らしい日常の証だった。きっとこの穏やかな世界が壊れることなんてないはずだ——。

そんな安堵感に包まれながら、ユウキが友人たちの投稿にひとつずつ「いいね!」を押し進めていた、その時だった。

「ギェエエエエエエエエエエエ!!!!」

これまでを遥かに凌ぐ大音量の絶叫が、館内に轟いた。 間違いなく、人間の声だ。しかも外からではない。確実に下の階から響いてきている。

ユウキは焦って部屋のドアを少し開け、中を覗き込んだ。流石の音量にユカも目を覚ましたようで、ベッドの上で体を起こしていた。

「ユカ! 明らかに人の声が下から聞こえた! 下の階をチェックしてくるから、部屋に閉じこもってろ。幸い内鍵があるから、俺以外には絶対開けるなよ!」

廊下へ出ようとするユウキの背中に、ユカが不安そうな声をかけた。

「……怖いから、一人にしないで」

すがるようなその瞳を見て、ユウキは胸を突かれた。

「……じゃあ、一緒に行くか」

ユカは無言でこくりと頷いた。

二人で部屋を出て、ロビーへと足を進める。壁の電気のスイッチの場所も分からないため、スマートフォンのライトで足元を頼りなく照らしながら、ゆっくりと階段を下りていく。

ユウキが慎重に歩を進める横で、ユカはおびえた子犬のようにユウキのシャツの裾を強く掴んでいた。 (これは、男気をアピールできる絶好のチャンスだ……!)

そう思いうつつを抜かしかけたが、あの老婆から「用もなく部屋を出るな」と強く念を押されていたことを思い出す。下手に声を出すわけにはいかない。 ユウキはスマートフォンのメモ帳を開き、大きな文字でテキストを入力してユカに見せた。

『心配するな』

それを見たユカの顔に、小さな笑顔が浮かぶ。その表情を見て、ユウキも思わず安堵の笑みを漏らした。

一階のロビーに辿り着き、二人はあたりを見回した。ライトの光でロビーをゆっくりと照らしていく。 とりあえず、目立った異常はないようだった。静まり返ったロビーを、二人でゆっくりと歩き回る。

ユカがユウキの背中を軽くつつきながら、殺した声で囁いた。

「……何もなさそうだけど」

ユウキの目にも、変わった様子は見当たらなかった。彼はユカに小声で呼びかけた。

「ちょっと、そこのソファで様子を見てみよう」

そう言ってユウキがソファに腰を下ろすと、ユカもすぐにその隣へと滑り込んできた。 ユカはユウキの腕にギュッと身体を寄せてくる。

「さっきの声、なんだったんだろう……」

ユウキは何も言えず、黙って首を横に振った。

しばしの沈黙が流れる。暗闇への不安からか、ユカは終始ユウキにしがみつきつづけていた。 ユウキの腕には、ユカの胸の柔らかいふくらみがはっきりと当たっている。心臓のドキドキを抑えることができない。

息が詰まるような暗闇の中、ユウキは導かれるようにユカの唇を探し、顔を近づけていった。

その、まさに最中だった。

「キィエエエエエエエエエ!!!!」

再び、あの裂けるような叫び声が響き渡った。 ハッと目を見開いて音のした方を見ると、声は一階の廊下通路の奥から聞こえていた。

ユウキは密着を解き、ユカに低く告げた。

「……あっちの方だ」

立ち上がったユウキは、再びゆっくりとした歩調で、声のした方向へと歩き出した。

二人が向かったのは、一度も足を踏み入れたことがない一階左側の通路だった。 先ほど耳にした記憶を頼りに、大雑把に声の発生源と思われる場所へと近づいていく。そして、おそらくそのポイントであろう位置に、一押しの木製ドアが佇んでいた。

二人ドアの前で足を止め、佇む。ユカは恐怖で少し身を震わせていた。

そして、数分間の痛烈な静寂の後——

「キターーーーーーーー!!!!」

先ほどまでの叫び声と同質の声が、ドアのすぐ真奥から爆発するように聞こえた。

ユカとユウキはお互いの顔を見合わせ、深く深く頷き合った。 ユウキは息をのむと、震える手でドアノブへと手を伸ばし、ゆっくりとその扉を開いた。


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