あの過酷を極めた馬糞掃除の日々から、数年。 私は死に物狂いで学問、マナー、領地経営の基礎を叩き込み、ひたすらに努力を重ねていた。
そんなある日、お母様から冷ややかながらも真剣な眼差しで告げられた。
「ミレーユ。貴女もいよいよ、社交界に参加する年となりました。来月、大晩餐会が催されます。参加しなさい」
私にとっては青天の霹靂であった。だが、幼少期からマナーも含めて完璧に叩き込まれてきた自負があったため、何の不満も不安もなかった。
こうして12歳を迎えた私は、少女時代の最後にして最大の舞台へ足を踏み入れることとなった。
晩餐会の当日。豪華絢爛なドレスに身を包んだ私が会場に現れると、周囲の貴族たちから一斉に視線が集まった。
今回の晩餐会の裏のテーマ――そしてお母様の最大の意図は、次世代を担う若き貴族の子息が一堂に会するこの場で、将来の婚姻に向けた「顔合わせ」を行うことだった。
12歳という若さではあったが、私にはお母様の真意が痛いほど理解できた。あの日、地獄を見た私だ。家のために、そして自身の将来のために、少しでも有利な立ち位置を確保できるよう完璧に振る舞うと心に決めていた。
晩餐会が始まると、会場の空気は一変する。 現時点で最も強大な権力を持つ貴族――不死鳥(フェニックス)の家紋を抱くアンブローズ家の長男が姿を現したのだ。
白を基調とした絢爛な衣装を纏い、うねる金をなびかせたフィリックス様。 まさに「俺こそが王者だ」と言わんばかりの圧倒的な自信と覇気を撒き散らしながら、彼は入口をくぐり抜けてきた。人々が一斉に群がる。
私は慌てる気持ちを抑え、あえてワンテンポ遅らせて優雅に一歩前へ出た。スカートの両端をそっとたくし上げ、洗練された美しい動作で礼を取る。
「ごきげんよう、フィリックス様」
すると、フィリックス様は私の前に立ち止まり、ゆっくりと私の手を取った。そして、手の甲へ落とされた一筋の口づけ。
「ごきげんよう、空の君」
妖艶な笑みを残し、彼はそのまま会場の奥へと進んでいった。 あまりの出来事に、私はただ驚き、しばしその場に佇んでしまうことしかできなかった。
呆然とする間もなく、次々と注目の子息たちが立ち代わり現れた。
続いて現れたのは、軍神を家紋に戴く武力の象徴、マルス家の子息。 少しふっくらとした体型に、鮮やかな蒼い髪をしたソル様だ。
私はすぐさま態勢を整え、再びスカートを優雅にたくし上げた。 「ごきげんよう、ソル様」
ところが――ソル様はすれ違いざま、私の尻を不躾に撫で回したのだ。 「へへっ、おしりさーわった!」 ケタケタと無邪気な声を上げてそそくさと去っていくソル様の後ろ姿を、私は絶句して見送った。社交界の洗礼にしてはあまりに下品で、「このような場でこんなことがあっていいのか」と内心激しいショックを受けた。
次に現れたのは、シマウマを家紋とするベンディ家の子息。 黒髪で長身、すらりとしたスタイルのゼノ様だ。
「ごきげんよう、ゼノ様」と挨拶を捧げると、彼は屈託のない笑顔で手を差し出してきた。私が戸惑いつつもその手を握ると、力強く握り返される。
「初めまして、これからも是非よろしくお願いします。」 「ええ、喜んで」 ソル様と違い抑揚のない喋りかたに、私も思わず固い笑顔で応えていた。
四人目は、蝶を家紋とするパピヨン家の子息。 妖しい紫の髪に褐色の肌、身体のラインにぴったりとフィットした衣服を着こなすマリオ様だ。
「ごきげんよう、マリオ様」 頭を下げた瞬間、ふわりと甘い香りに包まれた。彼は私を優しく抱きよせ、耳元で囁いた。
「ありがとう、愛しの人よ」 極上の微笑みを残して立ち去る彼の異国風のエキゾチックな作法に、私の胸は不覚にもド真ん中に打ち抜かれたようにドキリと跳ね上がった。
そして最後は、巨人を家紋とするゴライアス家の子息。 2メートル近い巨体と黒い短髪、爽やかな笑顔が印象的なビショップ様だ。
私が挨拶をしようと腰を落かけたその瞬間――身体が軽々と浮き上がった。ビショップ様が私をそのまま抱き上げたのだ。
「挨拶しようとしてくれてありがとうな。だが、うちの家系では淑女に先に挨拶させるのは失礼とされていてね。俺の名前はビショップ。今後ともよろしく」
私をそっと床に戻すと、彼は爽やかに去っていった。
事前に母親から言い渡されていた最重要貴族たちへの挨拶をすべて終え、私はほっと胸を撫で下ろした。
……その時だった。
目の前に、見知らぬ同世代の少女が立ちふさがっていた。 艶やかな黒髪に、私よりも小柄な体躯。小動物のような可愛らしい顔立ちをした彼女は、全身を小刻みに震わせ、俯いていた。
そして、ぽつりと吐き捨てるように呟いた。
「……ずるい」
「……え?」 聞こえなかったのかと思い、私は尋ねた。 「何か、ずるいことがございまして?」
少女は嫉妬に歪んだ瞳で私を睨みつけ、声を荒げた。 「あなただけ王子様たちから挨拶を受けて……ずるいわ!」
その言葉を聞いた瞬間、私は呆れを通り越して猛烈な違和感と驚愕を覚えた。
(……ずるい、ですって……?)
今回の晩餐会に向けて、私のお母様は多大な資金を投じてパトロンとなり、会場の運営に貢献していた。だからこそ、私たちは入場口の一番良いポジションを確保し、誰よりも早く重要な貴族たちへ挨拶をする権利を得ていたのだ。
それは家としての正当な対価であり、貴族社会における当然の知略と戦略である。 にもかかわらず、何の投資も努力もせず、ただ指をくわえて見ていただけの彼女が、私に向かって「ずるい」と言い放ったのだ。
(お母様から嫌というほど叩き込まれたわ。払った資金の重みも、格上の貴族に失礼のないよう準備を重ねる大切さも……。それを『ずるい』の一言で片付けるなんて……)
貴族でありながら、その裏にある仕組みも理解せず、ただ感情のままに嫉妬をぶつけてくる少女の幼さに、私は心の底から衝撃を受けた。
その後、他の同世代の女性貴族たちとも歓談を楽しんだが、件の少女のように常識外れな言い掛かりをつけてくる者は一人もいなかった。
宴が終わりに近づく頃、お母様から「及第点ですね」と小さく頷く評価をいただき、私は無事に初めての晩餐会を終えることができた。
あの日、馬糞の臭いの中で学んだ「恵まれた者の義務」。 そしてこの日、社交界の華やかさの裏にある「戦略と対価」。
幼少期という長い準備期間を終え、大人たちの狡猾で華麗な世界へと足を踏み入れたこの晩餐会こそが、私にとって少女時代の最後の1ページだったと、今でも鮮明に思い出せるのだった。

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