乙女ゲームに転生できたのに思い通りにいかない 第三話

社交界デビューを果たし、幼いながらも着実に貴族としての交友関係を広げていった私は、月に一度、同世代のご令嬢たちを招いてお茶会を開くようになっていた。

そこに、あの初日に私へ「ずるい」と食ってかかってきた少女の姿はもちろんない。

数回目のお茶会を迎え、お互いの緊張もほぐれてきた頃。私はふと思い出し、喉まで出かけていた疑問を口にした。

「そういえば……初めての晩餐会の時、私に『ずるい』と食ってかかってきたあの方のことが少し気になっていて。確か、ハートの家紋を掲げたお家だったと思うのですが……」

私の問いに、仮面の家紋を抱くマスク家の長女、ローラ様が少し気まずそうに紅茶のカップを置いた。

「ああ……あの子ね。あの子は最近ヴァレンタイン家の養女になった、ヴィヴィアンという子よ。もともと平民の出身らしくて……まあ、そういうことね」

「まあ、私も聞いたことがございますわ!」 豊穣の女神の家紋を抱くデルメル家のテレーズ様が、待ってましたと言わんばかりに身を乗り出した。

「ミレーユ様がスポンサーとしてあのお場を用意され、名家のご子息方にちやほやされているのを見て、すっかり勘違いしてしまったらしいの。『私だって同じように仲良くなれる』と思い込んで、別のパーティーで距離感を間違えて話しかけたそうよ。ヴァレンタイン家は大恥をかいたみたい」

テレーズ様はやれやれと両手を広げて首を振る。 「もっとも、名家のご子息方はお優しいから『面白い女性ですね』なんてクールにいなしてくださったそうなのけれど……あの子、それすら『自分に気がある』と勘違いして、次のパーティーでもまた不躾に馴々しく接しているらしいわ。まったく、平民が紛れ込むとロクなことがありませんわね」

「まあまあ、そんな無粋なお話は終わりにいたしましょう。もっと楽しいお話をしませんこと?」 そう言ってニヤニヤと笑みを浮かべたのは、幸運の十字を家紋とするスワスティカ家のブロンテ様だった。

「楽しい話って何かしら?」と興味津々のローラ様。 ブロンテ様は、悪戯っぽく瞳を輝かせて言った。

「皆さま、恋……なさっていらっしゃいます?」

その場にいた全員が、きょとんとした顔で固まった。 その反応を見たブロンテ様は、大袈裟に肩をすくめてみせる。

「まあ! 我々もあと数年もすれば、家からの持参金を手に、少しでも良い家柄のご子息様に見初められるよう嫁ぐ運命ですのよ? ですが……その前に一度くらい、身も心も焦がすような『燃えるような恋』をしてみたいとは思いませんこと?」

テレーズ様が興奮気味に身を乗り出す。 「と、言いますと……?」

「私たちは平民と違って自由な恋愛など許されず、家が決めた婚姻に従うしかありませんわ。であればせめて若いうちに、誰か素敵な殿方と情熱的な恋に落ちてみたいじゃない!」 「ああ、分かるわ……! でも、そんなドラマチックな出会いなんてございませんものね」

二人が盛り上がる中、私はまったく理解できないという顔で冷ややかに言葉を挟んだ。

「……何を仰っているのですか。我々貴族は不自由のない贅沢な暮らしを享受しているのですから、恋だの愛だのといった個人的な感情は、我慢しなければならないものではありませんの?」

ブロンテ様は遠い目をして、溜息をついた。 「まあ、仰る通りなのですけれどね、ミレーユ様。……せめて夢の中だけでも楽しもうではありませんか」

そう言って、ブロンテ様は持参した鞄から何冊かの本を取り出し、私たちに配った。

「最近流行りの恋愛小説ですの。皆さま、せめてこれで心を慰めましょう?」

私たちはそれぞれ本を受け取り、その後はたわいもない雑談に花を咲かせてお茶会は幕を閉じた。

その夜。ベッドに入る前、私は戯れにブロンテ様から貰った本を開いてみた。 表紙には『燃えるような恋』と金文字で刻まれている。

(……くだらない)

そう思いながらもページをめくっていくと、そこに書かれていたのは目を覆いたくなるような惨憺たる物語だった。

結婚早々に夫を亡くした未亡人が、ある貴族の愛人となる。最初は単なる割り切った遊びのつもりだったが、次第に未亡人は男に深く夢中になっていく。しかし逆に貴族の男は次第に彼女に飽き、疎遠になっていく。 男を忘れられない未亡人は、最後に男との心中を図ろうとするが――返り討ちに遭い、惨めにも命を落とす。

「……ハッ、本当にくだらないわ」

ため息をつき、私は本を机の上へ放り投げた。 やはり恋だの愛だのは、人間を愚かに狂わせるだけの毒でしかない。

さて休もうかと思ったところで、喉の渇きを覚えた。サイドテーブルの水差しを見ると、あいにく空になっている。 この時間、侍女たちは既に下がらせていた。仕方なく、私は自分で水を汲みに一階のキッチンへと向かうことにした。

廊下を歩いていると――母の部屋の前を通りかかった時だった。

「……ッ、ん……っ……」

押し殺したような、しかし荒々しい息遣いが漏れ聞こえてきた。明らかに、お母様の部屋からだ。

泥棒か、あるいは病気か。胸を騒がせながら、私はそっと隙間から部屋を覗き込んだ。

息が止まった。

月明かりが差し込む部屋の中で、衣服を脱ぎ捨て、裸で固く抱き合っている一対の男女がいた。 一人は間違いなく、私のお母様。 そしてもう一人は――我が家の親族であり、普段は恐ろしいほどの威厳を纏っているレオン叔父様だった。

叔父様は、日頃の厳格な表情からは想像もつかないほど淫らで情けない顔をして、お母様に貪りついている。

幼いながらも、それが何が行われているのか……「夜伽」という行為であることはすぐに理解できた。 だが、あまりの衝撃に身体が金縛りに遭ったように動かず、視線を外すことすらできない。

その時――ふと、お母様と目が合った。

お母様は一瞬、私に向かって妖しく微笑んだ。 そして、私など最初から存在しないかのように視線を外し、そのまま何事もなかったかのように叔父様との行為を続けたのだった。

「っ……!」

ハッと我に返った私は、弾かれたようにその場を離れ、足音を殺して自室へと駆け戻った。

ベッドに飛び込み、毛布をかぶっても、先ほどの光景が脳裏に焼き付いて離れない。 初めは思春期の不意な体験による興奮だった。だが、時間が経ち冷静さを取り戻すにつれ、私の心を満たしたのは激しい「怒り」だった。

お父様が亡くなって数年が経つとはいえ、実の叔父様とあのような不貞の関係を結ぶなんて。 そして叔父様も叔父様だ! 妻子を持ちながら、亡き兄の妻と肌を重ねるなど、不潔で愚かしいにも程がある!

(……恋をしてみたい、ですって?) (……『燃えるような恋』の未亡人……)

昼間のお茶会での能天気なやり取り。 後味の悪い恋愛小説の結末。 そして、お母様と叔父様の醜悪な肉体関係。

怒りと興奮、疑問と吐き気が頭の中で渦を巻き、ぐるぐると狂ったように駆け巡る。 混乱のまま、私はいつしか浅い眠りへと落ちていった。

……夢を見た。 夢の中で、先日の晩餐会で出会った5人の子息たち――フィリックス様、ソル様、ゼノ様、マリオ様、ビショップ様が、私を巡って剣を抜き、血を流しながら争い合っていた。 彼らは私を奪い合おうと、「燃えるような情熱」を剥き出しにして凄惨に殺し合う。 最後の一人が決まろうとしたその瞬間――刺すような光が視界を撃ち抜いた。

「お嬢様、お時間でございます」

「はぁっ……! はぁっ……!」

飛び起きた私の呼吸は激しく乱れ、全身は嫌な汗で湿っていた。 侍女が心配そうに覗き込んでくる。

「お嬢様……顔色が優れませんわ。悪夢でもご覧になりましたか?」

私は荒い息を必死に整え、冷たく言い放った。 「……何でもないわ。下がりなさい」

その日の日課である家庭教師の講義も、まるで頭に入らなかった。頭の中は終日、昨夜目撃した惨劇と、お母様への不信感で破裂しそうだった。

夕刻。日課の勉強が終わるやいなや、私はお母様の執務室へと突撃した。

バンッ! と乱暴に扉を開け、声を荒げる。

「お母様!!」

お母様は顔すら上げず、いつも通りの澄ました顔で書類にペンを走らせていた。

「何ですか、騒々しい。貴族の令嬢たるもの、扉の開閉一つにも品位を持ちなさい」

その平然とした態度に、私の頭の導火線が弾けた。

「昨日のあれは……! あの見苦しい行為は何なのですか!!」

お母様はペンを止め、ゆっくりと私を見つめた。その瞳には、色香も動揺も一切ない、あの冷酷な光が宿っていた。

「私はね、ミレーユ。盗み聞きや覗き見をして、それをペラペラと騒ぎ立てるような、はしたない娘に育てた覚えはありませんよ」

「っ……あ、あれは不貞でしょう!? お父様への裏切りです! お母様はお父様を愛していらっしゃらなかったのですか!?」

お母様は小さく溜息をつき、静かに背もたれに寄りかかった。

「あの人が亡くなって、もう何年経つと思っているのです。……貴女、この国の法律を勉強しましたね? 未亡人が夫の死後、別の男性と関係を持つことが、果たして何の罪になるのかしら?」

「ぐっ……」

言葉が詰まる。法律上、何の違反でもない。完全にこちらの感情論だ。

お母様は冷ややかな笑みを浮かべ、静かに立ち上がった。

「……そろそろ、貴女にも『次の教育ステップ』が必要なようですね」

「え……?」

急に口調を変えたお母様に、私は気圧されて押し黙った。お母様は窓の外を見つめながら、静かに語り始める。

「一昨年の大不作を覚えていますか? あの年、我が家の食卓の品数がほんの少し減りましたね。……ですが、平民にとっては『少し』どころではなかったのよ。まさに生死の境目だった。それを救い、我が領地に莫大な食糧援助を取り付けてくれたのは誰だったか覚えているかしら?」

「……レオン叔父様、です……」

「ええ。叔父様は一切を表に立ち出さなかったけれど……あの援助の条件はね、『私』だったのよ」

私は息を呑んだ。

「叔父様は、あの人が存命だった頃からずっと、私をそういう目で見ていたの。……我が領民を餓死から救うため、私は叔父様の要求を受け入れた」

頭を殴られたような衝撃だった。 私は……何も知らず、ただ「不潔だ」「不貞だ」と騒いでいただけの、愚かで幼い子供だったのだ。

「お、お母様……私……」

「勘違いしないで頂戴」

お母様は私の言葉を遮り、冷徹に言い放った。

「別に私は、被害者ぶるつもりも、レオン叔父様を嫌々受け入れたわけでもないわ。……ただね、自分という『商品』を差し出すなら、一番高く売れる最高のタイミングでなければならないということよ」

お母様は私の前に歩み寄り、私の両肩を強く掴んだ。

「以前も教えましたね。我々貴族が恵まれた生活を送る代償として、何よりも平民を生かさなければならないと。そのためならば――この身体すらも、交渉の強力なカード(切り札)の一つに過ぎないのよ」

私は、目の前に立つ「母親」という存在の恐ろしさに、背筋が凍りつくのを感じた。

「昨日のレオン叔父様の顔、覚えているかしら?」

あの日、日頃の威厳をかなぐり捨て、お母様に溺れていた叔父様の惨めな顔が脳裏に浮かぶ。

「男なんてね、どんなに偉そうにしていても、結局はあんなものなのよ。特に若い男なんて、扱い易いことこの上ないわ。……ミレーユ。貴女がこれから将来に向けて、この強大な男たちをコントロールできるよう、私がみっちりと『練習』させてあげます」

そう言って始まったお母様の指導は――ブロンテ様たちが夢見るような綺麗な「恋」とは、遥か遠くかけ離れた、毒と欲望が渦巻く極めて実利的な「女の兵法」だった。

こうして私は、少女の皮を脱ぎ捨て、本当の意味での「大人(貴族)の女性」へと足を踏み入れていくこととなったのだった。


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