蒼い地図の余白に、君が書き加えた明日 エピローグ

東京の私立大学、サークル棟の四階。 無機質なコンクリートの壁に囲まれた一室で、**真壁 航(まかべ わたる)**はパイプ椅子に座り、文庫本を読んでいた。

大学三年生になった航は、相変わらず長身で、少し度が進んだ眼鏡をかけている。 彼が立ち上げたサークル「地域文化研究会」は、まだできたばかりの弱小団体だ。都会の学生たちは、華やかなイベント系サークルや、就活に有利なビジネス系団体に流れていく。地味なフィールドワークを主とするこの研究会の部員は、今のところ航一人だけだった。

「……まあ、あの時と同じか」

航は本から目を離し、窓の外に広がる新宿のビル群を眺めた。 あの地方都市の、夕焼けに染まる木造校舎とは何もかもが違う。埃の匂いも、窓から見える山の稜線もない。

この二年間、彼は必死に大学生活を送りながら、遠く離れた場所にいる「彼女」を想い続けてきた。 電話やメッセージのやり取りは毎日欠かさなかった。長期休暇には互いの街を行き来した。けれど、「日常」の中に彼女がいない寂しさは、常に心の片隅にあった。

彼がこのサークルを作ったのは、自分が歴史好きだからという理由だけではない。 いつか彼女が東京に来た時、二人がまた並んで歩ける「拠点」を作っておきたかったからだ。

今日は新入生歓迎期間の最終日。 ここ数日、見学者はゼロ。今日もこのまま終わるだろうと、航が諦めかけた時だった。

バンッ! と、鉄製の重いドアが、景気の良い音を立てて開け放たれた。

「失礼します! ここが、東京の埋もれた記憶を掘り起こす、最前線基地ですか!」

航は読んでいた本を取り落としそうになった。 その声。その勢い。その、聞く者を一瞬で自分のペースに巻き込む独特のイントネーション。

入り口に立っていたのは、ショートカットの髪を少しだけ伸ばし、都会的なトレンチコートを羽織った、小柄な女子学生だった。 二年経っても変わらない、太陽のような眩しい笑顔。

「……陽葵」 「お久しぶりです、部長! ……あ、今は『代表』って呼ぶべきですか?」

**小鳥遊 陽葵(たかなし ひまり)**は、コートのポケットから一枚の紙を取り出すと、航の目の前の長机にドンッ、と叩きつけた。入部届だった。

「一年生、小鳥遊陽葵です! 専攻は日本史学! 趣味は、この大学のキャンパスの下に眠る、江戸時代の武家屋敷跡の遺構を探ることです!」

彼女はニカッと笑い、航の顔を覗き込んだ。 「あのね、部長。この大学、私が受験するって決めた時、最初に調べたの。そしたら、すごく面白い場所に建ってるって分かって! ほら、あそこの坂道、実は明治時代に……」

陽葵の口から溢れ出すマニアックな知識の奔流。 航は、懐かしさと、愛おしさと、そして安堵感で、胸がいっぱいになった。

ああ、帰ってきたんだ。 あの埃っぽい部室で過ごした、騒がしくて愛おしい日々が。

「……陽葵さん。君は、本当に変わらないな」 航が眼鏡を外して目頭を押さえると、陽葵が少しだけ照れくさそうに頬を掻いた。

「そうですか? 結構、都会の女子大生っぽくなったつもりなんですけど」 「中身の話だよ。……よく、頑張ったね」

航が立ち上がり、手を差し伸べる。 「合格、おめでとう。そして、上京おめでとう」

陽葵は一瞬、泣きそうな顔をしたけれど、すぐに満面の笑みでその大きな手を両手で握り返した。

「はい! 会いたかったです、部長!」 「僕もだよ」

二人の手が、しっかりと繋がれる。 窓の外では、東京の街が夕暮れに染まり始めていた。ビル風が吹き抜ける音がする。

「さて、新入部員第一号。最初の活動は何にする?」 航が尋ねると、陽葵はリュックから、すでに付箋だらけになった東京の区分地図を取り出した。

「決まってるじゃないですか! まずは、この大学周辺の古道探索です! 部長、カメラ持ってください! 私、すごい石碑を見つけてあるんです!」

陽葵が航の腕を引く。あの高校時代と同じ、強引で、温かい力。

航は苦笑しながら、カメラを首から提げた。 「やれやれ。また振り回される日々が始まるのか」 「ふふっ、覚悟しておいてくださいね。東京は広いですから、調査しなきゃいけない場所、山ほどありますよ!」

コンクリートの部室を出て、二人は都会の雑踏へと駆け出していく。 彼らの手には、まだ余白だらけの新しい地図。 そこに、これから二人で、どんな明日を書き加えていくのだろうか。


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