廃教室の空気は淀み、カビと鉄錆、そして微かな焦げ臭さが漂っていた。スマートフォンのライトが、薄暗い部屋の中で唯一の光源として、床に這いつくばる透を照らし出している。
「おい、どうした透。視聴者様がお待ちかねだぞ。早く食えよ」
黒田の声は弾んでいた。彼が手にするスマホの画面には、数百人という視聴者数が表示され、残酷な煽りコメントが滝のように流れている。 透の目の前に置かれた皿には、給食の残飯と泥、そして錆びた画鋲が混ぜ合わされた異臭を放つ塊が盛られていた。
「……う、っ……」 「『う』じゃねえよ。いただきます、だろ?」
黒田が革靴の爪先で透の脇腹を蹴り上げる。鈍い音が響き、透は息を詰まらせた。 拒否権などない。透は震える手でそれを掬い上げ、口へと運んだ。ジャリ、という砂の音と共に、口腔内に鉄の味が広がる。画鋲が歯茎に刺さり、血が溢れ出した。
「ははは! 見ろよこいつ、泣きながら食ってやがる! 最高だな!」
黒田は哄笑し、吸っていたタバコを透の腕に押し付けた。 皮膚が焼ける音。鼻を突く肉の匂い。透の喉から、声にならない絶叫が漏れる。
「泣くなよ、駄犬。これは躾だ。お前は俺たちの玩具として、一生俺の靴の裏を舐めて生きるんだよ」
カメラ越しに見える世界中の嘲笑。黒田の歪んだ笑顔。 その瞬間、透の中で張り詰めていた糸が、音もなく焼き切れた。 恐怖が怒りへ、絶望が殺意へ、そしてもっと根源的な「力」へと変質し、脳髄を黒く塗りつぶしていく。
(許さない。死ぬことさえ、許してやるものか)
異変は、翌日から静かに、しかし確実に黒田の日常を侵食し始めた。
最初の予兆は、黒田の腹心である男子生徒に訪れた。 昼休みの食堂。彼が突然悲鳴を上げ、自分の右手をフォークで突き刺し始めたのだ。「指が、指が勝手に動く!」と叫びながら、彼は白目を剥いて倒れた。 黒田は「あいつ、何かヤバい薬でもやったのか」と笑い飛ばしたが、その手は微かに震えていた。
三日が過ぎる頃には、黒田の精神は摩耗し始めていた。 食事が喉を通らないのだ。どんな高級な弁当も、口に入れた瞬間に腐ったドブ泥の味に変わる。水を飲めば、それはザラザラとした砂に変わり、喉を切り裂くような痛みが走る。 空腹と乾きに苛立ち、洗面所の鏡を見た黒田は凍りついた。鏡に映る自分の背後に、無数の人間の目が浮かび上がっては消えていく幻覚が見えたからだ。
「誰だ……誰がやってんだ……!」
誰もいない自室で怒鳴り声を上げるが、返ってくるのは壁がきしむ不気味な音だけ。 さらに、彼の社会的地位を支えていた父親の不正の証拠――裏帳簿のデータや買収の録音――が、ある朝突然、ネット上に流出した。火元は不明。黒田の家には連日マスコミが押し寄せ、学校でも教師たちが彼を腫れ物のように扱い始めた。
一週間後。黒田は別人のように痩せこけ、目の下にどす黒い隈を作って廊下を歩いていた。 階段を降りようとしたその時、背中に「誰かの手」の感触があった。 誰もいないはずなのに、確かにドン、と強く突き飛ばされた。
「ひっ!?」
無様に転がり落ち、踊り場で身体を強打する。激痛が走る左腕は、不自然な方向に曲がっていた。 うめき声を上げて顔を上げると、階段の上から透が見下ろしていた。 表情のない、深淵のような瞳。透は何も言わず、ただ口元だけで「まだだ」と動かしたように見えた。
満月の夜、深夜の旧校舎。 黒田は導かれるようにそこへ足を運んでいた。頭の中に直接響く、「来なければ心臓を破裂させる」という透の声に逆らえなかったからだ。
「……透……! 頼む、もう許してくれ……!」
ギプスと包帯だらけの黒田が、埃まみれの床に崩れ落ちる。かつての王の威厳は見る影もなく、ただの怯える小動物に成り下がっていた。
闇の中から、透が音もなく現れる。その足は床に着いておらず、数センチほど宙に浮いていた。
「黒田くん。君は僕に言ったよね。『一生、足の裏を舐めて生きろ』って」
透の静かな声が、廃墟の静寂に響く。 彼は右手を軽く持ち上げ、指をパチンと鳴らした。
バキッ、バキバキッ!
乾燥した枝を折るような音が連続して響き、黒田の両足の骨が見えない圧力によって粉々に砕かれた。
「ぎゃあああああああああっ!!」
喉が裂けるほどの絶叫が上がる。黒田は痛みにのた打ち回るが、見えない鎖に縛られたように、その場から逃げることはできない。
「痛い? でも、まだ喉は無事だね。声が出るうちは、まだ『躾』が足りないかな」
透はポケットから、かつて黒田が愛飲していたタバコを取り出し、火を点けた。彼自身は吸わない。赤く燃える火種を、宙に吊り上げられた黒田の目の前へゆっくりと近づける。
「ひぃっ、やめ、やめろ……!」
「君が僕にやったことだ。忘れたとは言わせないよ」
ジュッ。 火種が黒田の頬に押し当てられる。皮膚が焼け焦げる臭いが立ち込める中、透は無表情のまま、淡々とその作業を続けた。 焼いては、超能力で傷を強引に塞ぎ、治った皮膚をまた焼く。 死ぬことも、気絶することさえ許されない。痛みという感覚だけが、永遠にループする地獄。
数時間が経過しただろうか。 廃校舎には、すでに悲鳴さえ響かなくなっていた。 精神が完全に崩壊し、虚ろな目をした黒田が、床に転がされている。
「……して……ころ……して……」
黒田の唇が微かに動き、死を懇願する。 透はその顔を冷ややかに見下ろし、ゆっくりと首を横に振った。
「死んで楽になろうなんて、虫が良すぎるよ。君の人生は、これからは僕のものだ」
透は、かつて黒田が履いていたような高価な革靴の爪先を、黒田の鼻先に突き出した。
「ほら、言っただろ? 犬は飼い主に従うものだって」
黒田の瞳から、理性と尊厳の光が完全に消え失せた。 彼は震える体で這いつくばると、透の靴にすがりつき、夢中でその靴底を舐め始めた。まるで、そうすることでしか許しを得られないことを悟った獣のように。
「いい子だ」
透は満足げに黒田の頭を踏みつける。 窓から差し込む青白い月光が、主従の逆転した二人を残酷なまでに美しく照らし出していた。
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