まほろし奇譚 2話

カラン、と氷がグラスの縁に当たる音が、水底のように静かな店内に響いた。

Bar「宵闇」。路地裏の地下にあるその店で、橘エミは死んだような目をしていた。目の前には空になったグラスが五つ。度数の強い酒を流し込んでも、胃の底に溜まった鉛のような重さは消えない。

「……もう、殺してやりたい」

酔いに任せた物騒な呟きも、今の彼女にとっては切実な願いだった。 大手衣料チェーンの店長。聞こえはいいが、現実は毎日怒鳴られ、頭を下げるだけのサンドバッグだ。ここ数ヶ月、山田源三郎という老人のクレームは、もはや暴力の域に達していた。

思い出すだけで胃液が逆流しそうになる。

先週は**「ポイントカードの後出し」**だった。会計後にわざとカードを出し、「お前が聞かなかったのが悪い、打ち直せ」と、長蛇の列ができる土曜の昼間に三十分もレジを占拠した。後ろに並ぶ客たちのイライラした視線が、全てエミに突き刺さるのを、山田は薄ら笑いで眺めていた。

昨日は**「電話の拷問」**だ。一番忙しい夕方に電話をかけてきて、「今、クレーム内容を考えているから待て」と無言のまま放置。エミが受話器を置けないのをいいことに、受話器の向こうで煎餅をかじる音を聞かせ続けた。

そして極めつけは、新人バイトの佐藤さんへの**「土下座強要」**。 「いらっしゃいませの声色が、俺を馬鹿にしている」 そんな言いがかりで、泣きじゃくる女子大生を売り場の床に正座させ、三十分も説教を垂れたのだ。佐藤さんは昨日、辞めた。

『明日は、慰謝料を取りに行くからな』 捨て台詞のように残された言葉が、エミの精神を蝕んでいた。

六杯目を頼もうと手を上げた時、視界の端にスッと猪口(ちょこ)が差し出された。

「飲み過ぎだ。肝臓より先に、魂が腐るぞ」

低い、地を這うような声。 エミが驚いて横を見ると、店の奥の暗がりに、その男は座っていた。 漣 蒼介(さざなみ そうすけ)。 ボロボロに擦り切れた怪しげなロングコートを羽織り、現代人とは思えない、どこか浮世離れした鋭利な雰囲気を漂わせている。

「……誰ですか」 「ただの客だ。だが、あんたの背中にへばりついている『瘴気』の臭いが酷くてな。酒が不味くなる」

蒼介は手元の酒を煽ると、ニヤリと笑った。

「その老いぼれ、ただの人間じゃないな? 『百々爺(ももんじい)』に飼われている」

「モモンジイ……?」

「人の劣等感や孤独を喰らって肥え太る妖怪だ。そいつは宿主の老人を操り、周囲に毒を撒き散らす。あんた、このままだと食い殺されるぞ」

エミは言葉を失った。比喩ではない、物理的な寒気が背筋を走る。 蒼介は、コートの懐を軽く叩いて立ち上がった。

「案内しろ。その店へ」

「え、でも……」

「俺は腹が減ってるんだ。久々の『大物』だ」


翌日。店は最悪の空気に包まれていた。 自動ドアが開くと同時に、腐った生ごみのような悪臭が漂った気がした。山田源三郎だ。

山田は一直線にレジへ向かうと、カウンターにドン!と汚れた杖を叩きつけた。

「おい店長! 昨日の件だ! 俺はあの電話のせいで気分を害して、夜も眠れなかったんだぞ!」

エミが震えながらバックヤードから出てくると、山田はニタニタと黄色い歯を見せて笑った。

「精神的苦痛への賠償だ。この店の服、ここからここまで全部タダにしろ。あと、帰りのタクシー代として一万よこせ。それで許してやる」 「そ、そんなこと、できるわけが……」 「あぁん!? お前、客に指図するのか? 本社に電話してクビにしてやろうか! お前の実家の住所も調べてあるんだぞ!」

嘘か本当か分からない脅し。けれど、山田の目には確かに狂気が宿っていた。 エミの膝から力が抜ける。もう、言い返す気力もない。このまま言いなりになった方が楽なんじゃないか――。

その時だった。 冷たい風と共に自動ドアが開き、ボロボロのコートを纏った男――漣蒼介が入ってきた。

「……あ、あんたは」 エミが顔を上げる。

「騒がしい店だ。外まで腐臭が漏れてるぞ」 蒼介は土足で店内を闊歩し、山田の背後に立った。

「あぁ? なんだ若造、俺の説教の邪魔をする気か!」 山田が唾を飛ばして振り返る。 「俺は『お客様』だぞ! 神様だぞ! この店がどうなってもいいのか!」

蒼介は冷ややかな目で見下ろした。 「神? 笑わせるな。お前はただの餌だ」

「な、なんだと……!」

「若者をいじめ、店員を困らせ、その困り果てた顔を見て優越感に浸る。その腐りきった性根が、美味くて仕方がないらしいな」

蒼介の視線は、山田の背後、何もない空間に注がれていた。 エミには見えた。山田の背中から、どす黒いヘドロのようなものが溢れ出し、無数の目玉がついた巨大な老婆のような影が、山田を操り人形のように抱きかかえているのを。

「グオオオオオオ……!」 影が咆哮を上げる。

「そこを退け、ジジイ。仕事の邪魔だ」

蒼介は目にも止まらぬ速さで懐から右手を引き抜く。指の間には、朱色の文字が躍る**「聖札(せいさつ)」**。

「ひっ、お、俺に暴力を振るう気か! 警察だ! 警察を呼べぇ!」 山田がみっともなく叫ぶ。自分の悪行は棚に上げ、被害者ぶるその姿。

蒼介は一切容赦しなかった。

「――滅(めっ)」

短く吐き捨てると同時に、蒼介は容赦なく踏み込み、聖札を山田の顔面に直接叩きつけた。

バヂィンッ!! 静電気のような破裂音と共に、山田の顔がのけぞる。

「ギャアアアアアアアッ!」

山田の口からではなく、背後の黒い影から、ガラスを爪でひっかくような不快な断末魔が響き渡った。 札から噴き出した青白い炎が、黒い影を一瞬で包み込む。

「熱い! 熱い! 誰か助けろ! 俺は客だぞ! 敬え! 崇めろォォォ!」 山田は錯乱し、何もない空間に向かって命令を叫び続けるが、炎は影を喰らい尽くしていく。

「消えろ」

蒼介の冷徹な一言と共に、影は灰となって霧散した。

あとに残されたのは、床にへたり込んだ山田だけだった。 だが、それで終わりではなかった。

「あ……が……?」

山田が突然、自分の胸をかきむしり、喉を詰まらせたような音を立てた。 白目を剥き、全身が激しく痙攣し始める。

「痛い……痛い痛い痛い痛いッ!! なんだこれはぁぁ!!」

「憑き物は落ちた。だが、傷跡は残る」 蒼介は、床でのたうち回る肉塊を無感情に見下ろした。

「怪異がお前の心の穴を埋めていた。それが無理やり引き剥がされたんだ。心に開いた巨大な風穴は、二度と塞がらない」

「いやだ、助けてくれ! 誰かが、心臓を、針で、ずっと刺してくるんだァァァ!」

山田は床に頭を打ち付け、血が滲んでもなお止まらなかった。 彼が今まで他人に浴びせてきた悪意、蔑み、理不尽な怒り。それら全てが今度は逃げ場を失い、彼自身の内側で刃となって暴れ回っているのだ。

「お前が他人(ひと)に与えてきた痛みだ。一生かけて味わうといい」

「あがッ、ひぎぃッ! 許して、許してくれぇぇぇ!」

山田の絶叫は止まらない。 それは一時的な痛みではない。呼吸をするたびに肺が焼け、瞬きをするたびに孤独の闇が網膜を焼く。死ぬまで終わらない、生き地獄の始まりだった。

周囲の客も、あまりに凄惨なその姿に言葉を失い、誰も近づこうとしない。

「……行くぞ」

蒼介は、永遠の苦悶に囚われた老人を一瞥もしないまま、踵を返した。 エミは、床で芋虫のように蠢き、自らの悪意に焼かれ続ける山田を見つめた。 恐怖よりも先に、背筋が凍るような納得があった。 (これが……報い)

「ありがとうございました……」

エミの震える声に、蒼介は片手をひらりと振っただけで、夜の街へと消えていった。 店の外に出てもなお、山田の苦しむ悲鳴は、呪いのようにいつまでも響いていた。


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