夕暮れの河原。枯れたススキが風に揺れる音に混じって、嗚咽が漏れていた。
小学4年生の鈴木翔太は、ランドセルを放り出し、膝を抱えて泣いていた。 腕を捲ると、赤黒いあざがいくつもある。足にも、背中にも。 同級生の剛田大吾たちによるいじめは、ここ最近、言葉の暴力から肉体的な暴力へとエスカレートしていた。
「……もう、いやだ。学校なんか、行きたくない」
先生に言っても信じてもらえない。親に言えば心配をかける。八方塞がりだった。 いっそ、このまま川に入ってしまえば楽になるのだろうか。 暗い考えが頭をよぎった時、ススキをかき分けて、背の高い影が現れた。
「子供が一人で、そんな顔をするもんじゃない」
低い声に驚いて顔を上げると、時代錯誤な着流しに黒い羽織を纏った男――漣蒼介が立っていた。
「おじさん、誰……?」 「ただの通りすがりだ。だが、お前のその『臭い』は無視できなくてな」
蒼介は翔太の隣に腰を下ろした。その奇妙な存在感に、翔太はなぜか警戒心よりも先に、話を聞いてほしいという気持ちが湧き上がった。
翔太は、ポツリポツリと話し始めた。大吾に殴られること。蹴られること。理由なんてない、ただ自分がそこにいるだけで、彼らは苛立ち、暴力を振るってくること。
蒼介は黙って聞いていたが、翔太が話し終えると、静かに言った。
「少年よ。それは、お前が悪いわけじゃない」
蒼介の鋭い目が、翔太の小さな背中じっと見つめる。
「お前は、『鬼童丸(きどうまる)』に取り憑かれているね」
「え……? きどう、まる?」
「ああ。お前の絶望を餌にする、タチの悪い寄生虫だ。そいつはな、宿主を孤立させ、周囲の人間から理不尽な悪意や暴力を引き寄せる磁石のような性質を持つ」
翔太は呆然とした。自分がいじめられるのは、自分が弱いからでも、何かが劣っているからでもなく、何かが「取り憑いている」せいだというのか。
「あいつらがお前に暴力を振るうのは、お前の中にいる鬼が、そう仕向けているからだ。お前の心をへし折って、完全に身体を乗っ取るためにな」
蒼介は立ち上がり、翔太の頭にポンと手を置いた。
「安心しろ。俺が来たからには、もう好きにはさせん」
翌日の放課後。翔太にとって、学校から家までの道のりは恐怖の時間だった。
人気のない裏道に差し掛かった時、案の定、前方に大吾たちが待ち構えていた。
「おい鈴木ィ。また暗い顔してんのかよ。お前のそういうツラ見てると、ムカつくんだよ!」
大吾が肩を怒らせて近づいてくる。その目は血走り、異常な興奮状態にあった。翔太の中の「鬼童丸」が発する、被害者オーラに当てられているのだ。
「や、やめてよ、剛田くん……」 「うるせえ!」
大吾が拳を振り上げた、その時。
ヒュンッ!
何かが空を切り、大吾の足元に突き刺さった。朱色の文字が書かれた、一枚の和紙――聖札だ。
「な、なんだ!?」 大吾が動きを止める。
「そこまでだ」
路地の陰から、黒い羽織の男が現れた。蒼介だ。
「誰だおっさん! 俺たちの邪魔すんな!」 大吾が威嚇するが、蒼介は一瞥もせず、真っ直ぐに翔太へと歩み寄る。
「少年、じっとしていろ」
蒼介は翔太の背後に回り込むと、懐から取り出した新たな聖札を、翔太の背中に迷いなく貼り付けた。
「――滅(めっ)!」
バヂィィンッ!
青白い火花が散り、翔太の体がビクンと跳ねた。 次の瞬間、翔太の背中から、赤黒い煙のようなものが噴き出した。煙は苦悶の表情を浮かべた子供の鬼の形を成し、断末魔の叫びを上げた。
「ギャアアアアアッ!」
「うわあああ! なんだそれ!」 大吾たちが腰を抜かして後ずさる。彼らの目にも、その異様な光景が見えたのだ。
鬼童丸の影は、聖札の力によって瞬く間に霧散していった。
「……終わったぞ」
蒼介が静かに告げる。 翔太は、自分の体が嘘のように軽くなったのを感じた。常に背中にのしかかっていた重苦しい空気が消え失せ、深く呼吸ができる。
「あ……」
翔太が顔を上げると、そこには呆然と座り込む大吾たちの姿があった。憑き物が落ちたように、彼らの目からは狂気じみた光が消えていた。彼らは自分たちが何をしようとしていたのか、理解が追いついていないようだった。
「お前らも、もう行け」
蒼介が低い声で追い払うと、大吾たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていった。もう二度と、彼らが理由もなく翔太を襲うことはないだろう。
「ありがとう、おじさん……」 翔太の目から、今度は安堵の涙がこぼれた。
「礼には及ばん。子供は、元気に笑っていろ」
蒼介は不器用に翔太の頭を撫でると、羽織を翻して去っていった。
それは、世界の片隅で起きた、小さな事件だったかもしれない。 だが、もしあのまま鬼童丸が翔太を蝕み続けていたら。翔太は絶望の果てに自ら命を絶っていたかもしれない。そして大吾は、知らぬ間に殺人を犯し、一生消えない罪を背負っていたかもしれない。
一人の祓い屋の気まぐれが、二つの未来を、最悪の結末から救い出したのだった。
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