ガラスの導火線 第三話

 工藤との関係は、穏やかな凪のように過ぎていった。  互いに「擬態」した姿で会い、安い居酒屋でグラスを傾け、毒にも薬にもならない話をする。それが心地よかった。彼といる時だけは、私は自分が時限爆弾であることを忘れられた。

 けれど、季節が秋から冬へと変わるにつれ、その凪の水面下で、ある変化が起き始めていた。  当然の帰結だった。30歳の女と、同年代の男が付き合っているのだ。プラトニックな関係だけで満足できるはずがない。  帰り道、繋いだ手のひらに熱がこもる。別れ際、彼の視線が私の唇に吸い寄せられるのがわかる。  彼が求めてくるものを、私は痛いほど理解していた。

 そして、私自身もそれを渇望していた。  30歳にして処女。その事実が、喉に刺さった小骨のように常に私を苛立たせていた。  興味がないわけではない。むしろ人一倍強いかもしれない。だが、その扉を開けることへの恐怖が、欲望を上回っていたのだ。

 ――興奮が、私のトリガーを引く。

 過去の経験から学んだ鉄則だ。怒りや悲しみだけではない。喜びや、性的興奮もまた、私の「コップ」を一瞬で溢れさせる要因になり得る。  もし、行為の最中に私が暴発したら?  想像するだけで、背筋が凍った。愛する人を、この手で肉塊に変えてしまうかもしれない恐怖。

「ごめん、今日はちょっと体調が悪くて」 「来週は、仕事が忙しくなりそうで……」  私はのらりくらりと彼の誘いをかわし続けた。工藤は優しい男だ。私が拒絶の色を見せると、それ以上無理強いはしなかった。寂しげに眉を下げ、「そっか。無理しないで」と微笑むだけだ。  その優しさが、私の罪悪感を膨張させた。  私は彼を騙している。化け物である自分を隠し、普通の女のふりをして、彼の時間を奪っている。  そして何より、私自身の体が、もう限界だと悲鳴を上げていた。

 迎えたクリスマス。  街が浮足立つその日、工藤はいつもの「冴えない彼」ではなかった。  待ち合わせ場所に現れた彼は、きちんとサイズの合ったダークスーツに身を包み、ボサボサだった髪を整え、あの野暮ったい眼鏡を外していた。  息をのむほど美しかった。すれ違う女性たちが、思わず振り返るほどの。

「……今日は、特別だから」  少し照れくさそうに彼が言った。  私のための「武装解除」。その覚悟が嬉しくて、同時に恐ろしかった。  彼が予約してくれたのは、夜景の見える洗練されたレストランだった。いつもなら緊張で素数を数え始めるところだが、その夜の私は、彼のリードに身を任せた。  シャンパンの泡が、理性の留め金を少しずつ溶かしていく。  彼の瞳に映る私は、迷彩メイクの下で、確かに女の顔をしていた。

 店を出て、タクシーに乗り込む。行き先は告げられなかったが、二人の間には明確な合意があった。  ホテルの部屋に入り、ドアが閉まる重たい音がした瞬間、世界が私たち二人だけになった。

 彼が私の眼鏡をゆっくりと外す。 「やっと、本当の顔が見られた」  熱っぽい吐息と共に、唇が重なる。  その瞬間、私の頭の中から、素数も、父の教えも、過去のトラウマも、すべてが吹き飛んだ。  とてつもない快楽の奔流が、足先から脳天まで駆け巡る。  怖い。けれど、止められない。  彼が私をベッドに押し倒し、その手が私のシャツのボタンに触れた時、私は人生で初めて感じる種類の興奮に包まれた。

 ――愛されている。求められている。私は、普通の人間になれる。

 その歓喜が、致命的な引き金となった。

 ドクン、と心臓がかつてない大きさで跳ねた。  まずい、と思った時には遅かった。私の体の奥底にあったダムが、決壊した。  今まで溜め込んできた30年分の欲望と、喜びと、そして恐怖が入り混じった、莫大なエネルギーの塊。

「あ――」  私の口から漏れたのは、喘ぎ声ではなく、破滅の合図だった。

 視界が真っ白に染まる。  鼓膜を突き破るような轟音。  愛しい人の腕の感触は、一瞬にして、爆風という暴力的な衝撃へと変わった。

 ……  …………

 気がつくと、私は半壊した部屋の中心で、瓦礫に埋もれて座り込んでいた。  スプリンクラーが作動し、冷たい水が私の熱を奪っていく。  壁は吹き飛び、鉄骨がむき出しになり、家具は原型をとどめていない。  今までで一番、大きな爆発だった。

「工藤……さん?」

 震える声で呼んだ。  返事はない。  あるはずがない。至近距離で、あれだけのエネルギーを受けたのだ。  舞い上がる粉塵の向こう、崩れた壁の隙間から、冬の夜空が見えた。そこには、彼が身につけていたネクタイの切れ端が、力なくぶら下がっていた。

 サイレンの音が近づいてくる。  私は、自分の両手を見つめた。この手は、愛する人を抱きしめるためのものではなく、破壊するためのものだった。

 涙すら出なかった。  ただ、圧倒的な絶望だけが、空っぽになった心に満ちていった。

 ――やっぱり、私は化け物だ。

 誰かを愛することも、愛されることも許されない。  一瞬でも「普通」を夢見た代償は、これ以上ないほど残酷な形で支払われた。  私は膝を抱え、スプリンクラーの水に打たれながら、自分の中の光が完全に消え失せるのを感じていた。  もう二度と、浮上することはない深い闇の底へ、私はゆっくりと沈んでいった。


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