ガラスの導火線 エピローグ

 中学の入学式から、まだ一ヶ月も経っていないある日の夕暮れ。  豪田家のリビングには、重苦しい沈黙ではなく、テレビのバラエティ番組の音と、まな板を叩く小気味よい音が響いていた。

「おーい、未来(みらい)。ハンバーグの玉ねぎ、目に染みるからお前やってくれー!」

 キッチンから、エプロン姿の父・豪田が叫ぶ。相変わらずの声量だ。  私は、教科書を閉じてため息をついた。

「お父さん、声デカすぎ。近所迷惑だってば」 「はっはっは! うちの近所はみんな耳が遠いから大丈夫だ!」

 適当なことを言って笑う父の背中は、昔の写真で見るよりも少し丸くなり、白髪も増えた。けれど、その頼もしさは変わらない。  私はキッチンに立ち、父から包丁を受け取った。

「……今日、ごめんね。学校呼び出しちゃって」

 私は玉ねぎに目を落としたまま言った。  今日、学校でちょっとしたトラブルがあった。男子生徒がしつこく私の筆箱を隠したのだ。イラッとした瞬間、教室の窓ガラスにヒビが入った。  幸い、風圧で物が落ちた音で誤魔化せたが、先生には「物を投げた」と誤解され、父が呼び出されたのだ。  父は、職員室で私の代わりに直角に頭を下げ、先生たちをその大声と勢いで煙に巻いて帰ってきた。

「ん? ああ、窓ガラスのことか? 気にするな! 俺の頭はな、下げるために付いてるんだ。それに、お前の力が暴走しなかった。ヒビだけで済んだ。それはお前が、ちゃんとブレーキを踏んだ証拠だ。偉いぞ」

 父は、私の頭をガシガシと撫でた。  私は、自分の手のひらを見つめた。  母さんが命がけで守り、私に残したこの力。小さい頃は制御できずに癇癪を起こしたこともあったが、今は父のおかげでなんとかコントロールできている。

「ねえ、お父さん。お母さんも、こんな感じだったの?」

 私が聞くと、父はハンバーグのタネをこねる手を止めた。  リビングの棚には、母・夢香の写真が飾られている。少し寂しげで、でも優しく微笑んでいる写真だ。

「お母さんはな……もっと不器用だったよ。自分の力を呪って、世界を怖がって、一人で震えてた」

 父は懐かしそうに目を細めた。

「でもな、最後は違った。お母さんは、世界を壊す力じゃなくて、未来、お前を守るためにその力を使ったんだ。自分を犠牲にしてな」 「……私が、お母さんを殺したようなものだね」

 私が呟くと、父は私の両頬を大きな手でバチンと挟んだ。

「違う!」

 鼓膜が破れそうな大声。私は目を白黒させた。

「お母さんは、お前を選んだんだ! お前が生きていく未来を、自分の命より愛したんだ。だから、お前が自分を責めるのは、お母さんへの冒涜だぞ!」

 父の顔は真剣だった。その目には、一点の曇りもない。  この人は、いつだってそうだ。私がウジウジ悩んでいると、そのデカい声と熱量で、強引に悩みごと吹き飛ばしてしまう。

「いいか、未来。お前の中には、確かに『爆弾』があるかもしれない。でもな、俺たちは『防音壁』だ」 「防音壁?」 「そうだ。お前のじいちゃんは、静かに耐える盾だった。でも俺は違うぞ。お前が爆発しそうになったら、俺がそれ以上の大声で叫んで、世間の音をかき消してやる。お前が世界を壊しそうになったら、俺が全力で抱きしめて、その衝撃を吸収してやる。俺の体は頑丈だからな!」

 父は力こぶを作って見せた。  その姿がおかしくて、私は思わず吹き出してしまった。

「なにそれ。お父さん、ただの騒音おじさんじゃん」 「なんだと! 騒音とは失礼な! 愛の叫びと言え!」

 二人で笑い合うと、胸の奥にあった黒いモヤが、すうっと晴れていく気がした。

 母さん。  私は、きっと大丈夫だよ。  私には、この最強にうるさくて、最強に優しい「防音壁」がついているから。

「さあ、ハンバーグ焼くぞ! 今日は特大サイズだ!」 「はいはい。焦がさないでよ」

 ジュウと肉が焼ける音と、香ばしい匂いが立ち込める。  それは、ごくありふれた、けれど奇跡のような日常の音。  硝子の導火線はもう、火を噴くことはない。  ここにあるのは、温かな食卓の灯りだけだ。

 写真の中の母が、「よかったね」と笑った気がした。


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