
豪田が父に「お嬢さんをください!」とドデ七い声で頭を下げてから、時間は瞬きするような速さで過ぎ去った。 私は山野夢香から、豪田夢香になった。
ほどなくして子供を授かったとき、私は遺書を書いた。 母は出産で死んだ。陣痛という激痛と、新しい命への愛おしさ。その感情の奔流に、私の「コップ」が耐えられるとは思えなかったからだ。 けれど、私は生き延びた。 分娩室で豪田が「頑張れぇぇぇ!!」と、産む私より大きな声で叫び続けていたおかげかもしれない。彼のうるささに呆れているうちに、私の身体から小さな命がするりと抜け出していた。 生まれたのは女の子だった。 あれから3年。娘はよく食べ、よく笑い、たまに癇癪をおこすが、おもちゃを吹き飛ばすことも、窓ガラスを割ることもない。 どうやら、私の呪われた血は、ここで途絶えたようだった。 私は初めて、心の底から安堵し、普通の母親としての幸福を噛み締めていた。
そんな平穏な水面に、石を投げ込む者が現れた。 主人の会社の部下だという女性だった。 主人はいわゆる「浮気」ができるような器用な男ではない。誰にでも親切で、誰にでも全力なだけだ。けれど、その裏表のない優しさを、自分への好意だと勘違いする人間は一定数存在する。 その女は、まるで発情した雌猫のように執拗だった。 無言電話、ポストへの手紙、そして休日の待ち伏せ。 主人は「困ったなぁ」と頭を抱えるばかりで、邪険にすることもできない。その優柔不断さが、私の神経を逆撫でした。
ある晴れた日曜日。 娘と二人で公園からの帰り道、その女が現れた。 主人がいない時を狙ったのだろう。彼女は私の前に立ちはだかると、狂気じみた目で私を睨みつけた。
「あなたが邪魔なのよ。あの人は私が支えるべきなの。あなたみたいに暗くて、地味で、何を考えているかわからない女じゃ、彼にはふさわしくない!」
その言葉が、私の記憶の棘を深く抉った。 ――あんた、調子乗ってんじゃないわよ。 ――暗いんだよ、化け物。 中学時代、私を取り囲み、罵倒し、そして私が焼き尽くしてしまった少女たちの顔が、目の前の女と重なった。
ドクン。 心臓が早鐘を打つ。視界が赤く染まる。 制御できない。 これは、いけない。今までの比ではない。世界を、この街ごと消し飛ばしてしまいそうなほどの、巨大な破壊のエネルギーが腹の底から湧き上がる。 目の前の女を消し炭にするのは簡単だ。でも、私の後ろには、三歳の娘がいる。
(ああ、ダメだ)
臨界点を超えた。爆発する。 その瞬間、脳裏に浮かんだのは、隻眼の父の寂しげな笑顔と、豪田の暑苦しいほどの満面の笑みだった。
――夢香、お母さんはね、自分自身に力を向けたんだ。
父の声が聞こえた気がした。 私は、湧き上がる爆炎を、歯を食いしばって飲み込んだ。 外へ放出してはいけない。全部、私の中で終わらせるんだ。 私の内側で、何かが粉々に砕ける音がした。内臓が、血管が、細胞の一つ一つが、凄まじい熱量で焼かれ、弾け飛ぶ。 痛みは一瞬で通り過ぎ、感覚が消えていく。
「……え?」 目の前の女が、突然糸が切れたように崩れ落ちた私を見て、後ずさりした。 私はコンクリートの地面に倒れ込んだ。体からは血の一滴も流れていない。けれど、中身はもう、空っぽの抜け殻のようになっていた。
「夢香!!!」
遠くから、聞き慣れたバカでかい声がした。 買い出しに行っていた主人が、全速力で駆けてくる。 私のそばに滑り込み、私を抱き起こす。その温かさが、急速に冷えていく私の体に染み渡る。
「おい、しっかりしろ! 夢香! なんで……!」 主人は泣いていた。女は恐怖に引きつった顔で逃げ去っていった。どうでもいい。
私は、主人の肩越しに、立ち尽くす娘を見た。 娘は泣いていなかった。 ただ、じっと私を見つめていた。その瞳の奥に、私は見てしまった。 小さく揺らめく、青白い光を。 私の体から抜け出したエネルギーが、娘へと流れ込み、受け継がれていくのを。
(ああ……そうか)
遺伝しなかったのではない。まだ、覚醒していなかっただけなんだ。 そして今、私の死を目の当たりにした感情の揺らぎが、彼女のトリガーを形成してしまった。
口を開こうとしたが、声にならなかった。 伝えなければ。この力は呪いかもしれない。でも、大切な人を守るための、最強の盾にもなり得るのだと。 ごめんね。こんな重い荷物を背負わせて。
けれど、不思議と絶望はなかった。 薄れゆく視界の中で、主人の顔がアップになる。 大丈夫。 この人なら。 この、とびきり声が大きくて、誰よりも優しくて、少し抜けているこの男なら。 かつて父が私を守り抜いたように、きっと娘を愛し、守り抜いてくれる。 彼女がいつか爆発しそうになった時、その大きな腕と大きな声で、世界を繋ぎ止めてくれるはずだ。
「……あい、してる」
最期に漏れたのは、爆音ではなく、微かな愛の言葉だった。 私は静かに目を閉じた。 硝子の導火線は燃え尽き、あとには静寂と、託された未来だけが残った。
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