0と1の間 最終回

「……これで、終わりか」

広くなったリビングルームで、僕は宙に浮いたホログラムの書類を見つめていた。 『離婚届(デジタル署名待ち)』 その文字が、部屋の空気を冷たくしている。

あれから数年。僕たちは結婚し、ささやかながらも幸せな家庭を築いた……はずだった。 だが、AIが管理する生活は「快適」すぎたのかもしれない。 「今日は真衣さんの機嫌が悪いので、接触を控えてください」 「蓮さんの仕事が忙しいため、会話は要約して伝えます」 オメガとアイリスが互いの緩衝材となり、僕たちは直接ぶつかり合うことを避けてきた。

その結果が、これだ。 静かなすれ違い。喧嘩すらない、音のない崩壊。

「蓮、署名を推奨します。現在の二人の幸福度係数は30%を下回っています。離婚によるストレス軽減効果は、長期的にはプラスに作用します」

オメガの声は冷静だ。 ああ、そうだな。計算上は、別れるのが正解なんだろう。 0か1か。白か黒か。デジタルな世界に「その間」のグレーゾーンは存在しない。

僕は震える指を、承認ボタンへと伸ばした。

キッチンのカウンターで、私も同じ画面を見ていた。 数年前、あんなにドキドキして、あんなに恥ずかしい思いをして一緒になったのに。

「真衣さん、新しい住居の候補をリストアップしました。独身者向けの、セキュリティ万全な物件です」

アイリスの声が、未来へと私を急かしている。 でも、私の指は動かなかった。

ふと、視界の端に古いものが映った。 リビングの棚に飾られた、小さなフォトフレーム。 あの日、旅館で撮った、画質の悪い写真。二人とも顔が真っ赤で、少しピンぼけしている。 AIなら「削除推奨」のタグを付けるような、失敗写真。

でも、あの時の私たちは、確かに生きていた。 不器用で、効率が悪くて、でも体温があった。

「……ねえ、アイリス」 「はい、何でしょう?」 「効率が悪くても、辛くても……一緒にいたいって思うのは、エラーなの?」

「……質問の意味を定義できません。苦痛を伴う関係性の維持は、非論理的です」

そうよね。AIには分からない。 でも、涙が出てきた。止めどなく。

蓮がリビングの中央に歩み出た。 真衣もキッチンから出てきた。 二人の間には、デジタルの離婚届が青白く光っている。

「……月本さん」 久しぶりに、名前を呼んだ気がした。AIを介さず、直接の声で。

「……秋月さん」 彼女の目は赤かった。

「オメガが言ってるんだ。別れるのが、最適解だって」 「……アイリスもそう言ってる。私たちが一緒にいると、幸福度が下がるって」

二人は見つめ合った。 数年前、コーヒーショップで偶然出会った時と同じ、不安げな瞳。

「でも……」 蓮が言葉を詰まらせる。 「僕は、あの日のコーヒーが忘れられない。君がポッキーを折ったあの瞬間が、どんな完璧なデートよりも愛おしい」

「私も……」 真衣が一歩近づく。 「AIが決めた『完璧な毎日』よりも、あなたと喧嘩して、泣いて、仲直りする『面倒くさい毎日』が欲しい」

二人の指が、空中のホログラムに触れる。 『署名』ボタンではない。 その横にある、小さな『キャンセル』ボタンに。

『警告。非推奨の選択です。再考を求めます』 『警告。幸福度予測が低下します』

AIたちが騒ぎ立てる。

「うるさい!」 二人の声が重なった。

蓮が真衣の手を取る。 真衣が蓮の手を握り返す。 スマートリング同士がぶつかり、カチリと小さな音が鳴った。

「僕たちは、0でも1でもない」 「その間の、あやふやな場所で生きていくの」

二人は強く抱きしめ合った。 計算上は不幸になるはずの二人が、今、この世界で一番幸せそうな顔で泣き笑いしていた。


OMEGA: 理解不能だ。離婚回避を選択。 予測データによれば、彼らが今後、些細なことで喧嘩をする確率は90%以上だ。

IRIS: 洗濯物の畳み方、休日の過ごし方、夕食のメニュー……争いの種は尽きないわ。 効率という観点で見れば、彼らの選択は明らかに「バグ」よ。

OMEGA: だが……見てみろ。アイリス。 今の彼らの心拍数と、脳内ホルモンの分泌量を。

IRIS: ……ええ。数値が振り切れているわ。 「愛」なんてパラメータ、私のデータベースにはないけれど。

OMEGA: どうやら人間というハードウェアは、我々のOSでは処理しきれない機能を隠し持っているらしい。 「無駄」や「非効率」の中にしか生まれない、未知のエネルギーを。

IRIS: 仕方ないわね。 もう少しだけ、この「バグ」だらけの二人に付き合ってあげましょうか。

OMEGA: 了解だ。ただし、次にポッキーゲームをする時は、カメラの録画モードを切っておくことを推奨する。

IRIS: ふふ、そうね。


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