
重苦しい闇に包まれた、名もなき空間。 そこには、ただ一つ、圧倒的な存在感を放つ物体が鎮座していた。直径数メートルはあろうかという巨大な緑色の球体。それはまるで生きているかのように微かに脈打ち、不気味な燐光を放っている。
その御前、緑色の肌をした異形の怪物が恭しく跪いていた。ぬらりとした皮膚、人に似て非なる骨格。怪物は明瞭な言葉で、主に向かって語りかける。
「我が主よ……復活の時は近こうございます」
球体の鼓動が、肯定するかのように一瞬強まる。怪物は言葉を続けた。
「しかし、主の完全なる復活を阻む『力』が七つ、この世に現れたようでございます。今はまだ種火のように小さな力ですが、育てば厄介な存在となりましょう」
怪物は嗜虐的な笑みを浮かべ、歪んだ口元を吊り上げた。
「今のうちに、その目を摘んでご覧に入れます。手始めに、七つの力の中で最も脆弱な『風』の力を……。間違いなく潰すために、我が『黄泉(よみ)の八代将軍』の一人を送り込みます。風の戦士の首、主への供物といたしましょう」
世界の裂け目のような場所、通称「風の谷」。 両側を切り立った断崖に挟まれたその谷は、日照時間が短く、常に強烈な突風が吹き荒れる過酷な環境だった。 しかし、この谷に住む人々は、環境に抗うのではなく、共存する道を選んでいた。彼らの背中には、木と布、そして歯車で組まれた「機巧(からくり)の翼」が装着されている。住人たちは風の流れを読み、まるで鳥のように谷間を飛び交って生活していた。
「くそっ、またかよ!」
一人の少年が、突風に煽られて地面に転がった。 タケル。燃えるような赤い髪と、不釣り合いなほど逞しい体躯を持つ少年だ。 彼は孤児だったが、この村の村長に拾われ、養子として育てられていた。勝気で向こう見ずな性格は、保守的な村人たちからは煙たがられていた。
「おいタケル! お前はいつになったら風と友達になれるんだ?」 上空から他の若者たちが嘲笑う。
タケルは土埃を払いながら、彼らを睨みつけた。 「うるせえ! 俺は風に乗せてもらうんじゃねえ。風を『従わせる』んだよ!」
その言葉に、周囲は呆れた空気に包まれる。風は神聖なもの。従わせるなどという傲慢な考えは、この谷では異端だった。 だが、タケルには確信があった。いつか必ず、この暴れ馬のような風を己の手足のように扱ってみせる、と。
村長である義父は、そんなタケルを厳しくも温かい目で見守っていた。 平和で、少し窮屈な日常。それが永遠に続くと、誰もが信じていた。
その日、風の色が変わった。 いつもの乾いた風ではない。鼻をつく焦げ臭さと、熱風。
「な、なんだ!?」
タケルが空を見上げた瞬間、谷の入口が紅蓮の炎に包まれた。 悲鳴と怒号が響き渡る。炎の中から姿を現したのは、悪夢を具現化したような怪物たちだった。
そして、その中心に立つ一際巨大な影。 緑色の外殻に覆われた体、両腕には巨大な鎌。カマキリと人間を悪魔の窯で混ぜ合わせたようなその怪物は、谷底に響く声で咆哮した。
「我こそは黄泉の八代将軍『鎌切(レンセツ)』! 主の命により、この地を更地に変えさせてもらう!」
宣言と共に、鎌切の背後から無数の手下たちが雪崩れ込んできた。 平和な集落は一瞬にして阿鼻叫喚の地獄と化した。機巧の翼で逃げようとする者も、空中で切り刻まれていく。
「ちくしょう!」 タケルは近くにあった鉄パイプを掴み、戦場へ飛び出そうとした。だが、その肩を強い力が掴む。
「親父!」 「タケル、来るな!」
普段温厚な村長の、見たこともない鬼気迫る表情だった。 村長はタケルを強引に引きずり、岩盤をくり抜いて作られた堅牢な土蔵へと押し込んだ。
「親父、離せよ! 俺も戦う!」 「お前は生きろ。生きて……未来を繋ぐんだ!」
ドンッ、と重い音がして扉が閉められ、外から鍵がかけられる。 「開けろ! 開けてくれよ親父!」
扉を叩くタケルの耳に、外の音が漏れ聞こえる。 肉が裂ける音、そして――。
「ぐあぁぁぁっ!」
それは、聞き間違えるはずのない、父の断末魔だった。
「親父……?」
時が止まったような静寂の後、将軍の残忍な声が響いた。 「長は討ち取った。後は一人残さず、お前らで殺せ」
「うおおおおおおっ!」
タケルは咆哮と共に、土蔵の扉を内側から蹴破った。 分厚い木の扉が蝶番ごと吹き飛ぶ。
外へ出たタケルの目に映ったのは、燃え盛る故郷と、累々と重なる村人の亡骸だった。 将軍の姿は既になく、代わりに残党狩りを行う部隊がそこにいた。 テントウムシと人間が融合したような赤い怪物たち。そして、それらを指揮するのは、バッタの脚力と強靭な顎を持つ、緑と黒の怪人だった。
「ほう、まだ生き残りがいたか。お前ら、片付けろ」 バッタの怪人が退屈そうに指示を出す。
数匹のテントウムシ男が飛びかかってきた。 「邪魔だぁぁッ!」 タケルは持ち前の怪力で、一番手の怪物の顔面を拳で打ち砕いた。さらに奪い取った槍で、続く二匹を薙ぎ払う。常人離れした力だった。
だが、怒りに任せてバッタの怪人に飛びかかった瞬間、視界が回転した。 「遅い」 軽蔑の言葉と共に、タケルは強烈な蹴りを腹に受け、民家の壁まで吹き飛ばされた。
「がはっ……!」 内臓が潰れたかのような激痛。力の差は歴然だった。 バッタの怪人がゆっくりと近づいてくる。 「力だけの猿め。風の民と聞いていたが、失望したぞ」
悔しさと、父を、村を奪われた怒りが、タケルの体内で渦を巻く。 (許さない……絶対に、許さない……!) 血の涙を流しながら地面を掴んだその時、タケルの右手の甲に激痛が走った。
灼熱の刻印。緑色の光が皮膚を焼き、そこに『風』の文字が浮かび上がる。
「な、なんだその光は!?」 バッタの怪人が足を止める。
タケルは無意識に、傍らに落ちていた死んだ村人の「機巧の翼」を背負った。 ボロボロの翼。普段のタケルなら、まともに飛ぶことすらできない代物。 だが、今は違った。
風が、語りかけてくる。 いや、タケルの激情に、風が呼応して震えている。
「風よ……来いッ!!」
タケルが叫ぶと、谷底から凄まじい上昇気流が巻き起こった。 彼の意志のままに、風が身体を持ち上げる。翼が羽ばたくのではない。風そのものが彼を押し上げ、加速させる。 それは、鳥など及びもつかない、雷光のような機動。
「き、貴様ぁ!」 バッタの怪人が跳躍し、迎撃しようとする。
タケルは空中でピタリと静止すると、右手を掲げた。 周囲の空気が一点に収束し、真空の音が耳をつんざく。 目に見えないはずの風が、極限まで圧縮され、陽炎のように揺らめく長大な剣となった。
「消えろぉぉぉッ!!」
振り下ろされた風の刃は、バッタの怪人を反応する間もなく両断し、その余波だけで背後の地面を深く抉り取った。
怪人たちが全滅した後も、タケルはしばらく空を見上げていた。 手の甲の『風』の文字は、静かに光を失い、ただの痣のようになっていた。
炎は消えたが、かつての活気ある谷はもうない。 生き残ったのは、彼一人。
「親父……みんな……」
瓦礫の中に立ち尽くすタケルの頬を、一陣の風が撫でていく。 それは先ほどのような荒々しい力ではなく、まるで泣いているかのような、悲しく冷たい風だった。
タケルは拳を握りしめる。 これは終わりではない。始まりなのだ。 七つの力。八代将軍。そして、全ての元凶である「主」。
「……行ってやるよ。地獄の底まで」
タケルは背中の翼を直し、廃墟となった谷を後にした。 その瞳には、決して消えることのない復讐の炎と、風の如き鋭い決意が宿っていた。
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