七つ風の戦士 第十七話

アンナが仲間に加わったことは、ジョーとフィオにとって何よりの僥倖だった。 彼女が『高橋コンサルタント』の裏口座から引き出した資金により、目先の金欠問題はあっさりと解決。一行は当初の予定通り、西海岸の港から修羅の国へ向かう大型船の、まともな客室を取ることができた。

数週間の船旅を経て、彼らは大陸南方の広大な大地、「修羅の国」へと降り立った。

ジョーの微かな記憶を頼りに、彼らは北の都へと向かった。そこはかつて、武を尊ぶこの国の中枢であり、カグヤの実家である名門貴族の領地があった場所だ。 巨大で豪奢な宮殿は、遠くからでもすぐに見つけることができた。 しかし、その門をくぐろうとした彼らを待ち受けていたのは、カグヤの親族ではなく、完全武装したカマキリやクモの姿をした『ハイ(地の民)』の衛兵たちだった。

「ローのゴミ共が、何の用だ! ここは我らハイの総督府であるぞ!」

問答無用で槍を突きつけられ、宮殿から追い出される一行。 路地裏で途方に暮れていると、物陰から、ボロボロの服を着たローの老人が声をかけてきた。かつてカグヤの家で働いていた、元使用人だという。

「……おやめくだされ。今の修羅の国は、あの頃とは全く変わってしまったのです」 老人は、怯えた目で周囲を窺いながら、この10年の真実を語り始めた。

世界崩壊後、修羅の国もまたハイによって支配体制を乗っ取られた。 しかし、他の国と違い、表向きの役人や権力者は「ローとハイが半々」という、いかにも平等な形をとっていた。

「ですが、それは偽りの姿です。……この国を裏で牛耳る『真・八将軍』の一人、蜂型のハイが分泌する甘い体液……それを混ぜた水や食料を口にした者は皆、麻薬中毒のような状態に陥り、ハイの完全な言いなりになってしまうのです」 逆らう気力すら奪われ、笑顔でハイに隷属するローの民たち。それは暴力による支配よりも、ある意味で恐ろしく、悍ましい光景だった。

「じゃあ、カグヤは……カグヤのお嬢ちゃんはどうなったんだ!?」ジョーが焦って身を乗り出す。

「カグヤお嬢様は……」老人は目を伏せた。 「10年前、世界にあの巨大な木が現れた日。お嬢様は全身傷だらけで屋敷にお戻りになり、そのまま1年間、昏睡状態に陥られました。……そして1年後、奇跡的に目を覚まされたと思ったら、『崑崙山(こんろんさん)へ修行に行く』と言い残し、出て行かれたきりなのです」

崑崙山。それは修羅の国の遥か奥地、八卦の達人である『導師』たちが住まうという、人里離れた伝説の霊山だ。 「それ以来、10年近く、お嬢様からの便りは一切ございません……」

一行の目的地は決まった。彼らは唯一の手がかりを胸に、峻険な崑崙山へと足を踏み入れた。


崑崙山への道のりは、想像を絶するものだった。 道なき獣道をかき分け、崖を登り、猛獣を退けながら進むこと2週間。息も絶え絶えになったジョーたちの前に、雲海に浮かぶような静かな集落が現れた。

そこには、この世の理から外れたような、不思議な静寂が漂っていた。 集落には、カグヤの師匠となる『8人の導師』が住んでいたが、ジョーたちが驚いたことに、その8人の中には、人間(ロー)だけでなく、怪人の姿をした『ハイ』の導師も混ざっていたのだ。 彼らは種族の対立などという俗世の争いを超越した、真の求道者たちだった。

導師の一人である、穏やかな顔つきの若い男が、一行に声をかけてきた。 「よくぞ参られた。貴方たちは、カグヤの仲間だね。……地上の様子は、ここから全て見ていたよ。今、カグヤは『最後の試練』を迎えている」

男の言葉によれば、カグヤはこの9年間、己を極限まで追い込み、8人の導師全ての修行を圧倒的な速度でマスターしたのだという。 「そして今、彼女はあの洞窟に入り、最後の試練に挑んでいる。……修行は我らにも止めることはできない。明日終わるかもしれないし、10年後になるかもしれない。待つほかないのだ」

かくして、当てのない待ち時間が始まった。 しかし、ジョー、フィオ、アンナの3人にとって、この集落での滞在は別の意味で地獄だった。 下界からの情報も、酒も、娯楽も一切ない。ただ風の音と鳥の声だけが響く空間で、俗世にまみれた彼らは、ひたすらに虚無な時を過ごすことになった。


その頃。 集落の近くにある、強力な結界が張られた薄暗い洞(ほこら)の中で。 カグヤは、ただ一人、静かに座禅を組んでいた。

外界の音も光も、一切の情報が遮断された空間。 座禅を組んで、すでに100日を超えようとしていたが、不思議なことに空腹を感じることも、排泄をしたくなることもなかった。ここは、精神と肉体がこの世の理と隔絶された、特異な領域なのだ。

カグヤの頭の中に、試練に入る前の8人の導師たちの言葉がこだまする。 『わずかな期間で、よくぞ我らの教えをマスターした。そして最後の試練の時……この洞に入り、最後の試練に挑むのだ』

『試練の内容は何ですか?』と問うカグヤに、導師はただ一言、こう告げた。 『それを見つけるのも、試練だ』

そう言われて中に入ったものの、この空間では本当に「何も」起きなかった。敵が現れるわけでも、幻覚が見えるわけでもない。ただ、己の心と向き合い、考え続ける日々。

その中で、唯一、常にカグヤの集中を邪魔する存在がいた。 『ミカ』である。

カグヤからすれば、恐怖の極限で意識を手放した時にだけ現れる、全く知らない別人格の謎の存在。そのミカが、頭の中に直接声をかけてくるのだ。

「あーあ! こんな無駄な試練なんかしてないで、さっさと私に体を渡してくれよ! 私なら、こんな試練すぐに力尽くでクリアして見せるぜ!」 「もういい加減やめようぜ、こんなの意味ないって。外に出ようよ!」

日々、そんな余計な発言で集中を妨げてくる。 初めの頃、ミカの姿はカグヤの精神世界の中で『黒いモヤ』のようにしか見えていなかった。しかし、カグヤの精神が研ぎ澄まされていくにつれ、徐々にその姿ははっきりと形を成し、今では「自分と全く同じ姿をしたミカ」が、目の前であぐらをかいて文句を言っているのがはっきりと見えていた。

今日も、ミカがちょっかいをかけてくる。 カグヤは、静かに目を開けた。 (このミカの正体が何なのかは、分からない。……けれど、このままここで座禅を続けても、これ以上の進展は期待できない)

こうしている間にも、外の世界ではハイとローの争いが起き、罪のない人々が苦しんでいる。そして、もしかしたらあの仲間たちは、今もどこかで血を流して戦っているのではないだろうか。

カグヤは、深く息を吐き、一つの決断に至った。 「……分かりましたわ、ミカ。私の体を、あなたにさしあげます」

「えっ?」 ミカは一瞬、きょとんとして驚いた顔を見せたが、すぐに小躍りして喜んだ。 「マジで!? やったーッ! ついに私だけの体が手に入る! やっと好きに生きられるぜ!」

無邪気に喜ぶミカを見て、カグヤは優しく微笑み、声をかけた。 「ただ、一つだけ約束して。……私の代わりに、世界を救って。皆の味方になってあげてね」

ミカは、ニカッと笑い、親指を立てて気楽にサインを送った。 「OK! 任せときな!」

そして、二人は鏡合わせのように向かい合い、互いの手のひらをピタリと合わせた。

――その瞬間だった。

「あっ……!」 カグヤの頭の中に、膨大な光の奔流となって『ミカの記憶』が流れ込んできた。

カグヤが血を見て気絶した時。恐怖で動けなくなった時。悲しみで心が壊れそうになった時。 いつも、暗闇の底からミカが飛び出し、痛みを、苦しみを、全ての辛いことを請け負ってくれていた。ミカは、決してカグヤを乗っ取ろうとする悪霊などではなかった。弱かったカグヤの心が生み出した、最強で、最高に優しい『盾』であり『剣』だったのだ。

(……ミカ。あなたはずっと、私を守ってくれていたのね……)

彼女の深い優しさに、カグヤは自分の弱さを恥じ、同時に、胸が張り裂けるほどの愛おしさを感じた。 そしてミカもまた、カグヤの記憶を通して、彼女の優しさ、気高さ、決して折れない真の強さに触れていた。

『陰(カグヤ)』と『陽(ミカ)』。 二つの魂が、境界線を失い、溶け合い、一つの完全な円(八卦)となっていく。 「試練」の本当の意味を、彼女たちはようやく見つけたのだ。


一方、外の世界。 ジョー、フィオ、アンナが崑崙山の集落に来てから、3日が経過していた。 たった3日。しかし、何もないこの退屈すぎる村で、俗物であるジョーたちは、もはや精神の限界を迎えていた。

「……あぁ、もうダメだ。限界だ……」 ジョーは地面に大の字に寝転がり、空を見上げて呻いた。 「酒はねえし、博打もねえ。アンナ、フィオ……悪いが、一回下界の町に降りねえか? 息が詰まって死にそうだ」

「賛成……アタシも、タバコが切れそうだし、パソコンの画面見ないと手が震えてきた……」アンナがげっそりとした顔で同意する。

呆れるフィオがため息をつこうとした、その時だった。

「お待たせいたしましたわ」

凛とした、涼やかな声が、静かな集落に響き渡った。

ジョーたちがバッと跳ね起き、声のした方向――結界の張られた洞の入り口へ目を向ける。 そこには、朝靄(あさもや)を背にして立つ、一人の女性の姿があった。

美しい黒髪。カグヤの気品と優しさを残しながらも、その瞳にはミカのような力強い光が宿り、口元には不敵な笑みが浮かんでいる。 その身から放たれる気(オーラ)は、10年前の未熟だった少女のそれとは全く次元が異なっていた。陰と陽を極め、完全に統合された、真の八卦の導師の姿がそこにあった。

生まれ変わったカグヤは、驚きに目を見張るかつての仲間たちへ向けて、ゆっくりと微笑んだ。

「さあ、ジョーさん、フィオさん、アンナさん。……また、共に戦いましょう」


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