「レテ・クリニック」の白い壁は、今日も人間の抱える泥を吸い込んでいる。 主任医師の志堂 愁(しどう しゅう)の前に座る今日の患者は、自らの意思でここを訪れたわけではなかった。
男は五十代半ば。目は血走り、何かに怯えるように周囲をギョロギョロと見回している。彼を両脇から抱え込むようにして座っているのは、疲労困憊した様子の彼の妹夫婦だった。
「先生、もう限界なんです。兄の妄想というか、異常な執着に、家族の生活が壊されてしまって……」 妹は泣き出しそうな声で訴えた。
男の症状は奇妙なものだった。彼はテレビ番組の、特に「健康情報」に異常なまでに支配されていた。 ある日、テレビの健康番組で「ヨーグルトが腸内環境を整え、万病を防ぐ」と放送されれば、翌日から彼の食卓は狂気に染まる。ご飯、味噌汁、焼き魚、ひいては家族が食べる夕食のカレーにまで、何にでも大量のヨーグルトをぶち込まなければ気が済まなくなった。 「蜂蜜が脳に良い」と聞けば、水代わりに蜂蜜をラッパ飲みし、家中の砂糖を廃棄する。 逆に「ステロイド剤の副作用」についての煽情的な特集を見れば、自身の酷い皮膚炎がどれほど悪化して血を滲ませていようと、処方された薬を「毒だ!」と叫んで窓から投げ捨てる。
テレビが「黒」と言えば黒。「白」と言えば白。 そこには一切の疑念も、科学的根拠を調べる知性もない。極端から極端へと走り、従わない家族には「俺を殺す気か!」と激昂して物を投げつける。その傍若無人な振る舞いは、すでに家庭のキャパシティを遥かに超えていた。
「俺は正しいことをしているだけだ! テレビで専門家が言っていたんだぞ! お前らは洗脳されている!」 男は診察室でも喚き散らした。
志堂は、その喚き声をBGMのように聞き流しながら、手元のタブレットでカルテをフリックした。 男の頭の中には、「テレビからの情報」というノイズが強固な強迫観念となってへばりついている。 「後見人からの正式な依頼であり、法的な手続きも完了しています。彼の脳から、昨今の健康番組によって形成された異常な強迫観念の『記憶』を削除しましょう」
男は「頭をいじるな!」と抵抗したが、鎮静剤を打たれ、処置室へと運ばれていった。志堂にとって、患者の同意など法的なクリアランスさえあればどうでもいい。これはただの事務的なデータ消去作業だ。
***
処置は完了し、男は「テレビの言うことを極端に鵜呑みにして暴れる」という特定の記憶と衝動を失った。 家族には平穏な日々が戻ったかのように思えた。
しかし、半年後。 志堂の診察室の扉が開き、あの妹夫婦が再び、絶望に満ちた顔で座り込んだ。 横には、ふたたび目を血走らせたあの男がいた。
「先生……また、元に戻ってしまったんです」
妹の話によれば、最初は大人しかったものの、数ヶ月前から再びテレビのニュースショーや健康番組を食い入るように見るようになり、全く同じ症状が再発したのだという。 「今度は『納豆菌がすべてを浄化する』と言って、部屋中に納豆を塗りたくり始めて……」
志堂は微かに眉をひそめた。 記憶消去の処置は完璧だったはずだ。物理的に分断されたシナプスが、そう簡単に再結合するわけがない。
一体、なぜ同じことが繰り返されるのか? 志堂にも、そして妹夫婦にも、永遠に分からない真実が一つだけあった。
男のこの異常性の根源は、消去された「最近のテレビ番組の記憶」などではなかったのだ。 彼がまだ幼かった頃。すでに鬼籍に入っている彼らの両親は、テレビの言うことを何の疑いもなく真に受け、一喜一憂するような典型的な人々だった。 『テレビが言うことは、絶対的な真実である』。 その価値観は、彼が子供の頃から両親の背中を通して、彼の脳の最深部、人格の土台(OS)そのものに深く、深く刻み込まれていたのである。
だから、いくら後天的な「結果(特定の記憶)」というファイルを削除したところで、OS自体が『テレビを信じ切る』という仕様である以上、彼はテレビを見るたびに何度でも同じ強迫観念を再構築してしまう。 それは、終わらない連鎖だった。土壌が変わらない限り、何度雑草を刈り取っても、同じ毒花が咲き続ける。
「……そうですか。再発したのなら、もう一度処置を行いましょう」 志堂は冷淡に告げ、新しい同意書を取り出した。
根本的な解決にはなっていない。志堂もうすうす、このイタチごっこに気づき始めていた。 しかし、志堂はそれ以上深くは追求しなかった。 記憶を消せば、少なくとも数ヶ月、家族に「平穏な日常」という対価を提供できる。彼らにとって、それは何にも代えがたい救いなのだ。
治癒とはなんだろうか。 完治しない病を前に、定期的に症状を刈り取るだけの行為。 だが、この終わらない連鎖の中で束の間の息継ぎをさせること――それもまた、一つの「療養」の形なのかもしれない。
志堂は同意書にサインする妹の震える手元を見つめながら、静かに処置室の準備を指示した。

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