下町の路地裏に立ち込めていたブイヤベースの湯気と人々の喧騒が、夜の帳と共にようやく静まり返った。混沌が嘘のように、屋台の前には静寂が戻っている。
エルリアは、疲れ切った様子で皿 を洗うアレンと、床を掃くミアを、腕組みをして見つめていた。
(本当に……この子たちは……)
一息ついたところで、エルリアは積もる話を詳しく聞きたかった。前の店がどうやって奪われたのか、どのような契約を結んだのか。 しかし、彼女は知っている。この領地の法律は、過去に遡って契約を覆すことを許さない。 彼女が前の店でやろうとした、領主による契約の修正承認も、店が奪われた後(契約終了後)では何の意味もなさないのだ。
(悔しいけれど、終わったことを悔やんでも仕方がないわ。今は、この『現状』をどうにかしないと……)
エルリアは、感情を押し殺して冷徹な監査官のモードに切り替えた。
「アレン。今の店の状況について、隠さず話しなさい」
アレンは、 皿 を洗う手を止め、のんきに首を傾げた。 「え? ああ、そういえば全財産はミアが持ってるな。ミア?」
ミアが、埃っぽいエプロンのポケットから、薄汚れた革袋を取り出した。中身をカウンターにぶちまけると、ジャラジャラと銅貨がこぼれ落ちる。
「ええと……銅貨83枚だよ、エルリアさん」 ミアが健気に笑った。
「銅貨83枚……?」
エルリアの眼镜の奥の瞳が、凍りついた。 さきほど行列を眺めていた時、少なくとも10人以上の客が、あの混沌とした混沌の中でスープを啜っていたはずだ。
「スープだけでも、相場として、安くても一杯銅貨三枚はするわ。仕事は夜だけしかしていないの?」
「いや、朝から営業してるよ。日が昇ると同時に店を開けて、日が沈んでからも、深夜まで仕込みをしてる」
アレンの回答に、エルリアは目眩を覚えた。ブラック企業も真っ青の超長時間労働だ。
「……じゃあ、客の入りが悪いのかしら?」
「数は数えてないけど、ずっと同じぐらい客がくるな。朝から夜まで、行列が途切れることはないよ」 アレンは、廃棄食材をかき集めたブイヤベースが好評であることを、少し誇らしげに語った。
(客は途切れない……なのに全財産は銅貨83枚……?)
エルリアは、アレンの顔をじっと見つめた。まさか、もらい忘れがあるのでは……?
「……スープの価格を言いなさい」
「一杯、銅貨1枚。しかもお代わり自由だよ」
アレンが、天使のような笑顔で答えた。
「一杯銅貨1枚でお代わり自由!!!!????」
エルリアの声が、夜の下町に響き渡った。 彼女は、アレンの肩を掴んで再度の説教(という名の怒声)を浴びせようとした。
しかし、その瞬間。
屋台の影から、みすぼらしい子供たちが10人ほど、おずおずと近づいてきた。 子供たちは、みんなで大事そうに一握りの銅貨を、アレンに差し出した。
「アレンさん……これ、今日の分。みんなで集めたんだ」 代表の子供が、蚊の鳴くような声で言った。
アレンは、その銅貨を受け取ると、洗ったばかりの 皿 を手に取った。 「ああ、ちょっと待ってくれ」
アレンは、子供たちにスープを配り始めた。 子供たちは次々とお代わりをし、アレンは笑顔で応える。
やがて、ストックのスープがなくなり、アレンは子供たちを追い返した。 「今日はここまでだ。明日はもっとたくさん作っておくからな」
状況を聞くと、ミアが迫害されている獣人としての過去を思い、孤児たちに残り物を与えようとしたことがきっかけだったらしい。ミアの優しさが、この採算度外視のスープ配布(というかタダ同然の提供)を招いていたのだ。
(ミアの優しさは尊いけれど……これじゃ、この店は潰れるわ。アレンもミアも、共倒れになる)
エルリアの葛藤は深まった。 もっと聞きたいことはあった。前の店の契約書の詳細、ガラム爺の宿でのボランティア活動(そこで獣人差別をしない宿として評判を呼んだこと)……。
しかし、二人は朝から深夜までずっと営業していたのだ。あまり遅くなると大変だろう。 エルリアは、一度ガラム爺の宿に帰ろうと言いかけた。
「じゃあ、一回宿に帰ろう……」
「え? ああ、そうだな。でも、明日の仕込みをしないと」
アレンは、洗った皿 を置き、新しい寸胴の準備を始めようとした。
「……1日のスケジュールを言いなさい」
エルリアが、最後の気力を振り絞って問いかけた。
「夜は、真夜中まで、翌日の事前準備。スープのベースを作ったり、廃棄食材を整理したりな。そして、翌朝は、日が昇るか上らないかのタイミングで市場を回る」 アレンは、当たり前のように語る。 「ゴミをかき集めるといっても、わずかには金を払うし、調味料はただとはいかないからな。そして、一人仕切り入荷が終わると、朝の営業に向けて最後の仕上げ。そのっ後、朝から夜までずっと営業……」
(日が昇る前から、深夜まで……寝る時間は……?)
エルリアの心は、締め付けられた。 そして、ミアが健気に笑った。
「ただ、途中休憩で昼寝もできるし、そもそも、自分たちのご飯も作るから、大丈夫だよ、エルリアさん!」
(屋根があって、食べることができれば……それで満足なのかもしれない。差別されてきた獣人からすれば……)
エルリアは、ミアの笑顔を見て、前の店で彼女が言った「王宮の料理長すら裸足で逃げ出すレベルの最高の料理」が、このような過酷な環境で、搾取されながら作られていることに、改めて強い憤りを覚えた。
彼女は、眼鏡をクイッと押し上げ、決断した。
「あんたら、明日は休み」
エルリアの冷ややかな、しかし絶対的な命令が下った。
「え? 休み?」
アレンとミアが、同時に首を傾げた。およそ三週間ぶりの休息という言葉が、彼らの頭脳には存在しなかったのだ。
エルリアは、屋台のカウンターにあった古びた紙に、手元にあったインクとペンで、殴り書きした。
「本日休業」
そして、それを店に入り口に貼り付け、二人をガラム爺の宿へと連れ帰った。
翌日。
アレンとミアがガラム爺の宿で泥のように眠っている間、エルリアは徹夜で、アレンが書き溜めていた雑な帳簿と、ミアが持っていた資金(銅貨83枚)を整理した。
彼女は、前の店での経験と、この数週間の監査(と怒鳴り合い)で得た情報を元に、完璧な再生プランを練り上げた。
【真・アレンの店 再生プラン】
- 適正価格の設定:
- スープ:銅貨3枚(お代わりは銅貨1枚)。廃棄食材を利用していることを逆手に取り、「下町の外れの、奇跡のブイヤベース」としてブランド化する。
- 営業時間の見直し:
- ランチ(朝11時〜午後2時)とディナー(夕方5時〜夜9時)の二部制。深夜の仕込みは廃止。
- バランスの良い仕入れ:
- 廃棄食材を利用しつつ、最低限の利益を確保する(ガラム爺の宿からの仕入れルートも活用する)。
- 孤児たちへの支援:
- 特定時間(例えば午後1時〜2時)のみ、残ったスープを無料または銅貨1枚で提供する。残り物を与えているという罪悪感を、持続可能な支援へと変える。
(これで、完璧よ。この世間知らずどもを、社会の食い物にさせない。過ちは繰り返させない!)
エルリアは、完成した再生プランの書類を抱きしめ、眼镜の奥の瞳に、 「燃えるような決意の光」を灯した。
こうして、三人の新たな営業が、真夜中の混沌から解放された「適正な店」として再開することとなるのだ。

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