あるところに、一人の天才がいた。
彼は、誰もがその名を知る名家の四男坊として生まれた。ブロンズの柔らかい髪に、澄んだ青い目。誰もが思わず目をとめるような、愛らしく端正な容姿をした子供だった。 しかし、名家といえども四男ともなれば、家に彼の居場所など用意されてはいなかった。将来を期待されることもなく、ただそこにいるだけの存在。それでも彼は、ひねくれることもなく、非常に生真面目な性格に育った。 上の兄たちから命じられることは、どんな理不尽な内容であっても「はい、お兄様」と微笑み、喜んですべてに従った。
彼が4歳になったある日のこと。日頃から上の兄たちに虐げられていた三男の兄が、虫の居所が悪かったのか、彼に分厚いチェス盤を押し付けた。 「おい、お前。夕方までにこの10手詰めのチェスプロブレムを解いておけ。解けなかったら承知しないからな」 子供への嫌がらせとしてはあまりに悪質な難問だった。しかし、夕方に兄が帰宅したとき、チェス盤の上の駒はすべて完璧な正解の配置に並べ替えられていた。 兄は驚き、こいつは得意げな顔をして自分を見下してくるのではないかと身構えた。だが、弟はいつもと変わらない穏やかな微笑を浮かべ、静かに首を傾げた。
「お兄様、お気に召しましたか?」
その様子は、傲慢さとは無縁の、ただ兄の役に立てたことを純粋に喜ぶ子供の姿そのものだった。
だが、彼に対して最初から興味のない両親は、この異軌の才能を知る由もなかった。知ろうともせず、何の期待も抱かなかった。 少年は、そんな両親の無関心をあざ笑うかのように、さらなる異常な能力を発揮していく。やがて彼が残すあらゆる実績は、上の兄たち三人が血の滲む努力で築き上げてきた結果を、すべて塵のように霞ませてしまうものとなった。
四人の兄弟は、親が用意した厳格な寄宿制の学校に、年齢に応じて一年おきに入学していった。 その学校の13年間にわたるカリキュラムのうち、この天才少年は最初の10年間、常に2位を遥か後方に突き放す圧倒的なトップの座を死守し続けた。
少年が両親に会える機会は、一年にたったの一回、長期休暇の帰宅日だけだった。そのわずかな逢瀬の際にも、両親が彼を褒めることは一切なかった。 そして、義務教育が終わる節目の年の帰宅日。少年はいつも通りの笑顔を両親に向け、丁寧に頭を下げた。
「ごきげんよう、お父様、お母様。ご報告いたします。無事、10年間トップの成績を取り続けることができました」
我が子の前人未到の快挙。しかし、両親の口から返ってきたのは、この10年間一言一句変わらない、無機質な言葉だった。
「順調でよかった。これからも励みなさい」
感情の籠もらない、ただの義務的な肯定。10年間、彼がどれほど完璧であり続けても、彼らの反応が変わることはなかった。
その日の夜、少年は自室の窓辺から夜空を見上げていた。雲一つない、ひどく月が綺麗な夜だった。 すると、どこからともなく、頭の中に軽薄な声が響いた。
『よお、天才。調子はどうだい?』
少年は驚き、辺りを見回したが誰もいない。視線を空に戻すと、煌々と輝く月が自分を見つめているように思えた。 「……月が話すとは、びっくりしたよ。だけど、僕の調子はいつも通りさ。やはり、お父様とお母様の言う通り、僕はもっと励まなければいけないんだ」
少年が真面目に答えると、月は可笑しそうに声を立てて笑った。
『ふっ、よく言うよ。本当は、周りの奴らのことなんて全員バカだと思っているくせにさ。……なあ、これからの3年間、ちょっと好きにしてみろよ。お前のお父様とお母様の言うことは、何をしたって変わりゃしないぜ』
少年の心を見透かしたような月の囁き。 その言葉に従うように、少年は続く3年間、意図的にトップを取るのをやめた。成績を自在に操作し、様々な順位をとってみた。卒業ギリギリの落第寸前の点数から、首席をわずかに逃すギリギリの2位まで、気分に合わせて順位を弄んだ。
そうして迎えた3年後の卒業の時期。両親の言葉は、やはり変わらなかった。 「順調でよかった。これからも励みなさい」
義務教育の最後の年。少年は、感情の消え失せた瞳で両親に尋ねてみた。 「私はこれから、いかがしましょう。どの道へ進めばよろしいですか?」
両親はいつもと同じ、仮面のような微笑を返した。 「順調でよかった。これからも励みなさい」
その日の夜も、少年は夜空を見上げていた。 『よう、大将。調子はどうだい?』 月が陽気に語りかけてくる。少年は力なく笑って答えた。 「まあまあかな。ただ、これからのことが何も決まっていないんだ。行くべき場所も、やりたいこともない」
『お前みたいな天才は、何をやったって上手くいくだろうさ』 月はさらに明るい声を響かせた。 『だったら、もっと人生を楽しめるようにしてやろう。……おい、今持っているその本を、手から落としてみな』
言われるがままに、少年は小脇に抱えていた分厚い本を手放した。 重力に従って地面へ吸い込まれるように落ちていくはずの本。しかし、それは少年の膝ほどの高さで、空間にピタリと静止した。
『それは、お前がこれから面白おかしく生きるための力だ。せいぜい楽しんでくれよ』
それが、月が彼に授けた、世界の法則を歪める「超能力」だった。
数日後の卒業式の夜、少年は誰にも告げずに家を出た。 誰もが愛し、褒めそやした美しいブロンズの髪を、彼は自らの手で真っ黒に染め上げた。さらに素顔を隠すように大きなサングラスをかける。 彼は港の片隅にあるうらぶれた倉庫に拠点を構え、詐欺と強盗を主な生業として生活を始めた。
最初は一人で行動しており、特に誰かと群れるつもりはなかった。しかし、効率よく仕事をこなすために周囲のゴロツキたちに手伝いを依頼するたび、彼の周りには自然と人間が集まってきた。 少年が自ら名乗ることがなかったため、周囲の者たちは畏怖を込めて、彼のことを勝手に「ダーククロウ」と呼び始めた。
気がつけば、集まった人間は膨れ上がり、港のアジトは血気盛んな愚連隊の拠点と化していた。その組織はいつしか、悪党の巣窟という意味を込めて「ブラックネスト」と呼ばれるようになる。 メンバーたちは、組織の頭となったダーククロウが立案する完璧な作戦に従って動いた。ターゲットはいつも、後ろ暗い手段で私腹を肥やしている悪徳商人や犯罪組織だった。
そのため、メンバーたちは自分たちの行為を「悪を懲らしめる義賊」であると信じ込み、都合よく正当化していた。 ある時、一人のメンバーが誇らしげに言った。 「俺たちは悪い奴らから金を奪って、世直しをしてるんだ。そうだろ、ダーククロウ?」
それを聞いた彼は、心底意外なことを言われたというように、目を丸くして驚いた顔をした。そして、すぐに冷淡な声を返した。 「……何を生ぬるいことを言っている。ターゲットを彼らに絞っているのは、ただ効率がいいからだ。後ろ暗い金は、奪われても警察に駆け込めない。ただそれだけの理由だよ」
彼は心の底からそう思っていた。犯罪行為をするのに、良いも悪いもあるものか。 正義や義賊という安っぽい言葉で自分たちを飾り立てる仲間たちを、彼は心の底から「底抜けのバカども」だと見下し、馬鹿にしていた。
だがある日、ダーククロウがアジトの奥で目を覚ますと、自分の身体が椅子に頑丈な縄で縛り付けられており、身動きが取れなくなっていることに気づいた。
辺りを見回すと、そこにはいつもの仲間ではなく、本職の凄惨な反社会勢力の男たちが立ち並んでいた。そして彼らの足元には、冷たくなったブラックネストのメンバーたちの死体が転がっている。 その凄惨な光景の中、反社の人間に混ざって、一人の男が立っていた。 ラット。ブラックネストのメンバーであり、大した能力も度胸もなく、チーム内ではいつも皆から馬鹿にされていた男だった。
反社会勢力のリーダー格らしい男が、ダーククロウの意識が戻ったことに気づくと、容赦なくその腹を蹴り上げた。 「ぐっ……」 衝撃で、ダーククロウは椅子ごと地面に激しく転がった。 リーダーは冷酷な視線で見下ろし、呟くように言った。 「お前らはやりすぎた。これ以上は、ガキの小遣稼ぎだと無視するわけにはいかんでな」
転がったまま、ダーククロウはサングラスの奥の目を細め、いつもの薄ら笑いを浮かべた。 「……そこにいる、メンバーの彼はなぜ生かされているんです?」
リーダーもまた、意地の悪い薄ら笑いを浮かべて答えた。 「彼は我々に協力してくれてね。全員の食事に睡眠薬を混ぜて、我々をアジトに引き入れてくれたのさ。大きな功労者だよ」 「なるほど」ダーククロウは薄ら笑いのまま言葉を続ける。「では、彼の命は助けてもらえるのですか?」 「もちろんだとも。裏切り者とはいえ、我が組織の一員として温かく迎え入れてやるさ」
リーダーの言葉を聞いた瞬間、ダーククロウは堪えきれずに吹き出して笑った。 「はははっ! 嘘ですね。おい、ラット。お前、殺されるぞ」
「何をバカなことを!」リーダーが不機嫌そうに声を荒らげる。「苦し紛れに、こいつをこちら側に引き入れようと揺さぶりをかけているのか?」
ダーククロウは、床に倒れたまま、冷徹な薄ら笑いでラットを見つめ続けた。 「ラット、お前は確実に殺される。たとえ今すぐでなくても、その組織に入れば、今と同じように一番下っ端としてこき使われ、馬鹿にされ、最後は都合よく使い捨てされる運命だ。お前の本質はどこに行っても変わらないからね」
「いい加減にしろ!」 リーダーは薄ら笑いを消し、激しい怒りの表情を浮かべた。 「命乞いの時間稼ぎは終わりだ」
リーダーは太い足を振り上げ、もう一度ダーククロウの腹を目がけて力任せに蹴りを出した。 凄まじい衝撃音が響き、木製の椅子だけが粉々に砕け散って後方へと吹き飛んでいく。 ——だが、そこにダーククロウの姿はなかった。
「なっ……どこへ消えた!?」 リーダーが驚愕して周囲を見回した、次の瞬間。 ドサドサと不自然な音が立ち、部屋にいた部下たちが一瞬にして全員、白目を剥いて床に倒れ込んだ。重力の法則を乱され、超高重力の不可視の圧力で叩き潰されたのだ。
リーダーがパニックに陥り、振り返ろうとしたとき、自身の首筋にヒヤリとした冷たい感触が走った。 いつの間にか背後に立っていたダーククロウが、鋭いナイフを彼の喉元に突き立てていた。
「動くな」
いつになく明るく、楽しげな声でダーククロウが囁く。 リーダーが恐怖のあまり、何を言おうかと必死に言葉を探した、その一瞬の後。 躊躇のない一閃によって首筋から鮮血が激しく飛び散り、リーダーの巨体は床へと崩れ落ちた。
部屋に残されたのは、静寂。 そして、返り血を浴びてガタガタと激しく震え、その場にへたり込んでいる裏切り者のラットだけだった。
ダーククロウは再び、顔に張り付いたような薄ら笑いを浮かべ、ラットの前にゆっくりと歩み寄って声をかけた。 「無事ですか?」
ラットはあまりの恐怖に喉が引き攣り、声が出ない。ただ、狂ったように首を縦に振ることしかできなかった。 「そんなに震えて……私が恐ろしいですか?」 ラットは涙目で視線を彷徨わせ、何度も首を縦に振る。 「これから、自分を裏切ったあなたに、私が何をすると思いますか?」 ラットはボロボロと涙を流しながら、今度は絶望を込めてぶんぶんと首を横に振った。
ダーククロウは、まるで聖母のような優しい微笑みを浮かべた。 「安心してください。私は、あなたには何もしませんよ」
そう言い残すと、彼はラットに背を向け、一瞥もすることなくその場を立ち去った。 残されたラットは、張り詰めていた恐怖が途切れた安堵からその場に失禁し、そのまま白目を剥いて気絶してしまった。
ダーククロウは、血の臭いが充満する倉庫を出て、静まり返った港の岸壁へと歩み出た。 時間は真夜中。 空を見上げると、あの日と同じように、雲一つない夜空に綺麗な月がぽつりと浮かんでいた。
『よう、大将。自由な生き様は楽しかったかい?』
頭の中に、懐かしい月の声が響く。 少年——ダーククロウは、これまで見せたことのない、冷え切った真剣な顔でポツリと答えた。
「……少しも、楽しくなかった」
その答えを予想していたかのように、月はどこまでも陽気に言葉を返した。
『そうだろうさ。人の言いなりに生きてもつまらない。かと言って、自分の好き勝手に生きても少しも楽しくない。……さあ、これからどうするんだよ、大将?』
ダーククロウは、感情の消えた虚ろな瞳で、果てしない夜空を見つめた。 「さあ……どうしようか」
すべてに退屈し、生きる意味を見失った少年。 ダーククロウことシーザーは、月明かりに照らされた夜の街へ、行くあてもなく、ただ静かに歩き出し、暗闇の中へと消えていった。

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