シーザーの誕生日から数日後のこと。 ユキは夜中に急に目が覚めてしまい、どうしても寝付けなくなっていた。彼女は気分転換を兼ねて、夜の村を一人ぶらぶらと歩き出した。
山奥の村の夜は、月明かりだけが頼りだ。普通の人間が見れば、周囲に何があるのかすら分からないほどの暗闇。しかし長年住み続けた村である。ユキは目をつぶっていても、村中を完璧に歩き回ることが可能だった。
寒気を含んだ夜風を感じながら、村の大きな倉庫の近くを通りかかった時のこと。 カチャリ、と微かな音がして、倉庫の扉が開いた。中には小さな明かりが灯っているようで、そこに入っていく人物の横顔がはっきりと見えた。
(……シーザー?)
それは、間違いなくシーザーだった。 こんな時間まで物品のチェックだろうか。彼は昔から奇妙なほど生真面目な男だった。自分たちが眠っているような時間でも、こうして見えないところで働いているのだろう。ユキは少しだけ感心した。
と同時に、彼女の心にささやかな悪戯心が芽生えた。いつも澄ました顔をしているシーザーを、背後から驚かせてやろうと思いついたのだ。 ユキの『雪を操る力』は、周囲の音を完全に吸収して「消音」することも可能だった。彼女は足音どころか衣擦れの音すら出さず、わずかな気配も漏らさずに倉庫へ近づき、その中へと足を踏み入れた。
しかし、中に入ると、そこにシーザーの姿はなかった。 (おかしいわね。さっき間違いなく中に入っていったのに……)
もしかして、気配を殺した自分に先んじて気づいたシーザーが、逆に自分を驚かそうと物陰に隠れているのではないか。ユキは警戒しながら部屋の隅々を注意深く観察した。 その時、壁際に設置された大きな木製の稼働棚が目に留まった。よく見ると、床の一部がわずかに擦れている。不審に思ったユキが恐る恐るその棚に触れると、ゴゴゴと音を立てて棚が横にスライドし、その奥に薄暗い隠し扉が現れた。
扉の先には下へと続く階段があり、地下へと繋がっていた。 二十年間も住んでいたこの村に、このような秘密の隠し部屋があったなど、ユキは今の今まで露ほども知らなかった。一体、この下には何があるのか。 胸騒ぎを覚えたユキは、吸い込まれるようにその階段を降りていった。
地下の空間には、不気味なほど青白い蛍光灯の明かりが点いていた。 部屋の床を踏みしめた瞬間、ユキの全身の血の気が一気に引いた。
空間を埋め尽くしていたのは、いくつもの巨大なアクリル製の円柱だった。高さ三メートル、横幅一メートルほどのカプセルが整然と立ち並び、その中には怪しく光る透明な液体が満たされている。そして、その液体の中には、衣服を剥ぎ取られた人間の肉体が浮かんでいた。
「ヒッ……!」
ユキは思わず短い悲鳴を上げ、口元を両手で押さえた。 恐る恐る最も近くにある円柱へと近づき、中の人間の顔を覗き込む。それは、数年前に「外の世界で働く」と言って笑顔で村を出て行ったはずの、見知った超能力者の青年だった。 弾かれたように隣の円柱を見る。そこに入っていたのも、やはり同じように村を出て行ったはずの若者だった。彼らは皆、生ける屍のように液体の中で目を閉じている。
「そんな、嘘……どうして……!」
狂乱のままに次々と円柱を確認していくユキ。そして、部屋の最奥に鎮座する二つの巨大な特製カプセルの前に辿り着いた瞬間、彼女はついに、完全に精神を崩壊させた。
液体の中に浮かんでいたのは、信じられない、そして決して忘れるはずのない二人の男。 一人は青い髪のアイスマン。そしてもう一人は、赤い髪の爆。 二十年前に死んだはずの、ユキのすべてだった家族が、内臓を剥き出しにされた無残な姿で、実験体としてそこに保存されていたのだ。
ユキの顔が絶望と恐怖に歪み、喉から声にならない悲鳴が漏れる。あまりの衝撃と混乱に我を忘れ、狂いそうになっていたその瞬間——
チクリ
彼女の細い首筋に、冷たい感触と鋭い痛みが走った。 「あ、が……っ!?」 慌てて振り返ると、そこには、空になった注射器を手にしたシーザーが立っていた。 その顔には、いつもの、そしてかつて無いほどに深く、歪んだ薄ら笑いが張り付いていた。
「いやいやいや……非常に残念ですよ、ユキ様。私は、あなたとだけはこの穏やかな田舎暮らしを、ずっとずっと、死ぬまで続けていきたかったのですがねぇ」
ユキの瞳に、大粒の涙と、それを一瞬で蒸発させるほどの凄まじい激昂の炎が宿る。彼女は首筋を押さえ、狂ったように叫んだ。 「シーザーァァッ!! これはどういうこと! 説明しなさい、説明してよッ!!」
シーザーは楽しげに注射器を床へ投げ捨てると、歌うような軽いトーンで言葉を重ねた。 「おや、どこから話せば満足していただけますか? この村の青年たちを騙して拉致し、私の実験台にしたことでしょうか? それとも二十年前、あの屋上でまだ息のあった爆の胸に、この手でナイフのトドメを刺したことでしょうか?」
シーザーの口から次々と溢れ出る、吐き気を催すような真実。
「はたまた、ユートピアを内部から狂わせて崩壊に導いたことでしょうか? プロメテウスの夜に子供たちを騙して反乱を誘導したことでしょうか? それとも、大衆の恐怖を煽って超能力者の迫害を進めたことでしょうか……?」
「お前が……っ、お前がすべての、元凶かぁぁぁーーーーーッ!!!」
ユキの怒りが完全に臨界点を突破した。 彼女の全身から、アクリル柱をも凍りつかせるほどの絶対零度の冷気が爆発的に吹き荒れる。強固な氷の鎧が彼女の身体を包み込もうとした、その時。シーザーはにやけ顔を崩さないまま、冷酷に言葉を遮った。
「それとも……今お前に打った、その薬の中身のことでしょうか?」
「なっ……私に、何を打った……!」 一瞬、ユキの動きが止まった。 直後、目の前にいたはずのシーザーの姿が、かき消すように視界から消え去った。
「——実はですね、ユキ様」
背後から、楽しげな声が響く。ユキが驚愕して振り返る。いつの間にか彼女の真後ろに移動していたシーザーは、その細い目を怪しく光らせていた。
「私も、生まれついての超能力者だったんですよ。……空間と重力を歪め、光の速度で移動する。生きている人間で、この真実を知っている者は誰一人としていませんがね」 「だからって……! そんな小細工で、この私に勝てると思っているのかい! 舐めるんじゃないよッ!」
ユキが再び氷の腕を振り上げようとするが、シーザーはそれを鼻で笑った。 「おっと、話はまだ途中ですよ、ユキ様。私は長いこと考えていました。この忌々しい超能力というバグを、世界から完全に消し去ることはできないものかと。それから二十年間、この地下で研究に研究を重ねてきたのです」
「だから何だって言うんだい! あんたのやった大罪が、そんなことで正当化されるとでも思っているのかい! それに、私の能力はこれっぽっちも消えてなんかいないよ!」
「だから、話は途中だと言っているでしょう」 シーザーの薄ら笑いが、狂気の形へと歪んでいく。 「私はね、長い研究の『副産物』として、ある恐ろしい薬を生み出してしまったのですよ。……超能力の限界値を強制的に引き上げる、超能力増幅薬です。それを先ほど、あなたに打たせていただきました」
ユキは激しい目眩に襲われ、壁に手をつきながら怪訝な顔で睨みつけた。 「……何を考えているんだい。私にそんなものを打って、敵を強くしてどうするつもりだ……っ」
「何度も言わせないでください。話は途中です」 シーザーはゆっくりとユキから距離を取り、暗闇の中へと下がっていく。
「この増強薬にはね、致命的な欠点が一つだけありましてね……。引き出される力が強力すぎて、超能力のコントロールが一切出来なくなってしまうのですよ。……ええ、もちろん。それを行使する、あなた自身の『意識』も含めてね」
「あ、が……あ、あああああああッ!!!」
ユキが次の言葉を発しようとした瞬間、彼女の脳裏で何かが激しく弾け飛んだ。 視界が真っ赤に染まり、これまでにない破壊の衝動と、制御不能の絶対零度の魔力が、彼女の肉体を引き裂かんばかりに暴走を始める。
ユキの意識は、そこで完全に深い闇へと突き落とされた。
数日後。 世界の中枢、国連本部ビルの周辺は、生ける災厄の地へと化していた。
全長百メートルを超える、あまりにも巨大な『氷の阿修羅像』が、咆哮を上げながら都市を蹂躙し、暴れ回っている。 それは、意識を完全に失い、ただ破壊の兵器と化したユキの暴走の姿だった。
世界中を凍りつかせながら暴れ回る彼女を止める力など、今の地球にはどこにも存在しなかった。国家が放った最新鋭の大型ミサイルや超高熱兵器も、彼女の展開する氷の絶対防壁には傷一つ付けることができない。 彼女がただ一歩進むごとに、人類が築き上げてきた文明は粉砕され、世界は音のない極限の極寒の世界へと、確実に塗り替えられていった。
凄まじい地鳴りと、吹き荒れる猛吹雪。 その破壊の嵐から少し離れた安全な高台の上から、初老の男——シーザーは、静かにその光景を見つめていた。
金髪を風に揺らしながら、彼は胸ポケットから煙草を取り出し、静かに火をつける。紫煙が冷たい空気に吸い込まれていく。
「……これが、私が本当に見たかった世界(フィナーレ)なのでしょうか」
ぽつりと、彼は呟いた。 すべてを壊し、すべてを弄び、ついに世界を滅ぼす怪物を生み出した。脚本家としての至高の悦びがあるはずだった。しかし、彼の胸を満たしていたのは、かつて港の岸壁で感じたものと全く同じ、果てしない虚無感だった。
「それとも……。お月様、あなたなら分かりますか?」
シーザーは、暗雲の隙間から冷たく輝く月を仰ぎ見た。 だが、月は何も語らない。 ただ静かに、滅びゆく世界を冷徹に照らし続けるだけで、彼には二度と、微笑んでさえくれなかった。

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