東京・田町。オフィスビルの窓から見下ろす運河は、今日もどんよりとした灰色をたたえている。
そのビルの一角に入っているのが、シェルナプルトンリレーション.inc――通称「SPRI(エスピーアールアイ)」の日本支社だ。デンマークに本社を置くこの会社は、PLC(プログラマブルロジックコントローラ)をはじめとする様々な産業用機械をシームレスに連携させる、特殊な工業用部品のメーカーだった。
一般向けの製品ではないため世間の認知度はほぼゼロに近いが、その分野における世界シェアは堂々のトップ。グローバル全体では数千人規模を誇る優良企業である。しかし、ここ日本支社に限っていれば、拠点は東京と大阪の二箇所のみ、全社員を合わせても百名に満たないニッチな組織だった。
そしてこの小さな「王国」は、つい一週間前まで絶体絶命のピンチに陥っていた。
元日本支社長(カントリーディレクター)、伊藤和彦。それが元凶の名前だ。 別の外資系企業で上司に媚を売り、部下に過酷なパワハラを働くことで出世の階段を駆け上がった男。前職をハラスメントによる懲戒処分で追われ、このSPRIに転がり込んできた。
「外資系なんてな、上にバレなきゃ何をやってもいいんだよ」
それが伊藤の口癖だった。彼は巧みに証拠を残さないよう気を配りながら、日本支社で傍若無人に振る舞った。本社に直訴されるのを防ぐため、部下の管理職者をすべて自分の息がかかった知り合いやイエスマンに植え替え、完全に「自分の城」を作り上げたのだ。特に男尊女卑の傾向が強く、女性社員はどれだけ業績を上げても「お飾り」として冷遇された。
だが、盛者必衰の理はここでも生きていた。 伊藤の横暴に耐えかねた古株の社員、古田幸一が動いたのだ。古田は長年、デンマーク本社の人間と個人的な友人関係を築いていた。その太いパイプを使い、伊藤の悪政の裏付けとなる確実な事実を本社へとリークしたのである。結果、伊藤は一発で解雇。彼が囲っていた腹心たちも一斉に力を失った。
「やっと、あの閉鎖的な地獄が終わる」 社員たちは胸をなでおろした。しかし、本社にとっては別の深刻な問題が発生していた。日本支社長というトップのポジションが、完全に空白になってしまったのだ。
通常、グローバルカンパニーであれば、他社で支社長を経験した即戦力をヘッドハンティングする。だが、外資系の支社長経験者ともなれば、採用コストは跳ね上がる。何より、時間をかけて探した人間が、また伊藤のような「ハズレ」であるリスクを本社は恐れた。
そこで本社が出した結論は、異例のものだった。 「支社長としての経験は浅いが、本社のディレクター職で、日本文化に強い関心を持つ人間をそのまま派遣する」
その人物、エマ・クリステンセンが成田空港に降り立ったところから、日本支社の新しい風が吹き始める。
「はぁ……」
営業部3年目の若山美咲は、自席でパソコンの画面を見つめたまま、深い溜息を吐き出した。 肩上で切り揃えられたショートボブの髪を、苛立たしげにかきあげる。特別美人というわけではないが、健康のために毎日ジムへ通っているおかげで、スーツの上からでもわかるほど引き締まった健康的な体型をしていた。
しかし、その健康的な肉体とは裏腹に、彼女の心は澱んでいた。 「男に負けてたまるか」と、必死に新規顧客を開拓してきた。数字だって悪くない。いや、むしろ同期の男たちより上げているはずだった。それなのに、伊藤体制下のこの会社では、評価されるのは決まって伊藤のゴルフ仲間の男ばかり。
働けど働けど、私の暮らしは一向に楽にならない。ただ虚しく明滅するモニターの文字を追いかけるだけの日々。
「全員、第一会議室に集まってください。新任のカントリーディレクターのご挨拶があります」
人事部の角田由美の声が響く。美咲は重い腰を上げた。 どうせまた、どこぞの勘違いしたエリート男が来るに決まっている。ふんぞり返って、英語混じりの日本語で偉そうな訓示を垂れるのだろう。
「あどはだらね(もう、うんざりだわ)」
思わず、生まれ故郷である岩手の訛りが口をついて出た。 美咲は諦め混じりに会議室へ向かうと、せめてもの反抗心のつもりで、前列の席にドカリと座って待った。
やがて、角田に連れられて部屋に入ってきた人物を見て、美咲は目を見張った。
入ってきたのは、見事な金髪をなびかせた中年の白人女性だった。 髪型は美咲と同じようなアクティブなショートボブ。そして、タイトなジャケットの上からでもわかる、がっしりとした、しかし引き締まった健康的な体型。
「グッモーニンエブリワン、アイム・エマ・クリステンセン」
(Good morning everyone, I’m Emma Christensen.)
きびきびとした心地よい声が響く。英語がからきしダメな美咲が理解できたのは、情けないことにそこまでだった。
エマはプロジェクターにスライドを映し出し、自己紹介を始めた。配られた日本語の翻訳資料を目で追いながら、美咲は彼女の言葉を必死に拾う。 デンマークには愛する家族と二人の子供がいること。趣味は登山やハイキングで、アクティブに体を動かすのが大好きなこと。そして、この日本支社を立て直すために自ら志願してやってきたということ。
スライドの最後に、大きく「Connect All(すべてをつなぐ)」という文字が映し出された。 それはSPRIが創業時から掲げる本質的な理念だった。エマは熱を込めて語っていた。伊藤がバラバラに引き裂き、私物化したこの日本支社を、もう一度本来の理念で一つに繋ぎ直す。それが私の目的だ――と、おそらく彼女は言っているのだろう。しかし、生のアイルランド訛りならぬデンマーク訛りの英語は、美咲の耳を素通りしていくばかりだった。
その日の夜、田町オフィス近くの少しお洒落なレストランで、エマの発案による懇親会が催された。 エマはそれを「ヒュッゲ(Hygge)」と呼んだ。デンマーク語で「心地よい時間」や「親しい人たちとの温かな居心地のよい雰囲気」を意味する言葉らしい。
しかし、会場の空気はどこか冷めていた。 日本の古いビジネスマン気質が抜けない男性社員や、伊藤のおこぼれを狙っていた連中は、あからさまに「女のボス」を軽んじているのか、参加を見送っていた。出席したのは、これを機に現状を変えたいと願う一部の女性社員と、自分の今後の身の振りを心配して顔色を伺いに来た一部の管理職ばかりだった。
美咲は、壁際に立つエマをじっと見つめていた。 エマはにこやかに笑っているが、どこか手持ち無沙汰そうにグラスを持っている。
(英語は喋れない。でも……このまま指をくわえて見てるだけでいいの?)
美咲の心の中で、何かが疼いた。伊藤の時代、私は「女だから」という理由で透明人間にされていた。でも、新しいトップは女性だ。しかも、理不尽な男社会を実力で生き抜いてきた本社のディレクター。
一言、挨拶だけでもしよう。 美咲は意を決して、ビールグラスを手にエマの元へ歩み寄った。
「あの……ハロー、エマ。マイ・ネーム・イズ・ミサキ・ワカヤマ」
挨拶だけで終わらせて、あとは笑顔で会釈して逃げよう。そう思っていた。 しかし、エマの顔がパッと輝いた。彼女は美咲の拙い英語を歓迎するように、ものすごいスピードの英語でまくしたててきたのだ。
「オー、ミサキ! 挨拶してくれて嬉しいわ! あなたが営業部の……(早口の英語)……よね?」
「あ、ア、アイムソーリー! ノー・イングリッシュ!」
慌てた美咲は、ポケットからスマートフォンをひったくるように取り出した。翻訳アプリを起動し、マイクをエマに向ける。
「オー、スマートね」エマは笑い、スマートフォンの画面に向かって語りかけた。 アプリの画面に、少し不自然だが意味の通じる日本語が表示される。
『あなたが営業部で奮闘していることは、古田から聞いています。とてもアクティブな女性だと』
「あ、ありがとうございます! 私、毎日ジムに通ってて、体力には自信があるんです。あと、趣味は……登山、マウンテン・クライミング!」
「マウンテン!」 エマの目が、今日一番の大きさで見開かれた。彼女は美咲のスマホを覗き込み、身振り手振りを交えて早口で画面に吹き込む。
『私も登山が何よりの生きがいです! デンマークには高い山がないから、日本の美しい山々に登るのが本当に楽しみだったの。富士山、北アルプス、高尾山……あなたは最近どこへ行きましたか?』
そこからの二人は、周囲の社員が呆気にとられるほどの盛り上がりを見せた。 翻訳アプリの画面を交互に見せ合いながら、山の魅力、お気に入りのギア、登頂したときの達成感について熱く語り合った。英語ができないはずの美咲の顔には、いつの間にか満面の笑みが浮かんでいた。
「ミサキ、今週末、私と一緒にどこか近くの山へ行かない? 日本の山を案内してほしいわ!」
エマの口から飛び出したその提案に、美咲の脳裏を電撃が駆け巡った。
(これって……チャンスじゃない?)
正直、英語ができない身としては気が進まない部分もある。だが、伊藤の時代の腹心たちは、みんなそうやって「お気に入り」の地位を築いていったのだ。今回はその対象がエマであり、共通の趣味が登山だったというだけのこと。
ここでエマの懐に飛び込み、強固な関係を築くことができれば、男尊女卑のこの会社で、今度こそ私は正当な評価を得られるかもしれない。のし上がれるかもしれない。
「イエス! オブ・コース! ぜひ一緒に行きましょう!」
美咲は力強く頷いた。スマートフォンの画面の向こうで、エマが嬉しそうに微笑んだ。
土曜日。雲一つない快晴の空の下、美咲の「野望の登山」が幕を開けた。 選んだのは、初心者から上級者まで楽しめ、日本の山の美しさが凝縮されている都内近郊の名山だ。
美咲の準備は完璧だった。 予備のモバイルバッテリーを3個詰め込み、翻訳アプリが途切れないように通信環境も万全。さらに、エマの体調を気遣ったスポーツドリンクや、日本らしい登山のお供として、塩分補給の梅干しや丁寧に握ったおにぎりまで持参した。
「ミサキ、素晴らしい景色ね!」
新緑のトンネルをくぐりながら、エマが感嘆の声を上げる。 美咲は翻訳アプリのタイムラグに焦る心を抑えながら、一歩一歩、完璧な「接待」を意識して歩みを進めた。
「エマ、ここは少し急な岩場ですから、足元に気をつけて。日本の山は水分が多いので、苔で滑りやすいんです」 「なるほど、デンマークのトレイルとは全く違うわ。教えてくれてありがとう」
日本の文化や、山でのマナー――すれ違う登山客への「こんにちは」の挨拶――も、美咲が実践して見せることで、エマは非常に興味深そうに真似をしていた。エマが息を切らせば絶妙なタイミングで休憩を提案し、冷えたお茶を差し出す。そのすべてが、計算され尽くした完璧なエスコートだった。
そして、ついに二人は山頂へとたどり着いた。
目の前に広がっていたのは、どこまでも続く青い山並みと、遠くにうっすらと雪を冠した富士山の雄大な姿だった。
「ワオ……ビューティフル……!」
エマは言葉を失い、その絶景に見惚れていた。その横顔を見ながら、美咲は確信に似た手応えを感じていた。 エマの信頼は完全に勝ち取った。この旅で、私たちは単なる上司と部下以上の「コネクト(繋がり)」を得たはずだ。
「エマ、記念写真を撮りましょう!」
美咲はスマホを掲げ、エマと肩を並べた。カメラに向かって、二人のショートボブが並び、健康的な笑顔が弾ける。カシャリ、とシャッター音が響いた。
美咲はその場ですぐに写真をSNSにアップロードした。 タグには「#SPRI」「#Hygge」「#登山」「#新しいボスと共に」。 週明け、会社に出社した社員たちがこれを見れば、美咲と新任支社長の距離感に驚愕するに違いない。伊藤のシンパだった男たちへの、これ以上ない牽制になる。
(私は変われる。この会社で、エマに本当の私の力を認めさせてみせる)
山頂を吹き抜ける心地よい風が、美咲の火照った顔を冷ましていく。 眼下に広がる街並みを見下ろしながら、美咲の胸の奥で、確固たる野望が冷たい炎となって燃え上がっていた。
「きっといいやんばいなるさ(きっと、すべて上手くいく)」
故郷の言葉で小さく呟き、美咲は強く拳を握りしめた。 どん底だった私の「女道」は、ここから反撃に転じるのだ。
週明けの月曜日から、私の、誰にも文句を言わせない完璧な仕事が始まる。

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