あの日、生成AIが吐き出したそれらしい回答をアルファ製鋼の佐藤宛てに送信してから、ちょうど一週間が経っていた。
その間、先方からは何の音沙汰もなかった。美咲は「よし、あの専門用語だらけのメールで煙に巻くことができたんだわ」と、すっかり安心しきっていた。それと同時に、エンジニアルームでむっつりと座り込んでいる半林の姿を見るたびに、美咲の胸には仄暗い優越感が湧いていた。
(今思えば、あのむっつり女、いつも偉そうに『前提条件がー』とか『SIerがー』とか言って私を追い返したのは、ただのポーズだったんじゃないの?)
そう、大杉マネージャーに詰められていくその後の展開を経験した今だからこそ、美咲には分かる。あの時の半林は、質問のレベルが高すぎて、実は自分でも答えがまったく分からず、内心めちゃくちゃ焦っていたのだ。技術職のプライドがあるから、自分が「無能」であることが周囲に露呈するのを、何よりもひやひやしながら恐れていたに違いない。
特に、高卒叩き上げで営業をやっている美咲にだけは、自分の無能さを絶対に知られたくなかったのだろう。だからこそ、あの時は冷徹な専門家を装って、上手く口八丁で美咲を追い返したのだ。「私はメーカーの人間だから、他社の組んだシステムを知らないのは無能ではない。私の仕事ではないだけだ」――そうやって、自分に言い聞かせるように同じ言い訳を頭の中でぐるぐると繰り返しながら。
しかし、その場しのぎのツケが回ってくるのは、美咲のほうこそ早かった。
その日の朝、美咲が出社してデスクでパソコンを立ち上げると、直属の上司である大杉マネージャーから「第一ミーティングルームに来るように」と内線が入った。
美咲は特に呼ばれた心当たりがなかった。それゆえに、彼女の持ち前のポジティブシンキングが都合のいい妄想を弾けさせる。 (まさか……先週末にエマさんと登山に行った件、もうエマさんから大杉マネージャーに話がいったのかな? エマさんのお気に入りの営業として、シニア社員への早期昇格でも言い渡されるのかも!)
フフ、と鼻歌交じりにミーティングルームのドアを開けた美咲を待っていたのは、予想だにしない冷徹な空気だった。
大杉は、その名前の通りプロレスラーのようにつまみ上がった大きな体をパイプ椅子で揺らし、いつも以上に冷酷な口調で、部屋に入ってきた美咲に質問を投げかけた。
「若山さん。先日、アルファ製鋼の佐藤様に、生成AIを使って質問の回答メールを送ったというのは事実ですか?」
美咲は息を呑んだ。心臓がドキンと嫌な音を立てる。なぜ、私がメールを送ったことだけでなく、AIを使ったことまで大杉マネージャーが知っているのか。
「あ……はい、効率化のために、そういったメールをお送りしました」
大杉は視線を美咲の顔から外さないまま、淡々と言葉を続けた。
「そのメールのファクトチェックは行いましたか? 別に、業務でAIを使うこと自体はご時世柄、問題ありません。ただ、人として、そして弊社の営業として責任を果たすためには、内容が本当に正しいかどうかのファクトチェックが必ず必要です。それをやりましたか?」
美咲は何も言えず、ただ黙ってうつむいた。あのメールに並んでいた、Pythonだのリアルタイム制御だのという言葉の意味すら分かっていない自分が、ファクトチェックなどできるはずがなかった。
無言の美咲に対し、大杉の声がさらに一段と低くなる。
「ファクトチェックは、おこないましたか?」
「……お、行いませんでした」
美咲は蚊の鳴くような声で答えるのが精一杯だった。大杉はあきれ果てたように首を振る。
「先方の佐藤様から、苦笑い混じりに連絡が来ましたよ。『若山さんからの回答、すごく頼もしかったんだけどさ、文末に【※AIは情報を間違えることがあります。重要な情報は必ず人間の手で確認を行ってください】っていう、AIツール特有の注意書きまで丸ごとコピーされてたよ』とね。……ファクトチェック以前の問題です、若山さん」
頭に血が上り、顔から火が出るほどの恥ずかしさが美咲を襲った。完全にコピペのミスだった。
大杉は大きなため息をついた。 「かしこまりました。アルファ製鋼様からは、至急、人間のエンジニアによる正式な回答が欲しいという旨で、私に直接頭越しの要請が来ております。すぐに対応してください」
恥ずかしさを怒りに変えるように、美咲は思わず言い訳を口にした。 「ですが、大杉マネージャー! 私だって事前に技術側に相談したんです! でも、エンジニアチームの半林さんが、全然非協力的で、回答を拒否したから私は仕方がなく……!」
「分かりました。エンジニアチームには私から直接連携します」
大杉のその一言により、事態は急速に動き出す。その日の午後、急遽、エンジニアを交えてアルファ製鋼とのミーティングが行われることになった。
今回はオンラインではない。SPRIの田町事務所の会議室に、アルファ製鋼の佐藤と、技術担当の高橋が直接足を運んできた、フェイストゥフェイスの対面ミーティングだった。
佐藤は相変わらず、物腰の柔らかいにこやかな笑顔を浮かべてパイプ椅子に座っている。
「いやー、若山さん、急がせちゃうような形になって申し訳ないね。それじゃあ、早速なんだけど、先日のメールの件について、改めて御社の正式な見解をもらっていいかな?」
美咲はここぞとばかりに、隣に座るむっつり顔の半林の方へと手を向けた。
「かしこまりました! それでは、こちらの回答につきましては、弊社エンジニアの半林からご説明させていただきます」
(さあ、大杉マネージャーの前で、自分の非協力的だった態度を釈明しなさいよ!)と、美咲は内心で毒づいた。
半林は黒縁眼鏡のブリッジをクイッと指で押し上げ、いつも通りの抑揚のない声で、淡々と書類を見つめたまま口を開いた。
「こちらの件、ご質問ありがとうございます。……折角のご質問ですが、弊社製品といたしましては、お客様が独自に組まれる外部プログラムのサポートは行っておらず、こちらの領域についての回答は難しくなります。対応いたしかねます」
佐藤のにこやかな顔が一瞬、ぴくりと引き攣った。
「いやー、半林さん。御社にそういう社内ルールがあるのは僕も知っているんですよ。だからこそ、今回は大杉マネージャーからも直接『技術を交えてしっかりと回答する』とお約束をいただいて、このミーティングに臨んだわけなんですがね……。詳細な技術マニュアルとまでは言いません。よそで類似の事例があるかどうかだけでも、教えていただけませんか?」
「他社の開発情報は機密事項となります。そちらに関しても、弊社から回答することはできません」
半林の木で鼻をくくったような態度に、佐藤の隣に座る高橋が苛立ちを隠さずに口を挟んだ。
「じゃあ、事例の名前じゃなくていい! 『S04-V25』の環境下で、Pythonを使った事例が過去に一つでもあるかないか、それだけを答えてくれと言ってるんだ!」
半林の表情は微塵も変わらない。 「そちらについても、お答えしかねます」
「すいません」
バン、とテーブルを叩くような勢いで、流石の佐藤も完全に笑顔を消し、冷酷なビジネスマンの顔になって言った。
「大杉さん、ちょっと呼んできてもらっていいですか」
美咲が慌てて大杉を呼びに行き、彼が会議室に入ってきたときには、部屋の空気は完全に氷点下まで冷え切っていた。大杉が佐藤から事情を聴き、その場でもう一度半林に同じ質問を投げかけた。しかし、半林は判子を押したように「社内規定により、回答はできかねます」と同じ言葉を繰り返すだけだった。
「……申し訳ありません、佐藤様。こちらの連携不足です。一度、社内で厳重に精査し直します」
大杉は佐藤に深く頭を下げて平謝りをし、一旦、美咲と半林の二人を会議室から外へと追い出した。
廊下に出た瞬間、美咲は頭を抱えて真っ青になっていた。 (半林の奴め、まったく使えないどころか、私の一番の大口顧客である佐藤さんを完全に怒らせてしまった……。これからどうしよう、私の営業成績はどうなるの……!?) あまりの不安と恐怖に、美咲の心臓は激しく波打っていた。
その後、佐藤と高橋が怒気を含んだ足取りで帰路につき、美咲と半林は再び同じ会議室へと呼び出された。
部屋の中で待っていたのは、険しい表情の大杉マネージャーと、半林の直属の上司である技術部マネージャーの広石だった。
大杉から、ドスの利いた、しかし淡々とした言葉が発せられる。
「半林さん。先ほどの佐藤様への回答ですが……なぜ、あのような頑なな回答をしたのですか?」
半林は、美咲の目から見ても明らかに動揺しているのが分かるほど、早口でまくしたてた。 「あれは……私たちのサポート規定に則った、正しい回答であったと認識しています。会社のルールを守ったまでです!」
大杉の鋭い視線が半林を射抜く。 「それでは、今はお客様もいない空間です。この場にいるメンバーだけに、S04-V25の環境下でPythonを使った場合の、技術的な懸念点を教えてください」
「それは……」 半林の言葉がピタリと止まった。彼女は口を真一文字に結び、黒縁眼鏡の奥の目を泳がせて、完全に黙り込んでしまった。
その様子を見た瞬間、美咲の脳裏に電撃が走った。 (あ……! こいつ、ルールを盾にしてたけど、本当は懸念点なんて何も分かってなかったんだ! 知らないから、答えられなかったんだわ!)
大杉は半林から視線を外し、技術部マネージャーの広石に向き直った。 「広石さん。この質問は、うちの他のエンジニアであれば回答できるものですか?」
広石は髪をかきむしりながら、苦渋の表情で答えた。 「……正直に言って、うちのメンバー全員が完璧に答えられるような質問ではありません。非常に高度で難しい事例です。しかし、エンジニアとしての『基本事項』さえ理解していれば、答えの道筋は見えます。今回の件は、我が社のS04-V25自体の問題ではなく、コマンドを発する上位システムと、それを受ける機械側の仕様次第であるというところが、一番重要なポイントなんです。……ただ、その点に関しては、営業側から先に、接続環境の詳細が上がってこないと、僕ら技術としても回答のしようがありません。可能な限り情報を集めてもらわなければ、我々だって協力したくてもできないんですよ」
今度は、大杉の冷たい目が美咲へと向けられた。
「若山さん。あなた、お客様にシステムの詳細な状況確認の質問は行いましたか?」
美咲は喉を鳴らしながら、消え入りそうな声で答えた。 「……質問は、しましたが、先方の佐藤さんから『現時点では大人の事情で公開できない』と言われました」
「それに対して、その情報がなければ、こちらの技術としても回答を構築することが難しいという旨を、プロとしてお客様にきちんと説明し、交渉しましたか?」
美咲は返す言葉がなかった。ただうつむき、唇を噛んで黙り込むしかなかった。
大杉は、本日一番の、そして一番深い溜息を吐き出した。
「先ほど、佐藤様から私に直接、担当変更の依頼が届きました。……お二人は、この先、本件のプロジェクトから完全に外れていただきます」
担当、外れ。 それは営業にとっても、エンジニアにとっても、社内での死を意味するほどの重い宣告だった。
半林と美咲は、幽霊のようにうなだれてミーティングルームから這い出た。 しかし、ドアが閉まった瞬くだ、半林が突然、弾かれたようにヒステリックな声を上げて美咲につっかかってきた。
「ちょっと! なんでちゃんとお客様の情報を管理してくれないんですか!? あなたが基本情報を引き出せない無能な営業のせいで、私の評価まで下がったじゃないですか!!」
その言葉が、美咲の中でギリギリに張り詰めていた導火線に火をつけた。佐藤を怒らせた不安、担当を外された絶望、そして何より、自分の無知を隠して偉そうにしていた半林への怒りが一気に大爆発した。
「おめさんが何(なにも)も知らねぁもんだから、私(わだし)の一番の担当外(はづ)れてまったべっす!! こっちこそいい加減にしてけせんせ!!(あなたが何も知らないから、私の一番大事な担当から外されてしまったじゃないの! こっちこそいい加減にしてよ!!)」
オフィスの廊下に、美咲の強烈な岩手弁の怒号が響き渡った。
「なんですって!? 私はルール通りにやっただけです! あなたのAIのコピペミスが全ての原因でしょう!?」 「何がルールだじゃ! 知らねぁなら最初から知らねぇって言えばいいべさ! このむっつり眼鏡!!」
「な、なんですって!?」 二人は顔を真っ赤にし、周囲の目を忘れてヒステリックに怒鳴り合い、掴みかからんばかりの勢いで罵り合った。田町オフィスの静寂は完全に破られ、ただ事ではない騒ぎに周囲の社員たちが慌てて席を立ち、「おい、やめろ!」「落ち着け若山!」と二人を引き離すために間に入ってきた。
当然、このオフィス全体を揺るがした大醜態の報告は、すぐさまカントリーディレクターであるエマ・クリステンセンの元へと報告された。
支社長室で、人事の角田から事の顛末を聞かされたエマは、困ったように眉を下げ、しかしその碧眼に温和な光を宿しながら、ふっと優しく微笑んだという。
そして、彼女はデンマーク訛りの心地よい英語で、こう告げたのだった。
「――こういう時こそ、みんなで『ヒュッゲ(Hygge)』が必要ね」

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