「はぁ、はぁ……ん、んだって……このコース、キツすぎねぇべか……」
若山美咲は額から滝のように流れ落ちる汗をジャケットの袖でぐいと拭いながら、目の前の光景を睨みつけていた。
視線の先、新緑が眩しい険しい登山道の先頭を、信じられないほどのハイペースで意気揚々と突き進んでいく金髪の背中がある。新任支社長、エマ・クリステンセンだ。彼女にとってはこれがデンマーク流の「ハイキング」らしいが、日本の険しい急斜面は、日々ジムで鍛えている美咲をして「かなりハードな本格登山」の領域に達していた。
美咲の役割は、この臨時の「登山パーティー」の体調を管理するため、列の最後尾からメンバーをフォローすることだ。趣味が登山とはいえ、自分の足元を気にしながら他人の世話まで焼くのは骨が折れる。
だが、美咲以上に悲惨な状態なのが、美咲の数歩前をゾンビのように這い進んでいる他のメンバーたちだった。参加者たちの面々は、一様に疲労困憊といった様子で、肩を大きく上下させている。その中でも、群を抜いて酷い無様な姿を晒しているのが、数日前にオフィスの廊下で掴み合いののしり合いを演じた、あのエンジニアの半林美紀だった。
半林は、陰キャ丸出しの暗い見た目通り、普段は極端に内向的な生活を送っているのだろう。すでに体力の限界を迎えているようで、足元はおぼつかなく、膝は生まれたての小鹿のようにガクガクと震えている。
しかし、体力が尽きかけている割に、その口から漏れ出る悪態のボリュームだけは一向に衰える気配がなかった。
「……ハァ、ハァ……山なんか、登って何になるんですか……非効率極まりない……。人は、文明の利器に生きてこそです……。何がハイキングですか、これじゃただの強制労働です……。ハァ、今日、土曜日……本当は家で、推し活の予定、だったのに……っ!」
(……ふん、あれだけ悪態を叩く元気が残ってるなら、まだ死にはしねぇな) 美咲は心の中で毒づき、少し安心して自分の歩を進めた。
それにしても、と美咲は周囲の顔ぶれを見回す。 数時間の過酷な登攀の末、ようやく鬱蒼とした森が開け、目的地の山小屋(ロッジ)が見えてきたところで、美咲は改めて今回の奇妙なメンバーの構成に気がついた。
エマと美咲を除けば、全員が死に体である。 まずは、人事部のおっかさんこと、少し太り気味の岡さん。 社歴10年を超える営業部の頼れる古株、森井エリカ。 受注チームのしっかり者、沢辺素子さん。 派遣事務として働く、大人しい高井京子さん。 そして、今にも地面に頽れそうなエンジニアの半林。
(……待てよ? これ、よく見たら全員女性じゃねぇべか)
なぜ、こんな偏ったメンバーで山に登ることになったのか。時計の針は、あの忌々しい大喧嘩の日に巻き戻る。
オフィスで美咲と半林がヒステリックに怒鳴り合っていたまさにその現場に、エマが静かに割って入ってきたのだ。突然のボスの登場に凍りつく二人に対し、エマは穏やかに微笑みながらこう言った。
「仕事のことで、あまり上手くいっていないみたいね。そういう時こそ、ヒュッゲ(Hygge)が一番よ。後日、スケジュールを連絡するわ」
それだけ言い残すと、エマは颯爽と去っていった。英語が部分的に聞き取れた半林は、とにかく「後日、上から何かしらの沙汰(処分)がある」のだと理解して青ざめていた。一方の美咲は、興奮状態のあまり脳が完全にシャットダウンしており、エマが何を言ったのか一文字も理解できていなかった。
そこに、事の顛末を横でハラハラしながら見ていた先輩の森井が、そっとフォローを入れてくれたのだ。 「若山さん、半林さん、とりあえずエマが後日何か『飲み会』みたいなものを企画して、そこで話を聴くって言ってるわ。だから二人は、それまでおとなしくしてなさい」
その言葉通り、数日後に全女性社員宛てに急遽届いたのが、この「週末・山登りの会」のインビテーションだった。そして今、美咲たちはその計画通り、人里離れた山の上のロッジへと連行されてきたというわけだ。
「皆さま、お疲れ様でした! こちらのロッジには、素晴らしい源泉掛け流しの露天風呂がございます。まずは山登りの疲れを癒やしてくださいね」
ロッジの管理人からの説明を聞いた瞬間、メンバーの目の色が変わった。 さっきまで「もう一歩も動けない」とへーこら爪先立ち、美咲の肩にガッツリと体重を預けて介護されていたはずの半林が、突如として覚醒した。
「えっ……!? お風呂、あるんですか!?」
半林は、驚異的な瞬発力で美咲の体をドカッと力任せに弾き飛ばすと、荷物をひったくるように持って、一人でそそくさと温泉の脱衣所へと猛ダッシュしていった。
「……痛っ! なんだあいつ、急に元気になりやがって、ムカつくなぁ!」
美咲は突き飛ばされた肩をさすりながら、怒りのあまり岩手弁を炸裂させそうになったが、ぐっと堪えて遅れて大浴場へと向かった。
湯船に浸かると、山の冷涼な空気と熱い温泉が、信じられないほどの心地よさで疲れた身体を包み込んだ。 「あー、生き返るわ……」 「やっぱり露天風呂は最高ね」 「いい景色! 頑張って山登りした甲斐があったわぁ」
岡さんや森井さんたちが、湯煙の向こうで口々に感動の声を上げている。美咲もふぅと息を吐きながら湯に浸かっていると、ふと、隣から聞こえてきた声に耳を疑った。
「いやー……やっぱり、大自然の中の温泉は最高ですね。文明の極みです」
見れば、黒縁眼鏡を外してぼんやりとした顔をした半林が、極楽浄土にでも行ったかのような恍惚の表情で湯に浸かっていた。
(……さっきまで『山なんかサイアク、非効率の極み』って、這いつくばってブツブツ言ってただべ! どの口が言ってんだ、この変節者が!)
美咲の胸の奥で再びイラ立ちの炎がパチパチと音を立てたが、ここでまた喧嘩をすれば本当にエマに見限られる。美咲はあえて半林から目を背け、温泉の温かさに身を委ねることに集中した。
おのおのがお風呂から上がり、割り振られた自分の部屋で用意された服に着替えを済ませ、指定されたリビングに集まった。 すると、そこに待っていたのは、昼間の登山ウェア姿からは想像もつかないほどドレッシーな、フォーマルドレスを美しく纏ったエマの姿だった。
「さあ皆さん、お待ちかねのヒュッゲ(Hygge)よ」
エマが優しく微笑み、暖炉に赤々と火が灯るダイニングへと一同を誘う。 そこには、日本の山奥とは思えないほど洗練された、デンマークの伝統的な肉料理や温かいスープ、そして冷えたワインがずらりとセッティングされていた。 春とはいえ、夜の山頂は急激に冷え込む。暖炉から放たれるパチパチという音と優しい温かさが、なんとも言えず心地よかった。
皆が各々、適当な席に着くと、エマがワイングラスを掲げて乾杯の音頭を取った。
「皆さん、今日は楽しかったかしら? 体をしっかりと動かして、美味しい食事をみんなで囲めば、大体の悩みやストレスなんて綺麗に晴れてしまうものよ!」
エマが流暢で早口な英語でまくしたてる。 美咲と半林以外のメンバーは全員、英語に堪能な外資系女子たちだ。彼女たちはエマの言葉に深く共感したように、口々に「イエス!」「その通りね!」と賛成の声を上げ、華やかにグラスを合わせた。
そして、美咲の恐れていた時間が始まった。
食事会が始まると同時に、会話は完全に英語のみの「小外国」と化してしまったのだ。エマを中心に、仕事のキャリアや、ライフスタイルについての高度なトークが英語で飛び交う。美咲は話の内容がほとんど理解できず、ただ料理を口に運びながら、顔に引き攣った愛想笑いを張り付けることしかできなかった。
周りの女性たちが当然のように流暢な英語でキャッチボールをしているため、今さらプライドが邪魔をして「あの、私、英語が全然分かりません」とは死んでも言い出せなかった。 スマホの翻訳アプリに頼ろうとポケットを探ったが、登山中にエマをナビゲートしたり写真を撮ったりしてバッテリーを完全に使い果たしており、画面は真っ暗なまま。美咲は完全に退路を断たれ、都会の真ん中で迷子になった子供のように途方に暮れていた。
宴もたけなわとなり、場がすっかり温まったところで、エマがすっと立ち上がり、グラスを軽く叩いて全員の注目を集めた。
「皆さん、これからは間違いなく『女性の時代』です。今日、この場所に集まっていただいたのは、SPRI日本支社を支える優秀な女性たちだけです。私は皆さんに、言葉では言い尽くせないほど大きな期待を寄せています。伊藤の時代の悪弊を吹き飛ばし、これからは皆さんの力で、この会社を新しく盛り上げていきましょう!」
エマの力強い言葉が響いた瞬間、ダイニングは割れんばかりの歓声と拍手に包まれた。森井さんも岡さんも、目を輝かせて拍手を送っている。 美咲は相変わらず何を言っているのかさっぱり分からなかったが、ただならぬ熱気に押され、(よく分からんけど、なんか凄い良い雰囲気だじゃ!)と、一緒になって「おーっ!」と拳を突き上げて歓喜の声を上げていた。
すると、スピーチを終えたエマが、まっすぐに美咲の方へと歩いてきた。 エマは美咲のすぐ隣に立つと、その健康的な肩をポンと優しく叩き、親愛の情を込めて語りかけてきた。
「ミサキ、今日は本当にお疲れ様。あなたの完璧なフォローとリードがあったからこそ、私たちは一人も脱落することなく、事故なしでこの過酷な登山を登りきることができたわ。本当に感謝しているの。これからも是非、そのガッツと行動力で、我が社を引っ張っていってね」
熱い眼差しを向けられ、美咲はパニックになりながらも、知っている唯一の単語を絞り出した。
「サ、サンキュー! エマ!」
美咲がとりあえず笑顔でそう返したところで、見かねた先輩の森井が横からすかさずフォローを入れてくれた。 「若山さん、エマはね、『あなたが登山中にみんなの体調を気遣って、献身的にフォローしてくれたおかげで無事に登頂できた。その力を会社でも発揮してほしい』って、あなたのことをものすごく褒めているのよ」
「あ……! なるほど!」 森井の通訳のおかげでようやく意味を理解した美咲は、胸をなでおろし、精一杯のビジネス英語で答えた。
「マイ・プレジャー(どういたしまして)!」
エマは美咲のその言葉を聞くと、心から安心したような満面の笑みを浮かべた。それから再び森井の方へと顔を向け、英語での楽しげな談笑を再開した。 その後、明日の下山ルートもあるからということで、宴は一旦お開きとなった。しかし、エマと森井の二人は、その後も暖炉の前でワイン片手に、遅くまで熱心に会社の未来について語り合っていた。
翌朝。 朝食のダイニングに現れた半林の顔は、あまりの全身の筋肉痛の凄まじさに、まるで世界が終わったかのような絶望に満ちていた。 「……痛い、全身がちぎれる……指一本動かすのも非効率です……」とブツブツ呟いている。
それを見た美咲は、(今日もあいつの介護をしながら下山するのか……)と頭を悩ませていた。すると、果物を突いていた人事の岡さんが、こともなげに口を開いた。
「じゃあ、帰りは一部の人を除いて、みんなで車で帰りましょうか」
その言葉に、美咲と半林の二人が同時に弾かれたように顔を上げた。
「えっ……車、ですか?」
「あら、言ってなかったかしら? エマが『あえて最初は険しい試練のコースで団結力を高めたい』って言うから徒歩で登ってきたけど、そもそもこの山頂のロッジ、裏側から綺麗な舗装道路が通っていて、普通に車で来られるのよ。帰りはそこに会社のミニバンを配車してあるから」
(なんだってーー!?) 美咲は心の中で叫んだ。車で来られるなら、最初から車で来ればよかったではないか。 しかし、同時に強烈な安堵が押し寄せる。私も帰りは絶対にあの快適なミニバンに乗らせてもらおう、冷房の効いた車内で爆睡して帰るんだ――。
そう目論んだ瞬間、背後からエマの弾んだ声が響いた。
「それじゃあミサキ! 下山ルートの帰りは、私とあなた、二人だけで歩いて下りましょうね!」
「……えっ?」
エマが使った「下山(Go down the mountain)」という単語は、登山用語の知識があったため、美咲の耳にもハッキリと届いてしまった。
エマは悪気のない無邪気な笑顔で、美咲にウインクを送っている。 英語がほとんど話せないのに、あのパワフルなボスと二人きりで、数時間もの山道を歩いて下りろというのか。美咲は一瞬で絶望の淵に叩き落とされそうになった。
(いや、待てよ……。逆に考えれば、これは大チャンスだべ。昨日スマホの充電はロッジで100%に回復させたんだから、翻訳アプリを使えば二人きりで濃厚な密談ができる!)
そう自分に言い聞かせ、美咲は営業スマイルで「イエス! エマ!」と快諾し、二人の下山ルートへと向かった。
しかし、山の神様はどこまでも美咲に試練を与えた。 下山を開始してものの数分、エマが何気なく話しかけてきた言葉を訳そうとスマホのアプリを起動した瞬間、画面の最上部に非情な文字が表示されているのが目に入った。
【 圏外 】
「あ……嘘でしょ……?」
そう、この下山ルートは電波が全く通じない、深い谷間のコースだったのだ。アプリはグルグルと読み込みのマークを表示したまま、完全に沈黙してしまった。
ここから、若山美咲の片言英語による、決死の「限界サバイバルタイム」が幕を開けた。
「ミサキ、あの鳥の鳴き声は何かしら?」 「ア、アー……イッツ、ウグイス! ジャパニーズ・ブッシュ・ウォーブラー! ホーホケキョ!」 「オー、ホーホケキョ! 風流ね!」
美咲のあまりに拙い英語を察したのか、エマもだんだんと、使う単語のレベルを中学生レベルの簡単な会話にまで下げてくれた。エマ自身は、それだけでも「なんとかギリギリ意思疎通ができるわね」と、森林浴を楽しみながら気楽に歩いていた。
だが、受ける美咲の脳みそは、26年の人生の中で間違いなく今が一番というほどの超フル回転を続けていた。単語を必死に脳の引き出しから引っ張り出し、身振り手振りを交え、知っている限りの文法でエマの言葉に相槌を打つ。
汗だくになり、足の筋肉も悲鳴を上げていたが、麓の駅が見えてくる頃には、美咲の胸のうちは不思議な高揚感で満たされていた。
(でも……これで私の社内でのポジションは、完全に盤石になったはずだじゃ!)
あのむっつり半林との大喧嘩や、アルファ製鋼でのAIコピペのヘマ。一時はどうなることかと思った絶望的な大ピンチも、この週末の「エマとの二人きりの特別下山」という圧倒的な事実によって、すべて帳消しになったに違いない。何せ、支社長と一番「コネクト」しているのは、他でもないこの私なのだから。
美咲は、へとへとに疲弊した身体を引きずりながらも、東京へと向かう電車のシートに深く腰掛けた。 電車の窓に映る自分の顔はボロボロだったが、その脳裏には、男たちの鼻を明かし、社内で華麗に出世街道を駆け上がっていく自分の輝かしい未来の妄想が、どこまでも楽しく膨らんでいた。

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