あかしやホールディングスでの大失態から数日。
美咲は、蛍光灯の白い光が虚しく届く本社地下の倉庫で、一人ポツンとダンボールの山と向かい合っていた。大杉マネージャーから命じられた仕事は、埃をかぶった古びた製品パンフレットの仕分けと整理という、完全な「雑務」だった。
営業としての仕事はすべて剥奪され、顧客への電話も禁じられた。
(……これも、マーケティングの仕事の一部と思えば我慢できるべ……)
重いダンボールを持ち上げながら、美咲は必死に自分へ言い聞かせていた。
プライドも、野望も、一度は完全にボロボロに打ちのめされた。だが、叩き上げの美咲の根性は、まだ死に絶えてはいなかったのだ。
(こないだの失敗は、ちょっと運が悪かっただけだじゃ。まだチャンスは残ってるはず……! だって私、まだ若いんだもの。ここからまた這い上がればいいべ!)
から元気かもしれない。だが、言葉にして口に出してみると、腹の底から不思議とほんの少しだけパワーが湧いてくる。
その時、カチャリと倉庫の重い鉄の扉が開いた。
誰かが入ってきた気配に、美咲は屈んでいた腰を上げて入口へと視線を向けた。そこに立っていたのは、上質なスーツを着こなした金髪の支社長――エマ・クリステンセンだった。
エマは美咲の姿を見つけると、親しみやすい笑顔を浮かべて声をかけてきた。
「ハーワーユー?(How are you?)」
美咲にもはっきりと理解できる、ごく簡単な英語だった。いつもの威勢のよさで「アイム・ファイン!(元気です!)」と返そうとした美咲だったが、流石にここ数日の極限状態の疲労と孤独が響いていた。美咲の口から出たのは、珍しく小さく弱々しい本音だった。
「……アイム・タイアド(疲れました……)」
その一言と、埃まみれの美咲の姿を見た瞬間、エマはすべてを察したように優しく目を細めた。そして、いつものあの言葉を口にした。
「こういうときほど、ヒュッゲ(Hygge)ね」
早口の英語すべてを聞き取ることはできなかったが、美咲の耳にはしっかりと「ヒュッゲ」という単語だけが飛び込んできた。
(……ヒュッゲ!? ってことは……また山に行くタイミングだべか!?)
美咲の胸に、パッと小さな希望の明かりが灯った。
数日後。美咲は、前回とはまた違う山の中腹にある駅のバス停で、ポツンと佇んでいた。
気合を入れて始発の電車でやってきたため、待ち合わせ時間よりもかなり早く着いてしまい、周囲には人っ子一人いない。静まり返った朝の冷気の中、雄大な山のシルエットを見上げながら、美咲の頭の中にはこれまでの苦い記憶が走馬灯のように駆け巡っていた。
伊藤前支社長時代の、徹底的な女性冷遇社会。 アルファ製鋼での技術的な無知と、AIコピペの恥ずかしいミス。 半林との激しい掴み合いののしり合い。 森井先輩や大杉マネージャーからの容赦ない叱責。 そして――あかしやホールディングスで犯した、致命的な大失態。
(うっ……)
一人で考え込んでいると、急に鼻の奥がツンと痛くなり、ポロポロと涙がこぼれそうになった。自分の不甲斐なさと、空回りの連続だった日々。
「……イガネンダ(行かなきゃダメだじゃ)……!」
美咲は自分の頬を両手でパンッと強く叩いた。ネガティブな気持ちのまま神聖な山に入ってはダメだ。ポジティブにならなければ。
「……笑顔がだいじだ。笑顔、笑顔……」
美咲は誰もいないバス停で、無理やり口角をキュッと上げてニコッと微笑んだ。一人で怪しくニヤニヤと笑みの練習をしていると、背後から不意に明るい声が響いた。
「楽しそうね。やっぱり山はいいわね!」
「ひやあッ!?」
不意を突かれて飛び上がった美咲が振り返ると、いつの間にか後ろにトレッキングウェア姿のエマが立っていた。美咲は慌ててポケットからスマートフォンを取り出し、フル充電された翻訳アプリを起動した。
「エ、エマさん! お早いですね! 今日は何人来られるんですか?」
画面越しにそう尋ねると、エマは人差し指を立てて可愛らしくウインクしてみせた。
「私と、あなただけよ」
「えっ……!?」
びっくりする美咲を置き去りにして、エマは軽やかな足取りで登山道へと向かって歩き出した。美咲は今日のためにモバイルバッテリーを2個準備してきた。覚悟を決め、エマの背中を追って山へと足を踏み入れた。
木漏れ日が差し込む美しい山道を、二人は会話を楽しみながら登っていった。しばらく進むと、登山道が二つに枝分かれしている分岐点へと辿り着いた。
そこには古い木製の看板が立っていた。 右を指す看板には「男坂」、左を指す看板には「女坂」と書かれている。
この山の名物だ。昔の人が名付けた通り、男坂は岩場が続く急斜面、女坂は遠回りだが傾斜がゆるやかなコースになっている。
看板を興味深そうに眺めていたエマが、美咲に尋ねた。 「ミサキ、これはどういう意味かしら?」
美咲は翻訳アプリを使って説明した。 「男坂は勾配が急な険しい道で、女坂は傾斜がゆるやかで歩きやすい道のことですよ」
それを聞いたエマは、少し首をかしげ、神妙な顔つきで言った。
「不思議ね……。なんで男坂が急で、女坂がゆるやかなのかしら。実際の社会では、女性の方がよっぽど多くの壁や困難に直面しているのにね」
社会の不条理を突いたボスの言葉に、美咲は一瞬考えた後、満面の笑みで即答した。
「男は弱いから、同じ道でも急に感じるんですよ!」
美咲のその言葉を聞いた瞬間、エマは一瞬呆気にとられ、次の瞬間、お腹を抱えて「ハハハ!」と大爆笑した。
「オー! やっぱりあなたは最高ね、ミサキ!」
エマは涙を浮かべながら美咲の肩を叩き、すっかりご機嫌になった様子でさらに尋ねてきた。
「そういえば、さっきバス停で、あなたはなんであんなに楽しそうに笑っていたの?」
美咲は少し気恥ずかしそうに苦笑いを浮かべ、正直に答えた。
「ああ、それですか……。別に何か良いことがあったわけじゃないんです。仕事で大きな失敗をして、今、すべての業務から外されちゃってて……。あまりにも辛い状況だから、せめて顔だけでも笑顔にしようと思って、練習していたんです」
翻訳アプリの画面でその言葉を読んだエマは、笑いを収め、温かい眼差しで美咲を見つめた。そして、心からの敬意を込めて囁いた。
「あなたは……本当に強いのね」
その日は二人で素晴らしい絶景と心地よい風を楽しみ、最高の登山となった。
数日後。SPRI日本支社の管理職が集まる、週例のマネージャーミーティングが開催された。
会議の冒頭、議長であるエマが、定例の議題に入る前に口を開いた。
「議題に入る前に一つ確認したいことがあります。営業部の若山美咲さんのことです。彼女はなぜ今、すべての仕事から外されているのですか?」
突然出たヒラ社員の名前に、部屋の空気が緊張で固まった。 直属の上司である大杉マネージャーは、慌てて咳払いをして説明を始めた。
「あ、はい……。彼女はですね、大型の取引を二回連続で失態により大失敗させまして……。営業としての適性がないと判断いたしました。これ以上、彼女に任せられる責任ある仕事はありませんので、自宅待機および雑務を命じております」
大杉の言葉を聞くや否や、エマの碧眼に怒りの炎が宿った。彼女はテーブルを手のひらで強く叩き、強い口調で喝を飛ばした。
「一度や二度のミスをしたからといって、仕事を取り上げて干してしまうようなやり方では、人間も会社も絶対に成長しないわ! そんなバカな管理がどこにあるの!? すぐに彼女を元の営業職に戻しなさい!」
大杉は根っからのイエスマン体質だ。前任の伊藤の時と同じく、トップであるエマに強く怒鳴られて反論するような気骨など微塵もなかった。
「は、はいっ! かしこまりました! すぐに復帰させます!」
大杉は汗をかきながら、何度も頭を下げた。
こうして数日後、美咲は無事に営業部へと帰ってくることができた。
自分のデスクに座り、パソコンを開き、電話をとる――。当たり前だったはずのその日常が、今の美咲には涙が出るほど愛おしく、ありがたかった。
(もう……絶対、二度と安易なコピペや確認不足のミスはしない。今度こそ、プロとして完璧な営業をしてみせるだじゃ!)
美咲は胸の中で固く固く誓った。
復帰からしばらくして、会社主催の全体イベント「イヤーエンド・ヒュッゲパーティー」が開催された。都内の有名ホテルの一角を貸し切った華やかなパーティーだった。
壇上に立ったエマは、この一年間の社員たちの努力を労い、素晴らしいスピーチを送った。 パーティーが歓談に入ると、男性マネージャー陣は手のひらを返したようにエマの周りに集まり、媚びを売るのに必死になっていた。
そんな中、エマのすぐ隣には、笑顔の美咲と、すっかり上機嫌な森井エリカの姿があった。
森井は、あかしやホールディングスの件で美咲を激しく怒鳴り散らしたことなど綺麗さっぱり忘れたかのように、なれなれしい態度でグラスを傾けてきた。
「あら、美咲さん! あいかわらず仕事は順調そうねぇ」
美咲は頭の中で(……あんたも私を大杉マネージャーに売って貶めた一人だろが)と毒を吐きつつも、顔には営業スマイルを完璧に貼り付けてグラスを合わせた。
「森井さんのおかげですよー! かんぱーい!」
女性社員たちが楽しそうにエマを囲み、華やかに談笑する。 その輝かしい光景を、少し離れた壁際から、大杉をはじめとする男性マネージャーたちが疎ましそうに歯ぎしりをしながら睨みつけていた。
(ふん、見ろだじゃ! これが私たちの『女道』だべ!)
美咲は誇らしげに胸を張り、勝利の酒に酔いしれていた。
しかし。
まさに絶好調の頂点にあった女性陣に、それは前触れもなく訪れた。
パーティーが終盤に差し掛かった頃、いつものようにエマが締めの一言を述べるために壇上に上がった。ひとしきり社員への感謝を述べ終えた後、エマが少し寂しそうな表情を浮かべて言った。
「――そして最後に、皆さんにご紹介したい人物がいます」
エマの合図とともに、壇上の袖から一人の白人男性が歩み出てきた。 仕立ての良いスーツを身に纏い、冷徹な青い瞳をした、高身長の男だった。
男はマイクを受け取ると、低く響く流暢な日本語で静かに言い放った。
「はじめまして。私はオスカー・イエンセン。エマの後任として、本日付で日本支社のカントリーディレクターに就任いたしました」
「………………え?」
会場にいた全員が、自分の耳を疑った。
美咲の隣で、森井が持っていたワイングラスの手を凍らせている。 女性陣の明るい歓声が、一瞬にして水を打ったような静寂へと変わった。
エマが……退任する? 帰国する……!?
呆然と立ち尽くす美咲の視線の先で、新支社長のオスカーが冷酷な笑みを浮かべていた。 そしてその横では、さっきまで歯ぎしりをしていた大杉たち男性マネージャー陣が、まるで地獄から這い上がる蜘蛛の糸を見つけたかのように、卑屈で邪悪な歓喜の表情を浮かべ始めていた。
強固だったはずの美咲の「女道」が、今、激しい音を立てて崩れ去ろうとしていた。 これから彼女を待ち受けるのは、前途多難な「男道」のサバイバルだった――。

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