びしょ濡れのユウキとユカは、見知らぬ洋館の静寂の中で激しく肩を揺らし、息を切らしていた。 これから一体どうすればいいのか、何ひとつアイデアはなかった。だが、激しい雨と暗闇を遮るこの重厚な文明の砦に包まれていれば、少なくともこれ以上悪い状況にはならないはずだ—— 二人の顔には、安堵の色が浮かんでいた。
◇
ことの始まりは、数時間前に遡る。
赤坂大学の2年生で、サッカー同好会の副会長を務めるユウキ。率先して人を引っ張るタイプではなかったが、爽やかな見た目と当たりの柔らかさから、周囲の後押しに押し切られる形でその役に収まっていた。 そして、同好会のマネージャーであるユカ。二人が付き合い始めたのはごく自然な流れだった。お互いに狂おしいほど焦がれる愛があったわけではない。しかし、「このふたりがお似合いだ」というサークル内の強い空気と押しに背中を押され、気がついた時には交際が始まっていた。
不満はなかった。お互いに大きな喧嘩をすることもなく、穏やかに半年が過ぎた。 だが、ユウキの心の中には小さな欲が芽生えていた。ふたりの関係をもう少し先へ進めたい、と。 その年の夏休み、ユウキは急に泊まりでの旅行をユカに提案した。特に断る理由もなかったユカは、二つ返事で承諾した。
行き先は、東京から日本海の海へ。 特別な理由はなかった。なんとなく「海」に行けば距離が縮まる気がしていたが、湘南のような軟派な海は嫌だった。男といえば、日本海。 周りからは羨ましがられるユウキの中性的な外見だったが、本人はそれを深いコンプレックスに感じていた。それを跳ね返すべく、彼は男らしい旅行を計画したのだ。 今回、移動手段に車を選んだのもそのためだった。普段のデートは電車ばかりだったが、すべての行動を自ら支配できる感覚を味わいたかった。レンタカーであることは少し残念だったが、それでもユウキの自尊心は満たされていた。
しかし、普段運転をし慣れていないユウキにとって、長距離ドライブは思うようにいかないことの連続だった。 予定では約6時間の道中。慣れない運転に焦ったユウキは、カーナビの指示を無視して地図上の直線距離でショートカットを試みた。その結果、完全に道を見失ってしまう。カーナビの表示によれば、現在は富山県の山中らしい。
このままではユカにあきれられてしまう——焦りがピークに達したユウキは、強がりを口にした。 「こういう山道も、なんだか冒険っぽくていいだろ?」 自分が今どこを走っているのかすら分からないくせに、声だけは軽やかに響かせた。
だが、強がりの裏側には切迫した危機が迫っていた。車のガス欠である。 荷物の少ないふたりの旅行なら軽自動車で十分だったのに、良い格好をしようとして、思わず燃費の悪いジープを借りてしまっていた。大きく、取り回しづらく、燃料を食う。ユウキはずっと後悔していた。 大きい車を選んだこと。見栄を張ってカーナビに従わなかったこと。そもそも新幹線を使わなかったこと。 後悔と苛立ちが頭を駆け巡ったが、それをユカに当たり散らすことだけは絶対にしたくなかった。彼はひたすら虚勢を張り続けた。
そして、ついに運命の時が訪れる。 エンジンが不気味な音を立てて停止した。完全なガス欠だった。ユウキは諦め、手押しで車を道の端へと寄せた。
そんな状況になっても、ユカは不平不満ひとつ漏らさない。 ユウキは必死に繕いながら言った。 「さ、さっきカーナビでこの近くに宿を見つけたんだ。歩いてすぐ着く距離だよ」 ユカは黙って頷き、トランクから自分の荷物を取り出した。
ふたりで坂道を登っていく。ユウキはユカを気遣うあまり、口早になった。 「もう夕方の5時だけど、ここらへんは暗いね」 「宿のお金は僕が全部払うから、心配しないでね」
ユウキの頭を占めていたのは、ユカが今何を思っているかということだった。彼女は昔から、自分の気持ちをあまり口にしない子だった。 以前、ユウキが初めて彼女に手料理を振る舞った時のことを思い出す。味を尋ねると、ユカは静かに「まあまあかな」と答えた。だが、後からユウキ自身がそれを口にした瞬間、あまりの不味さに吐き出してしまった。砂糖と塩を間違えて作っていたのだ。初めての料理で味見を忘れていた自分を、彼女なりに気遣ってくれたのかもしれなかった。
けれど、恋人同士ならもっと対等で、本音をぶつけ合うべきなのではないか。ユカはいつも本音を隠しているように思えた。 そもそも、彼女は誰もが認める美人で、他の男子からもたくさんのアプローチを受けていた。なのに、なぜ他の男たちとは付き合わなかったのか。いくら周りの押しがあったとはいえ、自分からのアプローチには一切の抵抗がなかった。 当時は「自分に惚れているからだ」と自惚れていたが、時折、本当にそれだけなのだろうかと猛烈な不安に襲われる。
まさに、今この瞬間がそうだった。
10分ほど歩いた頃、不安に押し潰されそうになっていたユウキの視界にペンションが飛び込んできた。 救われた思いで足早に入り口へ向かう。しかし、そのドアに貼られていたのは「売家」の二文字だった。 ペンションは既に廃業していたのだ。
ユウキはがっくりと肩を落とし、素直に頭を下げた。 「ユカ、ごめん……閉店してるみたいだ。車に戻って、通りすがる車にガソリンを分けてもらおう」 ユカは不満そうな顔も見せず、「そうね、仕方ないね」と穏やかに答え、荷物を引き直して車へ戻ろうとした。
その時だった。 数分歩いたところで、空が急変し、バケツをひっくり返したような豪雨が二人を襲った。
「流石にこの雨はやばい!」 慌ててあたりを見渡すと、鬱蒼とした木々の隙間に小さな明かりが見えた。 「ユカ! 一旦あの灯りの家に入ろう!」
二人は走って明かりを目指した。しかし、舗装されていない草道はぬかるみ、ユカが引くキャリーケースの車輪が足をとられる。 ここが見せ所だとばかりに、ユウキはユカの荷物を奪い取った。 「俺に任せろ!」 強がりを力に変え、早足で明かりの方へと急ぐ。
やがて現れたのは、不自然なほど重厚な佇まいを見せる一軒の洋館だった。 二人は軒下に滑り込み、雨宿りをした。さすがに見知らぬ人の家に勝手に押し入るわけにはいかないし、雨宿りのために上がらせてもらうのも気が引ける。 ユウキは努めて明るい声で言った。 「ごめんね。雨が上がったら、車に帰ろう」
——それから、わずか1分ほどが過ぎた時だった。 ブーン、と不快で鋭い羽音が耳を突いた。
視線を向けると、すぐ近くを大きなスズメバチが飛び回っていた。 なぜ、こんな夜の豪雨の中でスズメバチが——? 疑問よりも先に強い恐怖が襲いかかった。ユウキは思わず目の前のドアの取っ手を掴み、ひねった。鍵はかかっていなかった。 彼はユカの腕を強引に掴み、館の中へと押し込んだ。
◇
びしょ濡れのユウキとユカ、二人は、知らない洋館で息を切らしていた。 これから一体どうすればいいのか、何もアイディアはなかったが、少なくともこの文明の砦に包まれていれば、これ以上悪い状況にはならないであろうととりあえずの安堵を浮かべていた。
ユウキはこれから起きる恐怖のことなど、少しも想像していなかった。
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