従者たちに抱えられ、ようやく自室のベッドへと横たえられた時、私の意識はほぼ限界に達していた。 泥のように、いや、死んだように眠りたい。
……そう願って浅いまどろみに落ちたのも束の間、わずか五分ほどで、私は激痛によって現実へと引き戻された。
(痛い……ッ! 痛くて、眠れない……ッ!)
身体は完全に疲れ果て、鉛のように重く、脳は強烈に睡眠を欲している。それなのに、擦り切れたお尻と太ももを走る焼けるような激痛が神経を容赦なく苛み、目を閉じることすら許されない。 唸り声を上げながら脂汗を流すという、筆舌に尽くしがたい拷問のような苦悶を味わうこと数十分――。
バタン、と静かに部屋の扉が開いた。
現れたのは、全身泥だらけで疲労を隠せないソル様だった。 彼はボロボロになりながらもニッと笑い、私のベッドへ歩み寄ってきた。
「へへっ、ミレーユ。俺たちがトップ通過だったみたいだな。……約束通り、報酬を受け取りにきたぜ」
そう言うや否や、ソル様は私の掛け布団を豪快に剥ぎ取った。
「きゃっ……!?」 周囲に控えていた我が家の侍女や従者たちが「お、お嬢様!?」と慌てて止めに入ろうとする。だが、軍神マルス家の跡取り息子の鬼気迫る気迫に気圧され、誰一人として手出しができない。あまりの破廉恥な光景に、いたたまれず顔を背ける者すらいた。
私自身、拒絶する気力も、恥じらう体力すら残っておらず、ただ虚ろな目でソル様を見上げるしかなかった。
ソル様は手際よく私の衣服を脱がすと、懐からひとつの重厚な陶器の小瓶を取り出した。 見れば、ソル様自身の腕も限界を迎えてプルプルと小刻みに震えている。そんなボロボロの状態で、彼は指先に取った淡い琥珀色の軟膏を、私の傷ついた全身へと丁寧に、惜しみなく塗りたくってくれたのだ。
その瞬間――。
(……えっ……?)
レース中に使った市販の軟膏とは、明らかに別次元の感覚だった。 肌に触れた瞬間、燃えるような熱と痛みがすうっと霧散し、清涼な魔力が細胞の隅々まで染み渡っていく。あんなに私を苦しめていた激痛が、嘘のように消え去っていくのだ。
「……すぐに来れなくて悪かったな。これ、マルス家の秘伝の薬なんだ。持ち出すために親父を説得するのに、ちっとばかし時間がかかっちまってよ」
ソル様はバツが悪そうに鼻を擦った。
私は息を呑んだ。 噂には聞いたことがあった。マルス家が『軍神』の武名を確固たるものにするために代々受け継いできた、どんな重傷をも瞬時に癒やす門外不出の奇跡の霊薬。文字通り屋敷の外への持ち出しは厳禁とされている掟の薬を……彼は、私の痛みを止めるためだけに、父親と掛け合って持ち出してくれたのだ。
「……ソル、様……」
胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じながら、痛みの引いた私の意識は、今度こそ心地よい泥のような眠りの中へと沈んでいった。
次に目が覚めた時、窓の外からは明るい日差しが降り注いでいた。 驚くべきことに、あれほど苛まれていた筋肉痛もお尻の激痛も、完全に消え失せていた。身体が羽根のように軽い。
「あぁ……本当に魔法の薬でしたのね」
ベッドから起き上がり、控えていた従者に尋ねる。 「残す試練も、いよいよ最後の一つね。今日の発表会の予定はどうなっていますの?」
すると、従者は申し訳なさそうに眉を下げた。 「それが、お嬢様……。お嬢様は丸二日もの間、昏睡するように眠り続けておられまして……。最終試練のルール発表は、昨日のうちに既に終わってしまいました」
「あら、まあ……!」
私が呆気にとられていると、部屋の扉がノックされ、凛とした美声が響いた。
「その先は、私から説明させていただこう」
入ってきたのは、非の打ち所がない純白の衣装を纏った、アンブローズ家のフィリックス様だった。
「ミレーユ様、お加減はいかがかな? 心配になり、見舞いに伺わせてもらったよ」
「まあ、フィリックス様。ご丁寧に恐れ入りますわ。……それで、最終試練の内容はどうなりましたの?」
すっかり他人事のような気楽さで尋ねる私に、フィリックス様は真剣な面持ちで語り始めた。
「覚えていると思うが、残されたのは『武力の試練』。内容は真剣を用いた一対一の決闘だ。ただし、チェイスの時のような総当たりではなく、勝ち抜きトーナメント戦で行われる」
「なるほど、トーナメント……。それで、組み合わせはどうなりましたの?」
「一回戦を戦い、その勝者がシード選手と準決勝を行い、勝ち上がった二名が決勝で王位を争う。……A組の一回戦はスグル対マリオ、その勝者がシードのゼノと当たる。そしてB組は、私とビショップの一回戦、その勝者がシードのソルと戦うことになった」
(……あの極限レースで身体を酷使したソル様がシード枠に入れたのなら、少し安心ね)
心の中でほっと胸を撫で下ろしながら、私は相槌を打った。 「まあ、フィリックス様のB組は、怪力無双のビショップ様に軍神のソル様と、武芸を本領とするお家ばかりで大変ですわね」
「ああ……うん。そうだね……」
説明を終えたフィリックス様は、なぜか視線を彷徨わせ、指先をもじもじと弄り始めた。
(……あら? 何かしら、この空気は)
しばらく様子を観察していると、彼の言いたいことが透けて見えてきた。なるほど、この男もまた、私に「補佐」を頼みに来たのだ。
フィリックス様は一人で何やら葛藤するように唸った後、言い訳のように早口で語り出した。
「そ、そういえば……スグルはこれまでの得点上、この試練でトップを取っても総合優勝は不可能な計算らしい。だが私は……この最終試練でトップを取り、他者の順位次第では、ギリギリで王位に手が届く位置にいるのだよ」
「まあ、そうなのですか」 「うむ……。だから、私にとって、これは絶対に負けられない戦いなのだ……」
ウジウジ、モジモジ。 王者の風格を漂わせていたはずのフィリックス様が、まるで好きな女の子に話しかけられない初心な少年のように煮え切らない態度を続けている。 いい加減痺れを切らした私は、冷ややかに微笑んで牽制球を投げた。
「あの、フィリックス様。病み上がりのうら若き乙女の寝所に、そう長く殿方が長居されるものではございませんのよ?」
「あっ……そ、そうだな! すまない!」
慌てて踵を返し、扉のノブに手をかけたフィリックス様。しかし、扉を開ける寸前、彼は意を決したようにバッと振り返った。
「ミレーユ!! もしよろしければ……私の補佐になってくれないだろうか!?」
私はすまし顔で首を傾げてみせる。 「そう仰られましても……私、剣術の心得などさっぱり分かりませんし、補佐としてお役に立てることなど何もございませんわ」
一度口に出してしまえば腹が据わったのか、フィリックス様は私の手を取り、熱弁を振るい始めた。
「役に立つとか立たないとか、そういう問題ではないんだ! 君はあのビショップを知恵で勝たせ、マリオを怪力で勝たせ、ゼノを気品で勝たせ、そしてソルを持久力でトップに導いた! 種目がすべて異なるにもかかわらず、だ! ……君は間違いなく、我が国を統べるべき本物の『勝利の女神』なんだよ!」
(まったく……どいつもこいつも、大の男が揃いも揃って情けないこと……)
心の中で呆れ果てる私。 だが、計算高い私としては、ここでフィリックス様の頼みを断る理由もない。仮に彼が王位を逃したとしても、五大名家の長男全員に「決して返せないほど巨大な恩」を売っておくことは、我がゴールドバーグ家の将来にとって莫大な利益となる。
「かしこまりましたわ。……ただし、今回ばかりは私から具体的なアドバイスや奇策を授けることはできませんことよ?」
「構わない! 君がそこにいて、私を応援してくれるだけで、私は百人力の勇気を得られるのだから!」
パッと顔を輝かせ、満面の笑みを浮かべたフィリックス様は、意気揚々と帰路についていったのだった。
本当にやることがなくなってしまった私は、一回戦の当日まで、我が家のサロンにいつもの友人たち――ローラ様、テレーズ様、ブロンテ様を招き、優雅にお茶会をして過ごすことにした。
テーブルにつくや否や、ローラ様がわざとらしく扇子を広げて深々と頭を下げた。
「これこれは……王女殿下。私どものような下々の者をお茶会にお呼び立ていただき、恐悦至極に存じますわ」
クスクスと漏れ出た笑いは、一瞬にして全員の大爆笑へと変わった。
「もう、ローラ様ったら! 毎回それをおやりになりますのね」 「だって言いたいんですもの!」
ひとしきり笑い転げた後、話題は当然のように王位争奪戦の行方へと移った。
ローラ様が真面目な顔をして紅茶に口をつける。 「冗談はさておき……これだけ圧倒的な存在感を見せつけたミレーユ様を、新国王となる殿方が正妃に迎え入れないはずがありませんわね」
テレーズ様が身を乗り出して頷く。 「ええ! どなたが優勝されても、ミレーユ様はそれをお受け入れになるのかしら?」
「当然ですわ」 私は即座に答えた。 「私のような弱小貴族の娘に、国王陛下からの求婚を断る権利などございませんもの」
すると、ブロンテ様が悪戯っぽく目を輝かせ、テーブル越しに顔を寄せてきた。
「じゃあ……もしも、ですわよ? 家のしがらみも身分も関係なく、ご自身の『お好み』だけで選べるとしたら……ミレーユ様はどの殿方をお選びになりますの?」
「え……?」
思いがけない問いに、私は目を瞬かせた。 ここ数ヶ月、次々と降りかかる無茶振りをこなすのに必死で、「自分が誰を選ぶか」などという贅沢な思考を巡らせる余裕など、微塵もなかったのだ。
ブロンテ様は夢見るような手つきで指を折っていく。
「頼もしい筋肉美と男らしさを誇るビショップ様? 太陽のように明るく情熱的なマリオ様? どこまでもクールでスマートなゼノ様? 常に前向きで情熱的なソル様? それとも……知性と品格に溢れる完璧な貴公子、フィリックス様かしら!?」
ローラ様がうっとりと頬を染める。 「やっぱり、フィリックス様のあの知的な佇まいは素敵ですわよねぇ」 テレーズ様も同調する。 「ゼノ様のあの冷ややかで大人びたエスコートも捨てがたいわ!」 ブロンテ様に至っては、口元を手で押さえながら身悶えている。 「ソル様とビショップ様の、あの鍛え上げられた彫刻のような肉体美のぶつかり合いと言ったらもう……! じゅるり」
「ブロンテ様、またお下品な音をお立てになって……」
友人たちの黄色い歓声を耳にしながら、私はふと、彼女たちが口にした「完璧な貴公子たち」の素顔を思い返していた。
……世間が崇めるような、完璧な殿方などどこにもいなかった。
ビショップ様は、身体が大きいだけで中身は泣き言ばかりの小心者。 マリオ様は、明るく振る舞っているけれど裏では誰よりも劣等感に怯える心配性。 ゼノ様は、クールなのではなく単に自分の興味以外に無関心なだけ。 ソル様は、前向きというより失敗を恐れて必死に虚勢を張っているだけ。 そしてフィリックス様は、知的で誇り高いように見えて、その実ただ臆病なだけ。
世間が思い描く「華麗なる五大貴族の跡取り」の分厚い仮面の下にいたのは――揃いも揃って、傷つきやすく、情けなくて、不器用な、ちっぽけな男の子たちだった。
(……ふふ)
けれど。 その格好悪さも、必死さも、私に見せてくれた情けない素顔のすべてが――どうしようもなく愛おしいと、心の底から思っている自分がいた。
私はカップをソーサーに戻し、フッと誇らしげに微笑んだ。
「ふん。……あんなの、みんなただの小さな男の子たちですわよ」
私の言葉に、令嬢たちが一斉に黄色い悲鳴を上げた。
「きゃーーっ! 言ってみたい、一度でいいからそんなセリフ言ってみたいですわぁぁ!」 「流石は全員と夜を明かし、屋敷に泊まり込んで手綱を握った女帝の余裕ね!」 「社交界では今や、五大貴族の跡取り全員がミレーユ様のことしか頭にないって噂で持ちきりですわよ!」
きゃいきゃいと騒ぎ立てる友人たちの笑い声に包まれながら、私は穏やかなティータイムを堪能した。
そして――。 ついに、王国すべての運命を決する「最後の決戦の日」の朝が訪れるのだった。

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