欲望の魔弾 平沢裕の場合 その1

都心のビル群の底に位置するコンビニエンスストアは、蛍光灯の冷たい光だけを昼夜問わず放ち続けている。都会のオアシスを標榜するその場所に流れ着く人間が、必ずしも善良であるとは限らない。むしろ、理不尽なストレスの捌け口を求めて徘徊する亡霊のような者ばかりだった。

レジに立つ平沢裕(ひらさわ ゆたか)の前に現れたのは、白髪交じりの六十歳前後の男性客だった。男は陳列棚から引き抜いた雑誌を乱暴にカウンターへ叩きつけると、表紙の端についたわずかな折り目を指差し、平沢を怒鳴りつけた。

「おい、これ折り目がついてるじゃねえか。半額にしろよ!」

平沢は眉ひとつ動かさず、感情を削ぎ落とした声で返した。

「破損品は廃棄する規則になっております。お客様に販売することはできません」

男の顔が羞恥と怒りで朱に染まる。

「サステナビリティの観点から言ってやってんだよ! 捨てるくらいなら俺が買ってやるって親切に言ってんだろうが! お前は客の声を無視する気か!?」 「規則ですので」 「店長を出せ、店長を!」 「少々お待ちください」

平沢は無表情のまま一礼し、足早にバックヤードへと向かった。

「店長、お客様がお呼びです」

休憩中だった店長は「またかよ……」と露骨に嫌な顔をして売り場へ出ると、怒り狂う客の前で腰を折って平謝りし、規定外の値引き処理をして雑誌を売り渡した。客が満足げに出て行った後、店長は苛立ちを隠さず平沢に詰め寄った。

「平沢君さあ、何度も言ってるけど、もうちょっと柔軟性を持ってよ」 「では、激高したお客様には、すべて言われるがまま従えばよろしいですか?」

平沢の論理的だが無機質な問いかけに、店長は呆れ果てたように息を吐き捨てた。

「そういう極論を言ってるんじゃないんだよ……君には分からないよね。もういいよ」 「『もういいよ』とは何ですか。店長から始められた話ですよね」 「だから、もういいって言ってんだろ!」

吐き捨てるように言い放ち、店長はバックヤードへと逃げ込んでいった。取り残されたレジの中で、平沢は冷ややかな目でその背中を見つめていた。

――世の中、愚か者しかいない。

夜勤を終えて安アパートの一室に帰り着くと、平沢は日課である深夜アニメの録画を再生した。画面の中で描かれているのは、高校生たちが眩しい日差しの中で部活や恋愛に打ち込む、色鮮やかな青春劇だった。平沢にとって、それは完全に未知の世界であり、同時に手の届かない幻影への渇望でもあった。

平沢の高校生活には、色彩など一片も存在しなかった。官僚であった厳格な父親から「一流の大学へ進み、一流の企業へ就職することこそが人生のすべてだ」と叩き込まれ、ただひたすらに机に向かい続けた。周囲から「変人」「ガリ勉」と陰口を叩かれようとも、安心で誇らしい未来を信じて耐え抜いた。その努力は実を結び、見事に日本最高峰の国立大学への合格を勝ち取った。その時、バラ色の未来は約束されたはずだった。

だが、現実は残酷だった。

最高峰のキャンパスにいたのは、平沢のように青春を犠牲にして詰め込んだ秀才などではなく、部活も遊びも全力で楽しみながら涼しい顔でトップクラスの成績を修める、本物の天才たちばかりだった。要領よく人生を謳歌する同期たちの輪に、青春の情緒を何一つ学んでこなかった平沢が馴染めるはずもなかった。友達は一人もできず、孤立した平沢が逃げ込んだのは、かつて親から厳しく禁じられていたアニメやテレビゲームの世界だった。

二十年分抑圧されてきた欲望が決壊し、彼は大学の四年間を娯楽の中へ溺れさせた。

当然のように、就職活動は破綻した。面接の場でも世間知らずな杓子定規を貫き、「御社の福利厚生の具体的条件は何ですか」「御社の製品の真の強みは何ですか」と、建前を解さない無遠慮な逆質問を繰り返して全滅した。ようやく滑り込んだ先は、誰もが敬遠する独立系の金融会社――実態は絵に描いたようなブラック企業だった。

素性の怪しい金融商品を売りつけるため、朝から晩まで電話をかけ続けさせられた。ようやく掴んだアポイント先で塩を投げつけられ、手ぶらで帰社すれば上司から人格を否定する罵声を浴びせられ、深夜まで個人宅への飛び込み営業を強いられた。半年で限界を迎え退職を願い出たが、上司は「こんな甘えは他所じゃ通用しない」「辞めるなら代わりを連れてこい」と恫喝し、書類を受理しなかった。まともな人間関係を知らない平沢は、それが違法な異常事態であると判断することすらできず、二年のあいだ心をすり減らし続け、最後は重度のうつ病を発症して実家へ担ぎ込まれた。

実家に戻った平沢を待っていたのは、家族の温もりではなく、冷酷な侮蔑だった。両親は彼を「一族の恥」として扱い、目を合わせることすら避けた。言われた通りに真面目に生きてきたはずなのに、なぜ自分がこんな目に遭わなければならないのか。

休養後、父親の縁故を頼って大手製造業へのコネ入社を果たした。今度こそ自分の知性が活かせるはずだと信じたが、そこは平沢にとって前職以上の地獄だった。ノルマこそ緩やかだったものの、評価の基準はすべて社内政治――いかに上司の機嫌を取り、いかに仕事をしている風に見せかけるかという、媚び売りの能力だった。実直な論理しか持たない平沢は即座に「高学歴の無能」という烙印を押され、わずか一年で追い出されるように退職へと追い込まれた。

その後は自室に引きこもる日々が続いたが、何一つ生産しない自身の存在に耐えられず、社会との細い接点として始めたのがコンビニのアルバイトだった。

「なぜ、この俺がこんな愚鈍な連中の相手をしなければならないのか」

日々湧き上がる自問自答の苦痛を紛らわせるため、平沢はインターネットの闇へと傾倒していった。ネットの掲示板やSNSでは、無数の人間が社会の不条理、腐敗した政治、堕落した大衆を糾弾していた。平沢はその過激な言論に深くのめり込んだ。

世界は腐敗している。愚かな大衆は欺かれ、真実は常に隠蔽されている。自分のような真に知性ある人間が埋殺されているこの理不尽なシステムを、根本から覆す絶対的な力さえあれば――。

そんな妄執に取り憑かれていた、ある夜のことだった。

ふと意識が覚醒した。

視界を塞ぐのは、完全な漆黒だった。どれだけ目を凝らしても、薄明かりすら差し込んでこない。暗闇に目が慣れる気配もなく、平沢は枕元のスマートフォンを探そうと手を伸ばした。

だが、指先が触れたのは、愛用しているベッドのスプリングではなく、冷え切った見知らぬ硬い床面だった。

「な……んだ、これは」

慌てて飛び起き、手探りで周囲を探るが、何もない。六畳間の壁すら触れない。

「誰か……! 誰かいないのか!」

恐怖に駆られて叫んだその時、数メートル先の虚空が、ゆらりと妖しく紫色に発光した。

光の収束とともに現れたのは、息を呑むような異形の女性だった。頭部からねじれるように伸びる二本の山羊の角。身に纏っているのは、ほとんど皮膚を隠せていない扇情的な下着のみ。現実離れしたプロポーションを持つその怪異は、唇を妖艶に歪め、平沢を見つめていた。

「やあ、選ばれし人よ」

鈴を転がすような、それでいて脳髄を直接撫でるような声だった。

「この世を変える力が欲しいかい?」

恐怖は一瞬で吹き飛んだ。平沢の胸を満たしたのは、全身の血液が沸騰するような歓喜だった。ネットの世界で夢想し、夜ごとのアニメで渇望していた運命の瞬間が、ついに自分に訪れたのだ。

「……もちろんだ」

平沢は迷うことなく即答した。女性――悪魔マモンは満足げに細い喉を鳴らし、妖しく微笑んだ。

「『欲望の魔弾(モータルバレット)』をあなたに授けましょう。あなたのような人間なら、きっとこの腐った世界を、思うがままに変えてくれるはずよ」

紫の光が弾け飛んだ瞬間、平沢の意識は激しい浮遊感とともに引き戻された。

目を開けると、いつもの見慣れた自室の天井が広がっていた。朝日がカーテンの隙間から差し込んでいる。

夢か、と平沢は息を吐きかけた。だが、脳裏にはあの魔弾の撃ち方が、まるで生まれた時からの本能であるかのように刻み込まれていた。右手を掲げ、親指と人差し指を立てて拳銃の形を作る。

刹那、彼の掌に、黒く禍々しい重厚な拳銃が具現化した。

「……はは、あはははは!」

平沢は歓喜に打ち震え、狂ったように笑い声をあげた。ついに手に入れたのだ。愚鈍なルールを押し付ける社会を、ゴミのような人間どもを、神の視点から選別し処刑する絶対の権利を。

その日、平沢はいつもと同じ時間にコンビニへと出勤した。

夕方の混雑時、自動ドアが開くと同時に、あの白髪交じりのクレーマーが再び姿を現した。男は真っ直ぐ平沢のレジへ詰め寄ると、手に持ったチルド弁当をドンとカウンターに叩きつけた。

「おい! この弁当、中の具材が片寄って崩れてるぞ! こんな不良品を平気で売るのか!? 客を舐めてんのか、誠意を見せろ!」

昨日と同じ、理不尽極まりない難癖。だが、今日の平沢の心には、苛立ちなど微塵も湧かなかった。むしろ、実験動物が自ら檻の中に飛び込んできたかのような、冷酷な愉悦が込み上げていた。

平沢は口角を吊り上げ、穏やかに微笑んだ。

「損傷のある製品は販売できません。こちらは廃棄いたしますね」

弁当を引き戻そうとする平沢の態度に、男は顔を真っ赤にして怒声を張り上げた。

「なんだその小馬鹿にした態度は! 店長を呼べ、店長を!」

「かしこまりました」

平沢は軽やかな足取りでバックヤードへ向かい、店長を売り場へと連れ出した。またしても頭を抱えながら出てきた店長は、カウンター越しに客へ深々と頭を下げた。

「大変申し訳ございません! こいつ、本当に物事の分かっていない使えない奴でして……」 「まったくだ! どういう教育をしてるんだ、この野郎!」

ペコペコと卑屈に詫び続ける店長と、勝ち誇ったように怒鳴り散らす男。その醜悪なやり取りを、平沢はカウンターの隅から、腕を組んでじっと見つめていた。その唇には、隠しようもない嘲笑が浮かんでいた。

ふと平沢の視線に気づいた二人が、同時に顔を跳ね上げ、怒りの矛先を彼へ向けた。

「おい! 何をニヤニヤ笑ってやがるんだ! てめえのことだぞ!」 「平沢君! 君、自分が何をしたか分かって――」

二人が怒号を放ったその瞬間。

平沢はポケットの中で、静かに指先の引き金を引いた。

(モータルバレット)

音も光もなく放たれた不可視の魔弾が、二人の胸を瞬時に撃ち抜いた。

「がっ……」

短い呻き声が重なった。激高していた男と、卑屈に詫びていた店長が、糸の切れた操り人形のように同時にその場へ崩れ落ちた。白目を剥き、二度と動かない肉の塊となって、狭いカウンターの通路を塞ぐ。

売り場の遠くから客の小さな悲鳴が聞こえ始めたが、平沢の耳には何も届いていなかった。

彼はポケットの中で、まだ熱を帯びている魔弾の銃身を愛おしそうに撫でながら、ゆっくりと口角を吊り上げた。

「――さて。世界を変えるとするか」


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