欲望の魔弾 平沢裕の場合 その2

その日から、平沢裕の脳内を支配したのは、ただ一つ――「世界を正常にする」という狂信的な使命感だけだった。

彼が最初に選んだ処刑場は、国会議事堂の前だった。国家の舵取りを歪める腐敗した政治家を片っ端から排除すれば、世の中は一瞬で浄化されるはずだと信じていたのだ。しかし、黒塗りの公用車に乗って門をくぐる議員たちの顔は、スモークガラスに遮られて誰が誰かも判別がつかない。業を煮やした平沢は、適当に見定めた車両へ向けて無差別にモータルバレットを乱射した。車内で突如として要人が絶命し、議事堂前は蜂の巣をつついたような大パニックに陥ったが、結果として警備体制が異常なまでに強化され、政治家たちは議事堂に姿を見せなくなってしまった。

次に平沢が狙いを定めたのは、選挙期間中の街頭演説だった。現職議員や大物政治家が路上に立つ絶好の機会だ。だが、議事堂での怪事件を経て厳戒態勢を敷く警察の壁は厚く、少しでも不審な挙動を見せれば職務質問の包囲網が迫る。結局、本命の首脳陣を捉えることは叶わず、演説会場からも要人たちは急速に姿を消していった。

狙うべき「巨悪」の姿を見失った平沢の殺意は、やがて日常に溢れる身近な「悪」へと零れ落ちていった。

コンビニやファミレスで店員に横柄な態度を取る客、役所の窓口で怒鳴り散らす老人、電車内で我が物顔に騒ぐ若者。平沢は街を徘徊し、目につく不誠実な人間を片っ端から心不全で屠っていった。だが、殺しても殺しても、翌日にはまた新しい「悪」がどこからともなく湧き出してくる。

不可解な突然死の連続は、ニュースやSNSで一時的に「謎の急死事件」「天罰」として話題に上りはしたが、平沢が望むような理想郷が訪れる気配は微塵もなかった。

それでも彼は愚直に引き金を引き続けた。企業の粉飾決算、官公庁の汚職、公共放送の不祥事――ネットニュースで騒ぎが起きるたび、平沢はその本社ビルへ駆けつけ、出入りする人間を無差別に撃ち殺した。しかし、彼の放つ弾丸が届くのは、いつも現場の警備員や下請けの平社員ばかりだった。問題が起きるたびに要職の人間が不審死を遂げるという噂が広まるにつれ、真の決定権を持つ黒幕たちは徹底して現場から姿を消し、平沢の前に現れることは二度となくなったのだ。

モータルバレットを手に入れてから、数年の歳月が流れていた。

皮肉なことに、社会は根本的には何一つ変わっていなかった。ただ「理不尽に振る舞うと謎の死を遂げる」という都市伝説めいた恐怖が浸透したことで、街角からはカスハラや暴言が鳴りを潜め、表面的には不気味なほど礼儀正しい空気が漂うようになっていた。一般市民の間では「社会が妙に清廉化された」と歓迎する空気すらあったが、それは平沢が求めていた「社会構造の根本的変革」とはまるでかけ離れていた。

平沢のフラストレーションは限界に達していた。

誰を撃てばいいのかが分からない。その苛立ちの矛先は、さらに矮小な対象へと歪んでいった。深夜の暴走族、迷惑行為を配信するYouTuber、街角のチンピラ。撃ち倒す相手は社会の最底辺ばかりで、いくら殺害数を積み上げても、歴史を動かしている実感など一片も得られなかった。

「巨悪は……本物の巨悪は、一体どこに隠れているんだ」

カーテンを閉め切った薄暗い自室で、平沢は爪を噛みながら一人呟く。三十を過ぎて完全な引きこもりと化した息子を案じ、両親がおずおずと声をかけてくることもあったが、「俺は世界を正常に戻す崇高な仕事で忙しいんだ」と目を血走らせて喚き散らす平沢の狂気に、老いた両親はただ怯え、遠巻きにするしかなかった。

焦燥が頂点に達した平沢は、ついに最後の大博打に出ることを決意した。

標的に選んだのは、日本を代表する公共放送機関の巨大な本社ビルだった。

平沢が心酔するネット掲示板の陰謀論コミュニティでは、その放送局こそが世論を誘導し、真実を隠蔽して国民を洗脳する諸悪の根源だと声高に叫ばれていた。書き込まれた情報のほとんどは荒唐無稽なデマや偏見の塊だったが、過去の不祥事の事実を巧妙に混ぜ込まれた扇動は、妄執に取り憑かれた平沢の濁った瞳には「絶対の真実」として映っていた。

その日は、年に一度の役員総会が開催される日だった。

「今日、あのビルにすべての黒幕が集う――」

これまでは防犯カメラや警察の目を警戒し、慎重に痕跡を消してきた平沢だったが、もはやそんな配慮すら投げ捨てていた。彼はただ一人、正義の断罪者を気取り、正面玄関から堂々と堂内へと突入した。

「おい、君! 入館証は――」

制止しようと駆け寄ってきたエントランスの警備員に向け、平沢は右手を突き出した。

「俺は世界を正す。それに抵抗するのであれば、露払いをさせていただく」

彼なりの身勝手な流儀を吐き捨て、引き金を引く。警備員はその場に崩れ落ちた。逃げ惑う受付嬢や職員たちを尻目に、平沢は立ち塞がる者を片っ端から撃ち殺しながら、エレベーターへと乗り込んだ。

上層階へと上がると、廊下を徘徊し、目についた会議室のドアを手当たり次第に開け放った。上座に座るそれらしい人物を見つけては、問答無用で心臓を撃ち抜いていく。阿鼻叫喚の地獄絵図の中をさまよい歩き、ついに彼の一際目を引く重厚な扉の前に辿り着いた。

金文字で刻まれたプレートには、『役員総会』とあった。

「ついに……ついに辿り着いたぞ。この国の巨悪共め……!」

歓喜に顔を歪ませ、平沢は勢いよく扉を蹴破った。

広大な円卓を囲み、顔色を失った白髪の重役たちが整然と並んでいた。平沢は勝ち誇った笑みを浮かべ、両手を掲げた。

「皆殺しだ」

狙いを定め、引き金を引く。

――カチリ。

指先に伝わったのは、今まで感じたことのない乾いた、空虚な感触だった。

閃光も、手応えもない。狙われた上座の老人は、怯えた表情のまま胸を押さえることもなく、ただ平沢を見つめている。

「な……んだ?」

カチ、カチ、カチ、と平沢は狂ったように人差し指を動かした。だが、何も起きない。

室内の様子も奇妙だった。銃そのものは他人に見えないはずだが、怒鳴り込んできた不審者に対し、役員たちは恐怖で逃げ惑うでもなく、ただ怪訝そうに、哀れむような冷ややかな視線をこちらへ向けているだけだった。

「くそっ! 出ろ! なぜ出ないんだ!?」

どれだけ指を震わせても、不可視の弾丸は一向に放たれない。パニックで錯乱した平沢は、天を仰いで絶叫した。

「あの女……! どうなってやがるんだ、マモン!!」

「ふふ……どうかしたの?」

背後から、鈴の音のように軽やかな、しかし背筋の凍るような甘い声が降ってきた。

振り返ると、数年前のあの夜と何一つ変わらない姿の悪魔マモンが、妖艶な肢体をくねらせて立っていた。

「マモン! 貴様、この肝心な時に弾が出ないぞ! どういうことだ!」 「あらあら、まあまあ……弾切れね」

マモンはわざとらしく小首を傾げ、薄い唇を三日月のように吊り上げた。

「弾切れだと!? ふざけるな! すぐに補充しろ! 俺は今、世界を変える歴史的瞬間に立ち会っているんだぞ!」 「だめよー。だって、あの弾丸はあなた自身の魂なんだから。お代わりなんてあるわけないじゃない」 「……は?」

平沢の思考が完全に凍結した。

「世の中にタダのものなんてないのよ。でも感心しちゃうわ。私があの銃を人間に与えるようになって数十年……まさか自分の魂を全部使い切るまで撃ち尽くした馬鹿は、あなたが初めてよ」

平沢は掠れた喉で「何を言っているんだ」と呟こうとした。だが、声が出ない。

ふと足元を見下ろした平沢は、息を呑んだ。

高級な絨毯の上に、だらしなく手足を投げ出して倒れている男がいる。青白い顔で白目を剥き、完全に呼吸を停止させているその死体は――紛れもなく、平沢裕自身だった。

「あ……あ、ああ……」

自分は、部屋に踏み込んだその瞬間に、魂の残量をすべて使い果たしてとっくに死んでいたのだ。役員たちが逃げもせず冷ややかな目を向けていたのは、平沢が叫んでいたからではなく、部屋に飛び込んできた男がいきなり床に突っ伏して急死したからだった。

「残念だけど、あなたの魂はもう一欠片も残っていないわ。天国に行く資格もなければ、地獄に落ちる肉塊すらない。あなたはただ、この暗闇の狭間で、永遠に意識だけを漂わせ続けるの」

底知れぬ虚無の宣告に、平沢の霊魂は絶望の叫びをあげて床に這いつくばった。正義の使徒などではなかった。世界を変える英雄などではなかった。自分はただ、悪魔の掌の上で自らの魂を切り売りし、他人の命を貪り食っていただけの道化だったのだ。

「でもね……ラストチャンスをあげるわ」

立ち去ろうとしていたマモンが、悪戯っぽく振り返り、満面の笑みを浮かべた。

「私の下僕になって、悪魔として一生仕えるなら……悪魔の端くれとして、その意識を繋ぎ止めてあげてもいいわよ?」

「あ、悪魔……?」

平沢は激しく動揺した。自分は神に選ばれた正義の執行者であり、マモンもまた天の使いであると、心のどこかで都合よく信じ込んでいたのだ。その自分が、唾棄すべき悪魔の僕になるというのか。

葛藤に震え、言葉を失う平沢を、マモンは退屈そうに見下ろした。

「あら、別に無理強いはしないわよ。このまま永遠の無に消え去るのも自由だしね。でも、この提案に乗るチャンスは、今、この瞬間だけ」

平沢の逡巡を嘲笑うように、マモンは踵を返した。

「もう飽きちゃったから帰るね。それじゃーね」

「ま、待て! 待ってくれ!!」

完全な消滅への底知れぬ恐怖に呑み込まれ、平沢はなりふり構わず叫んでいた。

「なる! 悪魔になる! 俺を……俺を消さないでくれ!!」

「ふふっ、よかったわ。それじゃあ、これからは私の可愛い手下として、永遠に続く退廃を楽しんでね」

マモンの指先が平沢の額に触れた瞬間、黒く濁った毒のような魔力が、彼の意識の輪郭を塗り潰していった。

正義を信じ、世界を正常に戻すと嘯いた男は、その日、自らが最も嫌悪していた理不尽な巨悪の歯車へと成り下がった。

悪魔マモンの言いなりとなって人間の欲望を弄び、地獄へと魂を収穫し続ける――自らの過ちを呪いながら、永遠とも呼べる時間を果てしない後悔で満たす旅が、いま始まろうとしていた。


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