指先が触れたのは、ひどく冷たく、滑らかな感触だった。金属ではない。硬質プラスチックを極限まで磨き上げたような、無機質で乾いた質感だ。
身を起こすと、視界を埋め尽くしたのは異様な闇と光のコントラストだった。 床も壁も、光沢を帯びた完全な漆黒。その境界線にだけ、蛍光のブルーライトが細い一本の線となって走り、闇の中に奥行きを刻みつけている。 見上げれば天井はなく、壁は高さ三メートルほどのところで途切れていた。しかし、その上に広がっているのは夜空ですらない。星一つ、雲一つ見えない、奥行きすら定かではない絶対的な虚無の暗黒だった。
俺がいるのは、幅二メートルほどの狭い通路だった。 前方はどこまでも折れ曲がりながら続いているようだが、背後を振り返るとすぐに行き止まりになっていた。その行き止まりの壁面には、毒々しい蛍光ピンクの光で、はっきりと刻まれている。
『START』
心臓が嫌な音を立てて跳ねた。 息を呑み、混乱を抑えようとして、そこで致命的な異常に気がついた。
自分は何者だ? 名前は? ここに来る前、何をしていた? 家族は、友人は、仕事は、自分の性格すら――何も、欠片ひとつ思い出せない。記憶の引き出しが丸ごと、暴力的に消去されている。
慌てて自分の体を改めた。鏡はないが、見下ろした己の姿は、失われた記憶以上に異常だった。 足元には鮮やかな赤いスニーカー、両手には同じく赤い手袋。身に纏っているのは原色の青いTシャツと、その上に重ねた目の覚めるような黄色いつなぎ。 まともな人間の私服とは思えない。知識の底にある「常識的なファッションセンス」から絶望的に乖離した、ピエロか狂人のような格好だった。
どれだけ頭を抱えて唸っても、霧が晴れる気配はない。 時計はなく、数分が経ったのか、数時間が経ったのかすら曖昧だった。ただ、この閉ざされた『START』の前に立ち尽くしていても、状況は何一つ好転しないことだけは確かだった。
意を決して、迷路のような黒い通路へと足を踏み出した。
青いラインを頼りに少し歩くと、すぐに視界が開け、最初の十字路に差し掛かった。壁の圧迫感が薄れたことで、改めて頭上の虚空を見渡す。 そのとき、最初の位置から見て右手の上空、何もない暗闇の中に光る文字列が浮かんでいるのに気づいた。
『 3 21200 3277 』
整然と並ぶデジタル調の数字。 目を凝らして見つめていると、右端の「3277」がふっと揺らぎ、「3276」に切り替わった。 3275、3274、3273……。 規則正しく、一秒ごとに減っていく。
カウントダウンだ。 残り約三千二百秒。時間に直せば、五十数分。この数字がゼロになったとき、間違いなく何かが起きる。 左の「3」と中央の「21200」には一切の動きがない。もしこれが何かの対戦ゲームのスコアボードだとしたら、自分と誰かの点数なのだろうか。それにしては差が開きすぎている。あるいは、自分自身がすでに大敗している側なのか。 考えても答えは出ない。ただ、自分に残された猶予が刻一刻と削られているという冷酷な事実だけが、胸を締め付けた。
ふと視界の端、逆サイドの通路の奥に違和感を覚えた。 地上から一メートルほどの高さに、直径十センチほどの小さな白い光の玉が、ふわふわと浮遊している。 罠かもしれない。だが、他に手掛かりは皆無だった。
恐る恐る距離を詰め、右手を伸ばす。赤い手袋の指先が、その白い球体に触れた。 物理的な手応えは皆無だった。まるで実体のない光の幻影に触れたかのように、球体は「ピコン」と乾いた高い電子音を立てて弾け、虚空へと消え去った。
息を呑んで上空の数字を見上げる。 左の「3」は動かない。だが、中央の数字が「21200」から「21300」へと跳ね上がっていた。
百ポイント、加算された。 背筋に冷たい戦慄と、奇妙な納得感が走る。 そういうことか。この狂った空間は、あの白い球を拾い集めるゲームなのだ。 カウントダウンの数字は、すでに三千二百の境界を割り込んでいた。
「集めるしかない……!」
声に出して自分を奮い立たせ、俺は地を蹴った。 闇雲に走っても迷うだけだ。地図もコンパスもないこの状況で、確実に迷路を走破するための古典的なセオリーが脳裏をよぎる。――右手の法則。常に片側の壁に手を触れ、あるいは意識を沿わせながら進めば、輪っか状の独立した構造でない限り、理論上はすべての通路を巡ることができる。
運任せの徘徊を捨て、右の壁に意識を固定して走り始めた。 一定の間隔を置くごとに、白い球体が暗闇の中にポツンと浮かんでいる。 ピコン、ピコン、ピコン。 小気味よい電子音とともにスコアを重ねていく。
だが、足を動かし続けるうちに、疑念が澱のように心へ溜まっていった。 なぜ、初期スコアがゼロではなく「21200」なんていう中途半端な数字だったのか。 左端に居座り続ける「3」という数字は何を意味しているのか。 頭をフル回転させても、まともな仮説すら組み上がらない。
ふと頭上を仰ぐと、タイマーはすでに「2424」を示していた。 走り始めてから優に十分以上が経過している。かなりのハイペースを維持しているはずなのに、呼吸は乱れず、足腰にもほとんど疲労を感じない。自分の素性は思い出せないままだが、どうやら肉体の持久力だけは常軌を逸して優れているようだった。 しかし、肉体は耐えられても、精神が悲鳴を上げ始めていた。どこまで行っても同じ黒い壁と青い光のライン。終わりが見えないまま、容赦なく減り続ける秒数。この乾いた孤独が、じわじわと神経をすり減らしていく。
気づけばスコアは「24900」に達していた。 いくつ集めれば終わるのか。それとも点数など無関係で、時間切れを待つだけなのか。 焦燥を募らせながら角を曲がり、また次の通路へと滑り込む。
だが――そこから先、白い球が忽然と姿を消した。 どれだけ進んでも、視界に光球が入ってこない。タイマーは無情にも「1800」台へと突入していた。制限時間の半分が過ぎ去ったのだ。
「どこだ……どこにあるんだよ……!」
独り言が漏れた、その直後だった。 直角のコーナーを鋭く曲がった先、通路の真ん中に『それ』はいた。
今まで集めてきたものとは明らかに違う。 直径一・五メートルほど。自分の身長よりわずかに小さい程度の、巨大な球体だった。しかも白ではなく、禍々しくも淡いピンク色の光をぼんやりと明滅させている。 異様ではあったが、球体という形状は同じだ。
ゴールなのか? これに触れれば、この悪夢から抜け出せるのか?
思わず足を止め、荒くなりかけた呼吸を整える。胸の奥底で希望が膨らんだ。 これまでと同じように、俺は慎重に赤い手袋の右手を伸ばした。
あと数センチで指先が届く、というその瞬間だった。
ピンクの球体の真ん中に、唐突に横一文字の裂け目が走った。 裂け目は瞬く間に上下へと大きく開き――その内部を晒した。 そこにあったのは、幾重にも重なり合ってびっしりと生え揃った、鋭利な牙の群れだった。 まるでサメの口腔そのものだ。噛み砕くことだけを目的に作られた、底知れぬ暗黒の顎。
「――っ!?」
直感が脳髄を激しく殴打した。 ヤバい。これはゴールなんかじゃない。
幸いにも足を完全に止めていたため、勢い余ってその口内へ飛び込む事態だけは避けられた。 心臓が凍りつくような恐怖の中、俺は反射的に踵を返し、通路の床を強く蹴り飛ばした。
背後から、空気を切り裂くような異様な気配が迫る。 振り返る余裕すらない。化け物は足音すら立てず、俺が先ほど巡航していた速度とほぼ同等のスピードで、正確に間合いを詰めてきている。 逃げ切れなければ、あの牙でバラバラに噛み砕かれて死ぬ。それだけは理屈抜きに理解できた。
「うわああああっ!」
叫び声を上げながら、持てるすべての筋力を両足に注ぎ込んで全力疾走した。 直線ではわずかにこちらの方が速い。だが、直角に折れ曲がる迷路のコーナーが容赦なくスピードを奪う。 右へ、左へ、無我夢中で壁を蹴り、進路を変え続ける。肺が焼けつくように熱くなり、足が鉛のように重くなっていく。
一分か、二分か。 死線の上を走り抜け、ついに太ももが痙攣を起こしかけたとき、意を決して背後を盗み見た。
……いない。 静まり返った黒い通路の奥には、青いラインが虚しく伸びているだけだった。あのピンクの怪物は、どこかの分岐で撒いたのか、あるいは忽然と消滅したようだった。
壁に手をつき、その場に頽れそうになる体を必死で支える。 荒い息が喉の奥でヒューヒューと鳴った。 何なんだ、あれは。何なんだ、この悪趣味な世界は。 訳がわからない。誰か助けてくれ。 恐怖と疲労と孤独が綯い交ぜになり、視界が涙で滲みそうになった。
泣き濡れた顔を、何気なく上げた。
目の前に、ぽつりと浮かんでいた。 地上から一メートル。見慣れた、直径十センチほどの、白く光る小さなボール。
「……もう、どうにでもなれ」
いつまで走らされればいいのか。そんな自暴自棄に近い感情で、俺は力なく手を伸ばし、その球体に触れた。
その瞬間。
耳をつんざくような大音量が空間を満たした。 「ピコン」という単調な音ではない。電子音でチープに合成された、しかし高らかで華やかなファンファーレのメロディ。
思わず見上げた夜空のような完全な暗闇に、突如として巨大な光の文字列が浮かび上がった。
『 BONUS 5000 POINT 』
続けざまに、暗黒の空へ無数の光の粒子が打ち上がり、色鮮やかな大輪の花火となって炸裂した。 チープで、暴力的なまでに派手な祝福。
「……終わった……?」
呆然と呟き、それから熱いものが胸を突き上げた。 「やった……やったぞ! やり切ったんだ俺は!」 あれだけの恐怖も、足の限界も、すべて歓喜の奔流に吹き飛ばされた。俺はその場で両手を突き上げ、跳ね回った。生き残ったのだ。この狂ったゲームを、俺はクリアしたのだ。
高らかなファンファーレが、不意にプツリと鳴り止んだ。 同時に、世界全体が視界を奪うほどの純白の閃光に包まれた。
――終わった。これで、元の世界へ帰れる。
目を細め、光が収まるのを待った。
やがて眩い光が引き、再び視界に輪郭が戻ってくる。 ……冷たい、滑らかな感触。 黒い床。黒い壁。境界を走るブルーライト。
違和感に胸が凍りつく。 慌てて背後を振り返った。
行き止まりの壁面に、蛍光ピンクの毒々しい光で、その文字は刻まれていた。
『START』
「嘘だろ……?」
喉からかすれた悲鳴が漏れた。 激しい動悸に突き動かされるように、俺は前方の通路を全力で駆け抜け、あの十字路へと飛び出した。 すがるような思いで、頭上の虚空を見上げる。
そこに浮かび上がっていたのは、新しく更新された、冷酷な文字列だった。
『 4 30000 3598 』
左端の数字は「4」に増え、中央のスコアは綺麗に「30000」に揃い、そして右端のタイマーは、再び一秒ごとに減り始めていた。 3597、3596、3595――。
何一つ終わっていなかった。 俺はただ、ただ呆然と、冷たい床の上で立ち尽くしていた。

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