二人で挑む迷路は、それまでの絶酷な孤立無援の世界とはまるで違っていた。 何より大きかったのは、ルールの全容がおぼろげながら見えてきたこと、そして「役割分担」が可能になったことだ。
仮にあのピンクの怪物が現れても、狙われた一人が全速力で逃げ回っている間に、もう一人が残りの白い球を回収してしまえば、それだけでゲームは強制クリアとなる。あのおぞましい牙に追いつかれる前に、ファンファーレを鳴らしてステージを吹き飛ばしてしまえばいいのだ。 あんなに恐ろしかった死の迷宮が、二人で連携するだけで、拍子抜けするほど簡単なゲームへと姿を変えていた。
もちろん、同じ場所に固まっていれば二人まとめて食い殺される危険があるため、適度な距離を保つ必要はあった。だが、大声で合図を送り合っても怪物が音に引き寄せられる気配はなく、視覚だけで獲物を追っているらしいことも分かってきた。 ステージ6、そしてステージ7。俺たちは驚くほどあっさりと、危なげなく突破していった。
安全が確信に変わるにつれ、二人の心には急速に油断が広がっていった。 通路越しに交わす声も、次第に緊迫感を失い、他愛のない無駄話へと脱線していく。
「トマトって、本当に記憶ないの?」 角を曲がりながら、少し離れた通路からグレープの声が響いてくる。 「ああ、一切ないよ。見事に空っぽだ」 「好みとかもないの? 好きだったこととか」 「……好みか。どうだろうな、わずかながら残ってる気もする」 「へえ、何があるの?」 「カレー」 「……かれー? 何それ?」 「食べ物だよ。スパイスが効いてて、黄色くて……無性に食べたい」 俺が言うと、壁の向こうからくすくすと弾けた笑い声が返ってきた。 「ふふっ、バカみたい! ここに食べ物なんて何一つないのに!」 「そうだな。なんで思い出したんだか」
くだらないやり取りを交わしながら、俺たちは足を止めずに球を拾い続ける。 不思議なことに、どれだけ走っても眠気や疲労を感じることはなかった。喉の渇きすら覚えない。肉体があらかじめ走るためだけに調整されているかのように、俺たちはただ黙々と、機械的に迷路を消化していった。
そして、ステージ9へと足を踏み入れた。
頭上に浮かぶ発光文字を見上げたとき、ふとあることに思い至る。 左端のステージ数を示す桁は、最初から「一桁」分のスペースしか用意されていない。もしこのシステムが十進法で作られているなら、二桁――『10』という表示枠は存在しないのではないか。
もしかしたら、このステージ9こそが最後のステージなのではないか。
言葉には出さなかったが、お互いに同じ予感を抱いているのは明らかだった。張り詰めていた空気がふわりと緩み、自然と会話に甘い期待が滲み出る。
「ねえ、もしこのゲームが終わったら、どうする?」 「どうするって言われてもな……外に出た自分がどうなるのか、想像すらつかないよ」 「例えばの話よ、例えばの!」 「外の世界がどんな場所なのかも覚えてないのに、何を考えりゃいいんだよ」 「もう、夢がないんだから」
漠然とした未来を語り合いながら、慣れた足取りで迷路を巡る。 これまでの数面で、クリア条件の法則もほぼ完全に把握できていた。二人合わせて白い球を五十個――計五千ポイント分を回収すれば、ステージクリアとなる。さらに、より多くの球を拾った側には「BONUS 5000 POINT」が加算される仕組みだ。 拾った数が積み重なるにつれて互いの持ち点は曖昧になっていたが、体感として「あと数個で終わる」という絶妙な肌感覚はすでに掴めていた。
角を鋭く曲がった、その瞬間だった。
通路の数十メートル先。 ぼうっと淡いピンク色に明滅する、あの巨大な球体が佇んでいた。
心臓が跳ねる。だが、幾度もやり過ごしてきた経験から、パニックにはならなかった。俺は足を止め、壁越しにいるはずのグレープへ警戒を促すべく、腹の底から声を張り上げた。
「ピンクの化け物が出たぞー!」
その叫びが虚空へと抜けきるか、きらないかの瞬間だった。
『――ピンクの化け物が出たぞー!』
グレープの声が、暗闇を震わせて返ってきた。 一瞬、思考が停止する。声が反響したわけではない。明らかに彼女自身の声帯から発せられた警告だった。 近くにいるのか? いや、音の遠近感からすれば、彼女は迷路のかなり遠い区画にいるはずだ。 それなのに、なぜ彼女も同じ台詞を叫んだ――?
嫌な悪寒が背筋を駆け上がる。 だが、考えている暇はなかった。目の前の怪物が、横一文字に裂けた口腔を露わにしながら、こちらへ向けて滑るように直進を始めていたからだ。 とにかく逃げ回って時間を稼げばいい。彼女が残りの球を拾ってくれれば、すぐにゲームは終わる。
踵を返し、通路を全力で疾走した。 右へ、左へ、慣れた足取りで直角の曲がり角を駆け抜けていく。 そして、三つ目の角を飛び出した瞬間――視界に飛び込んできた光景に、俺の呼吸が止まった。
直線の通路の先。 背を向けて立ち尽くす、白いオーバーオールにポニーテールの少女――グレープの姿があった。 そして、そのすぐ目の前に。
もう一体の、ピンクの化け物がいた。
怪物はすでにサメのような凶悪な牙を何重にも剥き出しにし、無防備な彼女の頭上から、まさに噛み砕かんと口腔を振り下ろすところだった。
二体いたのだ。 最初から、このステージには怪物が複数存在していた。
「あ――」
声にならなかった。 考える余地など、一ミリ秒すら存在しなかった。
「うおおおおおおっ!」
俺は自らの肉体の限界を超えて床を蹴り裂き、弾丸のように突進した。 距離にして十数メートル。吸い込まれるように間合いを詰め、牙が彼女の華奢な肩線に触れる寸前――俺は迷うことなく、自らの全体重を乗せて横合いからグレープの身体へ体当たりを喰らわせた。
「きゃっ――!?」
吹き飛ばされた彼女が、床を滑って安全圏へと転がっていく。 代わって、俺の身体が怪物の顎の直下へと滑り込んだ。
「トマト……!?」
床に倒れ込んだグレープが、信じられないものを見るように目を見開き、悲痛な叫びを上げる。 突き飛ばした勢いのまま、俺もすぐに地を蹴って逃げようとした。 だが。
動かない。 足に力が入らない。床を蹴ろうとしても、腰から下の感覚がすっぽりと抜け落ちていた。
何が起きたのか分からず、視線を下へと落とした。
怪物の暗黒の口内が、俺の骨盤から下を、まるごと咥え込んでいた。 無数に生え揃った鋭利な牙が、青いTシャツの裾を破り、黄色いつなぎごと、俺の両足を深々と貫通して固定している。
「あ……」
数秒の間、脳がその光景の持つ意味を理解することを拒絶した。 あの緑の男が噛み砕かれていた光景がフラッシュバックする。次は俺の番だ。あの咀嚼が、今まさに俺の身体で始まろうとしている。
「に……逃げろ――ッ!!」
裂傷のような絶叫が、俺の喉から迸った。 何が起ころうと、もうどうでもよかった。ここまで必死に走り抜いてきた。くだらない雑談をして、笑い合って、二人でここまで命を繋いできたのだ。 せめて彼女だけは、グレープだけは生きてここを出てくれなければ、すべてが無意味になってしまう。
「逃げろグレープ! 走れえええええっ!!」
ぎちぎちと、骨が軋むような鈍い振動が腹部に伝わってきた。 だが、不思議なことに、激痛はどこにもなかった。肉体が引き千切られているはずなのに、冷たい水の中に沈んでいくような、奇妙な静けさだけが全身を支配していく。 失血のせいか、視界の端から急速に暗闇が侵食し、グレープの泣き叫ぶ顔が滲んでいく。
だんだんと、自分の輪郭が消えていく。 薄れゆく最後の意識の中で、俺は確かに安堵していた。
ああ、よかった。 お前が無事で、本当によかった――。
暗黒が、俺のすべてを呑み込んでいった。

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