爆裂魔宮MAZEMAN STAGE5

トマトが私を突き飛ばした瞬間、世界の時間がひどく緩慢に引き伸ばされた。

床を転がり、肘を擦りむいて顔を上げた私の網膜に焼き付いたのは、地獄そのものだった。 あの淡いピンク色の球体が、真横に裂けたサメのような顎を剥き出しにし、トマトの下半身に深々と牙を突き立てていた。

「逃げろグレープ! 走れえええええっ!!」

彼の絶叫が通路に木霊する。 それが、トマトの最後の言葉だった。 次の瞬間、ぎちぎちと骨が砕ける鈍い破壊音とともに、怪物の牙が容赦なく彼の体を噛み砕いていった。 噴き出した鮮血が、黒い壁と青いラインを赤黒く染め上げる。それは、彼が着ていた黄色いつなぎと赤い手袋を濡らし、まるで熟れすぎた本物のトマトが足元で無慈悲に踏み潰されたかのような、あまりにもおぞましい光景だった。

「いやあぁぁぁぁぁっ!」

私は喉が裂けるほどの悲鳴を上げ、立ち上がると、なりふり構わず踵を返して逃げ出した。 涙で視界がぐしゃぐしゃになり、息が喉の奥で引き攣れる。 目の前で人が食われた。あの温かくて、他愛のない話で笑い合って、私をかばってくれた人が、私の身代わりに肉塊へと変えられてしまった。

無我夢中で角を曲がり、闇雲に床を蹴り続けた。 そのとき、伸ばしていた指先が、空間に浮遊していた何かに触れた。

『ピコン』

乾いた電子音が鼓膜を打つ。 一瞬の静寂の後、耳をつんざくような大音量で、華やかで暴力的なファンファーレが頭上に鳴り響いた。 知らぬ間に、私はステージに残されていた最後の白い球を回収していたのだ。

暗黒の虚空に、見慣れた鮮やかな花火が次々と炸裂していく。 だが、そこに浮かび上がった文字は、いつもと違っていた。

『 BONUS 20000 POINT 』

桁違いの数字。 呆然と見上げたスコアボードには、信じられない数値が刻まれていた。

私のボード:『 9 110100 1760 』 トマトのボード:『 9 104900 3590 』

二万点という破格のボーナスによって、私のスコアは一気にトマトを追い抜いていた。 そして、何よりも私の目を釘付けにしたのは、彼のボードの右端だった。 さっきまで減り続けていたはずの秒数が、綺麗にリセットされている。 ……トマトの死と同時に、あのシステムが新しい「誰か」をこの迷宮に補充したのだ。

吐き気と激しい動悸に襲われ、頭の中がぐちゃぐちゃにかき乱される。 考える隙すら与えられず、世界が真っ白な光に呑み込まれた。

光が収まると、私は冷たい黒い床の上に立っていた。 背後の壁には、嘲笑うかのようにライムグリーン色の『START』の文字。 膝の震えを必死で抑えつけながら、私は通路を駆け抜け、頭上の掲示板が見通せる場所へと飛び出した。

見上げた空に浮かんでいた数字に、息を呑む。

私のボード:『 10 110100 3599 』 相手のボード:『 10 104900 3599 』

左端の数字は『10』。 二桁の表示枠なんて存在しない、ステージ9が最後かもしれないと、トマトと話していた淡い希望は無残に打ち砕かれた。この悪夢には、終わりなど用意されていないのだ。

それでも、立ち止まっているわけにはいかない。 トマトが死に、代わりに放り込まれた新しい誰かが、今この迷路のどこかで怯えているはずだ。あの時の私のように。 私は両手を口元に当て、天井のない暗黒へ向けて全力で叫んだ。

「もう一人の人――っ! 私はあなたの敵じゃありません! 声のする方へ来てください! この状況を説明します!」

黒い壁に木霊し、消えていく声。 耳を澄ませるが、何の返答も聞こえてこない。

ふと相手のボードを見上げると、奇妙なことが起きていた。 『104900』だったスコアが、105000、105100、105200と、恐ろしいペースで跳ね上がっていく。 パニックになっている様子など微塵もない。新しいプレイヤーは、目覚めてすぐに直感でルールを理解し、猛然と球を集めているのだ。

「聞こえませんか!? 私は敵じゃありません! 協力しましょう!」

再度叫んでも、返ってくるのは静寂だけだった。 警戒されているのだろうか。見ず知らずの声など信じられないのも無理はない。せめて、命を守る情報だけでも伝えなければ。

「……お願いだから、ピンクの化け物だけには気をつけて! 見たら絶対に近づかないで、すぐ逃げて!」

叫び終えた後、私も唇を噛んで走り出した。 いつまでも立ち止まっていては、取り残される。彼がどれほどハイペースで集めていようと、私もポイントを稼ぎ、生き延びなければならない。

角を曲がり、白い球に触れていく。 だが、私が十数個集めたところで、不意に耳をつんざくファンファーレが頭上に響き渡った。

『 BONUS 5000 POINT 』

打ち上がる花火。 慌ててスコアボードを見上げる。

私のボード:『 10 111100 3101 』 相手のボード:『 10 113900 3101 』

タイマーは五分程度しか削られていない。ステージ開始からわずか十分足らず。 あり得ない速度だった。私とトマトが二人がかりで必死に集めていた時よりも遥かに速い。 ――この人、もしかして最初からこのゲームの「正体」を知っているんじゃないの?

疑問が確信に変わる間もなく、またしても強烈な閃光が視界を奪った。

ステージ11。 スタート地点に転送された瞬間、私はスコアボードも見ずに迷路の奥へ向かって叫んでいた。

「待って! もしかしてあなた、このゲームのことを知っているの!? だったらお願い、私にこの世界が何なのか教えて!」

返事はない。 だが、今度は待つつもりはなかった。私は白い球を拾う足を止め、もう一人のプレイヤーを探すことに全神経を注いだ。 何度もステージをこなすうちに、迷路の構造と球の配置には一定の規則性があることが感覚で分かってきていた。球が連続して消えているルートを辿れば、その先に相手がいるはずだ。

足音を殺し、青いラインに沿って最短距離を疾走する。 直角の曲がり角へ差し掛かり、勢いよく身を滑り込ませた瞬間――

「きゃっ!?」 「うわっ!」

強烈な衝撃が走り、私は無様に尻餅をついた。 向こうも床に転がり、低いうめき声を上げている。

ぶつかった相手を凝視した。 短く刈り込んだ坊主頭に、日に焼けたような褐色の肌。鮮烈な赤いシャツの上に、重厚な漆黒のオーバーオールを着込み、両手には真っ白な手袋を嵌めている。引き締まった体躯をした男だった。

恐怖よりも先に、焦燥が口をついて出た。私は立ち上がるのも忘れ、床に手をついたまま男に食ってかかった。

「あなた、誰なの!? このゲームのことを知っているんでしょう!?」

男は苛立ちを隠そうともせず、鋭い眼光で私を見下ろした。 眉間に深い皺を刻み、低くドスの利いた声で呟く。

「……お前、何も分からないのか?」 「あなたは分かるの!? 私は……私はここで目覚めてから経験したこと以外、自分の名前すら何一つ分からないのよ!」

必死の訴えを、男は感情の読めない瞳でじっと受け止めていた。 やがて、何かに得心がいったようにわずかに顎を引くと、底冷えのするような冷淡さで言い放った。

「お前が何も知らないということは、俺がお前に言えることは何もない」

「え……?」 意味が分からず息を呑む私を置き去りにし、男は興味を失ったように踵を返した。 だが、通路の闇へと駆け出そうとした刹那、ふと足を止め、冷たい視線だけを肩越しにこちらへ向けてきた。

「そういえばお前、叫んでたな。『私は敵じゃない』と」 「え、ええ……協力した方が――」 「それは間違いだ」

男は唇の端をわずかに歪め、吐き捨てるように告げた。

「俺たちは、敵だ」

それだけを残すと、男は一度も振り返ることなく、驚異的な初速で迷路の奥へと消え去っていった。

「待って……! 待ってよ!」

静まり返った通路に、私の声だけが虚しく吸い込まれていく。 立ち尽くしたまま、頭の中で激しい混乱の渦が吹き荒れた。

彼はすべてを知っている口ぶりだった。 なのに「何も言えることはない」と突き放した。敵だから情報を教えない、というニュアンスではなかった。もっと根本的な、何か決定的な断絶があるような言い方だった。 そして――「俺たちは敵だ」という言葉。

どういうこと? 私たちは協力して脱出を目指す仲間じゃないの? なぜ敵なの? なぜ競わされているの?

答えの出ない問いが頭を巡る中、無情にも頭上から派手なファンファーレが鳴り響いた。 見上げれば、男が集め切ったのだろう、虚空に花火が咲き乱れ、彼のスコアは私を大きく引き離して更新されていた。

世界が白く染まり、強制的に次のステージへと引き戻される。 光が晴れたとき、私は一人、ライムグリーン色に光る『START』の前に立ち尽くしていた。

男の冷酷な横顔と、咀嚼されて消えたトマトの赤い血が、交互に脳裏をよぎる。 理由は分からない。世界の正体も、記憶の行方も、何も分からない。 けれど、一つだけ確かな事実がある。

私は、あの男と競わされている。 そして、負ければ――あるいは立ち止まれば、あの怪物の餌になって消えるだけだ。

「……負けない」

私は震える拳を強く握りしめ、紫の手袋で目元の涙を乱暴に拭った。 青い光が走る漆黒の迷宮へ向け、私は再び、全力で地を蹴った。


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