陰キャが異世界転生してモテモテ勇者に ガオンの章その2

荒野に散らばる魔物の残骸を踏み越え、数時間にわたって戦い続けた結果、私たちは二人ともレベル5まで上がっていた。 気がつけば、西の空が赤黒く染まり、荒涼とした大地に長い影が伸びている。夜の気配がすぐそこまで迫っていた。

「ご主人様、これ以上戦い続けるのは危険です。夜は魔物にとって有利な時間帯ですから、ここらで街へ引き返しましょう」 「そうだな、腹も減ったし戻るか」

ユウは素直に頷き、二人で踵を返して城下町へと向かった。歩きながら、私は冷淡な事実を告げた。

「そもそも、私はこれ以上戦ってもレベルが上がりません。この『隷属の首輪』には、奴隷が主人を超えられないよう、レベル5以上への成長を封じる呪いがかけられていますから」

ユウは立ち止まり、眉を痛ましげに歪めた。 「……そうなのか」 それ以上は何も言わなかったが、その横顔には隠しきれない苛立ちと悔しさが滲んでいた。

それよりも、今夜を生き延びるための現実的な問題がある。 「ご主人様、もうレベルは十分ですから明日の朝に目的地へ向かうとして……今日の宿をとるお金は持っているのですか?」

ユウは「えっ」と情けない声を上げて固まった。 「金……? そういえば財布なんて持ってないぞ。どうなってるんだ?」 「『マナオープン』と言ってください」

ユウが言われた通りに唱えると、空間に淡い光が広がり、六つの項目が浮かび上がった。 【火のマナ】【水のマナ】【土のマナ】【木のマナ】【日のマナ】【金のマナ】。 それぞれの数値の横には、若干の差こそあれ、10万前後の数字がずらりと並んでいる。

「これらは『マナ』といって、この世界のあらゆる万物の源です。人間は主にこの『金のマナ』を通貨代わりに消費して売買を行っていますから、それだけあれば王都の最高級宿でも何泊だって泊まれるはずです」

だが、現実は甘くなかった。 城下町に戻って宿屋の扉を叩いたものの、暖簾を掲げている宿の主人は一様に青ざめ、首を横に振った。 「国王様からお触れが出ているんです。『あの勇者に宿を貸すな』と……」 さらには、ユウ一人なら目を瞑って泊めてやってもいいが、連れている亜人は絶対に駄目だ、家畜を客室に入れるわけにはいかない、と露骨に吐き捨てられた。

その言葉を聞くたび、ユウは烈火のごとく激昂した。 「ふざけるな! 客を何だと思ってるんだ!」 店主の胸倉を掴みかねない勢いで怒鳴り散らし、自ら扉を叩きつけて店を出ていく。 一軒、また一軒と断られ続け、気づけば街灯の灯る夜の闇の中に私たちは取り残されていた。

「ご主人様、私は路上で寝ますから……。ご主人様だけでも、ちゃんとした宿で体を休めてください」 路地裏の片隅で身を縮めてそう進言したが、ユウは頑として首を縦に振らなかった。 「馬鹿言え! お前を道端に転がして、俺一人だけふかふかのベッドで寝られるわけないだろ!」

そうして街の最深部、怪しげな紫色のランタンが灯る歓楽街を彷徨い歩き、ようやく一つだけ、私たちを受け入れる店が見つかった。

そこは、娼館だった。 客が連れ込んだ相手と好き勝手に快楽を貪るための場所。欲望の捌け口であるその店は、金を払いさえすれば客の身元も、連れてきた相手が亜人であろうと何であろうと一切気にしなかった。

案内された薄暗い部屋の真ん中には、艶かしい天蓋付きの大きなベッドが一つ置かれている。 私は息を潜め、全身の毛を逆立てるようにして緊張していた。 これまで幾度となく奴隷として扱われてきたが、私は荷物持ちの『雑用奴隷』であり、性的な対象として扱われる『愛玩奴隷』ではなかった。 けれど、首輪に刻まれた絶対の戒律がある。もしこのユウという男が、私の体を求めて押し倒してきたら——私には、拒む権利など微塵もないのだ。

部屋の扉が閉まるなり、ユウは額の汗を拭いながらあっけらかんと言った。 「あー、砂埃でベタベタするな。よし、風呂に入ろう!」 そう言い残し、ユウは早々に奥の浴室へと消えていった。

逆らうことなど許されない。私は覚悟を決め、泥に汚れた麻布の粗末な服を脱ぎ捨てると、震える足で浴室の扉を開けた。 湯気の中に佇む私に気づいたユウは、いやらしい視線を向けるどころか、手桶に湯を汲んでパシャリと私の頭にかけてきた。

「ほら、座れよ。背中流してやるから」 「え……?」 呆気にとられる私の背に、ユウは泡立てた石鹸のついた布を優しく滑らせていく。 泥や血で固まっていた毛並みを、痛まないよう丁寧に梳かしながら、男はどこか懐かしむような穏やかな声で呟いた。

「昔はさ、妹ともこうやってよく風呂に入ったっけな。あいつもすぐ泥だらけになって帰ってきてさ……」

乱暴さのかけらもない、ただただ慈しむような手つきで、私の薄汚れた体を綺麗に洗い流してくれた。

湯から上がると、体を拭いて、私たちはそのまま一つのベッドへと潜り込んだ。 異世界に喚び出された極度の緊張か、それとも不慣れな連戦の疲労か。ユウは枕に頭を沈めた途端、規則正しい寝息を立ててあっという間に眠りに落ちてしまった。 初めて人間の男と同衾するという異常な状況に、私の心臓は早鐘のように乱れ打ち、頭の中はパニックで爆発しそうだった。 けれど、隣で無防備に口を半開きにして眠るユウの、あまりにも抜けた寝顔を見つめているうちに——張り詰めていた糸がふっと緩み、私も気づけば深い眠りへと引きずり込まれていた。

その夜、私は久しぶりに夢を見た。 まだ村が平和だった頃の夢だ。 お父さんがいて、お母さんが笑っていて、幼い妹たちと食卓を囲んで温かいスープを飲んでいる。 そして不思議なことに、そのあたたかな輪の中に、なぜかユウも当たり前のような顔をして一緒に座っていた。

ふっと目が覚めた。 視界に飛び込んできたのは、見知らぬ娼館の、冷たく無機質な天井だった。 夢だったのだ。 もう私には何もない。父も母も、妹たちも、帰る場所も。 冷酷な喪失感がどっと胸を押し包み、気づけば私の目から大粒の涙が零れ落ちて、枕を濡らしていた。 とっくに涙なんて枯れ果てたと思っていたのに。 家族を失った底知れない悲しさと同時に、自分の中にまだ『涙を流せる心』が残っていたのだという事実に、胸の奥がひどく疼いた。

ほどなくしてユウも目を覚まし、私たちは娼館を後にした。 朝市に立ち寄ると、香ばしい煙を上げる屋台で、チョート名物だという肉の串焼きを朝食に買い求めた。 焼き立ての肉を口に含むと、ジューシーな脂と香辛料の風味が広がり、思わず頬が緩んでしまう。 「うわ、そっちのタレ味も美味そうだな。一口くれよ、俺の塩味と交換な!」 ユウは屈託のない笑顔でそう言い、自分の串を差し出してきた。 戸惑いながら串を交換し、二人で分け合って食べる。 人間と一緒に食事をすることなんて、生まれて初めてだった。朝市の雑踏は活気に溢れ、店主も客も忙しさに追われていて、私のような亜人を差別して蔑む余裕すらなさそうだった。

まるで、普通の人間と普通の仲間になれたかのような錯覚。 あたたかな陽光の下、胸の奥がじんわりと解けていきそうになる。 ——いけない。 私は舌の先を強く噛み、立ち込める甘い感情を振り払った。 人間は敵だ。私の家族を奪った仇だ。どれだけ優しくされようと、私が人間と馴れ合うことなど絶対にあり得ない。

気を引き締め直し、私は冷徹な声色を作って促した。 「ご主人様、そろそろ西の村へ向かいましょう」 「そうだな、行こう!」

街道に出たところで、ユウに「マップオープン」と唱えさせた。 空中に半透明の地図が浮かび上がり、昨日のうちに神父が登録してくれた目的地の光点と方角がはっきりと示される。これなら道に迷う心配はない。 山道を進む道中、幾度か魔物に遭遇したが、昨日の鍛錬のおかげで苦戦することはなかった。ユウの放つ光の矢と私の拳で容易く露払いを済ませ、街道を歩くこと二、三時間。木々の切れ間から、ようやく山の中腹に佇む目的の村が見えてきた。

胸の奥で、黒い炎がパチパチと音を立てて燃え盛るのを感じていた。 もう少しだ。もう少しで、この忌々しい首輪から解き放たれる。 自由になれば、力を取り戻せば——人間たちに復讐ができる。

村の入り口をくぐると、ひときわ高い鐘楼を持つ、独特の形をした石造りの礼拝堂が目に入った。 「なあガオン、首輪が外れて自由になったら、最初に何がしたい?」 隣を歩くユウが、能天気にそんなことを聞いてきた。

(お前を喉笛から噛み裂いて、この村の人間を皆殺しにしてやるんだよ)

腹の底でドス黒い殺意を渦巻かせながら、私は耳を伏せ、殊勝な表情を作って答えた。 「……うーん、そうですね。改めて、人間との友好的な関係について考えてみたいです」 「そっか! ガオンならそう言ってくれると思ってたよ!」 ユウは嬉しそうに笑った。哀れな男。間抜け面を晒していられるのも、今のうちだ。

礼拝堂の重い木製の扉を押し開けると、静まり返った堂内の奥に、純白の修道服を纏った一人のシスターが佇んでいた。 ユウが歩み寄り、単刀直入に頭を下げる。 「すみません、この子の首輪を外してやってくれませんか?」

シスターは視線を私に向けた瞬間、その涼しげで端正な顔立ちを露骨な嫌悪感で歪めた。 「亜人……おぞましい。亜人は悪しき存在です。そのような邪悪を人の世に解き放つことなど、神の教えにおいて断じて許されません」 「待ってください! 王都のユリ神父から紹介状を預かってるんです!」

ユウが慌てて懐から手紙を取り出し、シスターへと差し出した。 怪訝そうに眉をひそめながら手紙を受け取ったシスターは、目を通すなり顔色を一変させ、その場にバッと膝をついた。 「こ、これは……勇者様でしたか。滅相もない無礼をいたしました……! しかし勇者様、異世界よりお越しになられた貴方様はご存じないのでしょう。亜人は邪悪そのものの象徴なのです。どうか、その者への慈悲はお改めください」

まただ。 どこへ行っても、誰に会っても、返ってくる言葉は同じ。 私たちは生まれながらにして悪で、穢れで、憎むべき敵。人間たちは自らの頭で考えることすら放棄して、盲目的に私たちを蔑み、奪い、殺すのだ。 あと何回、この吐き気を催す理不尽に耐えればいい? 私が奥歯をギリギリと噛み締めて拳を震わせていると、隣に立つユウが、いつもの間抜けな様子とは打って変わった、底冷えのするような冷徹な声で口を開いた。

「シスター。俺はこの世界に来てからずっと疑問に思ってたんだが……人間は、亜人から一体何をされたんだ?」

シスターは虚を突かれたように目を見張り、戸惑いながら答えた。 「そ、それは……古き伝承にそう記されているのです」 「じゃあ、あんた自身は、亜人に何か危害を加えられたことがあるのか?」 「ですが、教会の伝承はずっと正しく受け継がれてきたもので……!」 「あんたの目で、亜人が悪事を働いているのを直接見たことはあるのかって聞いてるんだよ」 「そ、それは……ですが……!」

ユウの静かな追及にシスターが言葉を詰まらせ、押し問答が最高潮に達した、その時だった。

「ぎゃあああああっ!」 「た、助けてくれええっ! 魔物だッ!」

静かな礼拝堂を切り裂き、村の外から悲痛な絶叫が木霊した。 私たちは弾かれたように教会を飛び出した。

外の光景は地獄絵図だった。 山林の奥から湧き出た無数の魔物の群れが、村の粗末な柵を突き破り、雪崩のように民家へと雪崩れ込んでいたのだ。牙を剥くゴブリンや狂暴なオークたちが、逃げ惑う村人たちを追い詰めている。

「イクイップ!」

ユウは躊躇うことなく叫び、全身に純白の武具を装着すると、我先に魔物の大群のど真ん中へと飛び込んでいった。 光の矢が魔物を射抜き、白銀の剣が敵を薙ぎ払う。 しかし、敵の数が多すぎる。完全な多勢に無勢だった。 「くそっ、キリがねえ! ガオン、俺はこっちを食い止める! お前は反対側の村の入り口を塞いでくれ!」

指示が飛んでくるより前に、私の体はすでに地面を蹴っていた。 命令されたからではない。ここで魔物を野放しにすれば、私自身が挟み撃ちにされて死ぬからだ。 私は村の西側の入り口へと疾走し、押し寄せてくる魔物の群れの前に立ちはだかった。

だが、敵の圧力は凄まじかった。 どれだけ殴り飛ばしても、次から次へと魔物が押し寄せてくる。レベル5の私の腕力では、決定打に欠ける。じりじりと防戦一方に追い込まれ、鋭い爪が私の肩を浅く裂いた。 くそっ、ここまでか——そう奥歯を噛んだ瞬間、視界の端から銀色の鉄塊が猛スピードで飛来した。

ズガァンッ!と鈍い破砕音が響き、私の目の前にいたオークの頭部が粉々に吹き飛ぶ。 鎖のついた巨大な棘付き鉄球——モーニングスターを引き戻しながら、私の背中合わせに滑り込んできたのは、先ほどのシスターだった。修道服の裾を血で汚しながら、彼女は鋭い眼光で魔物を睨み据えていた。

「か、勘違いしないでよね! 私は神に仕える者として、この村を守るために戦っているだけなんだから!」 「……誰も礼なんて言ってない!」

憎まれ口を叩き合いながら二人で必死に防衛線を張ったが、それでも戦況は絶望的だった。 敵の手数が圧倒的に足りない。このままでは二人まとめて圧殺されるのは時間の問題だった。

モーニングスターを構え直したシスターが、脂汗を流しながら私の首元を睨みつけた。 「……ええい、背に腹は代えられないわね!」

シスターが踏み込み、私の首筋に冷たい指先を突き立てた。 「なっ、何を——!?」 私が叫ぶ間もなく、シスターの唇から神聖なる呪文が紡ぎ出される。

「——神の御名において、理不尽なる戒めの鎖を断ち斬らん! 『ディスペル・コラール』ッ!」

パキィンッ!と、乾いたガラスが割れるような高音とともに、私の首を締め付け続けていた冷たい黒金の首輪が、無数の光の破片となって四散した。

その瞬間、体内の奥深くに固く閉ざされていた奔流が、暴風となって解き放たれた。

熱い。全身の血液が沸騰するように駆け巡る。 パキパキと骨が激しく鳴動し、手足が、四肢が、爆発的な勢いで伸長していく。 爪はより鋭く、研ぎ澄まされた刃のように伸び、しなやかな筋肉が全身に張り巡らされていく。

「な、何が起きてるの……!?」 驚愕して後退るシスターを余所に、私は震える息を吐き出しながら叫んだ。

「フルステータスオープンッ!」

目の前に展開された光の板。 そこに並ぶ数値は、先ほどまでの数値とは比較にならないほど、桁違いの急上昇を遂げていた。 120センチそこそこだった私の視界は一気に持ち上がり、背丈は160センチを超えている。 ステータス画面に映し出された全身像——そこにいたのは、庇護を求める哀れな少女の姿ではなかった。 豊かに波打つしなやかな肢体と、研ぎ澄まされた野性を宿す、歴戦の成人のウェアウルフの姿がそこにあった。

封印されていた本来の力が、完全に私の肉体へと還ってきたのだ。

身体の底から、底知れぬ力と闘争本能が滾り上がってくる。 これなら——この力なら、全てを叩き潰せる。

私は肺の腑の底から息を吸い込み、天を仰いだ。

「——ガオオオオオオオオオオオッッッ!!」

山々を震わせ、空を切り裂くような、獰猛で圧倒的な咆哮が村中に轟き渡った。 群がっていた魔物たちが、本能的な恐怖に慄いて一斉に動きを止める。

紅く染まった視界の中で、私は鋭い犬歯を剥き出しにして獰猛に嗤った。

反撃の時間だ。


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