港町の石畳を踏みしめた瞬間、私の後ろから「どさっ」と崩れ落ちるような重い音が連続して響いた。 振り返れば、馬車のステップから転がり出た三人は、揃いも揃って白目を剥き、手足を投げ出して泥の上に転がっている。度重なる魔物との連戦で、完全に魂が抜け出たような疲労困憊の極みだ。
「諸君、よくぞ耐え抜いた! とりあえず宿に行こうじゃないか!」
私が声を張り上げると、三人は幽鬼のような足取りでふらふらと立ち上がり、私の背中を追いかけてきた。 潮風が吹き抜ける港町の目抜き通りを抜け、私が長年贔屓にしている馴染みの宿屋へと歩を進める。木製の重い引き戸を開けて中へ入ると、受付のカウンターの向こうには、数年前に立ち寄った時と寸分違わぬ姿の男が座っていた。 ピカピカと光る禿頭に、見事にカールした立派なカイゼル髭、そして赤く熟れたトマトのようにでかい鼻。
「やあ、久しぶりだね! 四人なんだが、部屋は空いているかい?」 私の大声に顔を上げた親父が、目を丸くして髭を揺らした。 「おおっ、ファーサじゃねえか! 久しぶりだなあおい! ……今回はこの街に長く腰を据えるのかい?」 「残念ながらね、今回は大事な勇者殿のお守り役でね。船の手配がつき次第、すぐに出てしまうのさ」 「なんだ、そいつは寂しいねえ。なら、今夜は久しぶりにパーッと飲みに行こうぜ!」 「いいねえ、もちろん付き合うとも! ……ところで、部屋の空きはどうなっているんだい?」 「あいにく大部屋は埋まっちまっててな。二人部屋が二つなら用意できるが、どうする?」
親父のその言葉に、背後で死に体になっていた二人の少女が、突如として獲物を狙う獣のように耳を跳ね上げた。 疲労困憊だったはずのガオン君ときらり君が、ユウ君の両脇でバチバチと激しい火花を散らし始める。
「ユウ様は激闘でお疲れなのですわ! 我が光の使徒の聖なる回復魔法で、心身ともに清らかに癒して差し上げなければなりません!」 「はあ!? 疲れてるなら私の野生のマッサージと、ウェアウルフ秘伝の傷舐めで回復させるのが一番に決まってるだろ!」 「き、傷舐め……ッ!? な、なんて破廉恥な……! やはり私が添い寝して神聖なる手で癒さねばなりませんわ!」
やれやれ。疲れ切っていてもこれだ。若い娘たちの張り合いというのは、一度火がついたら消火するのも一苦労だな。 私は大仰に肩を竦め、二人の間に割って入った。
「勇者殿! 部屋割りは私と勇者殿、そしてガオン君ときらりさんのセットということで、よろしいかな?」
その提案を聞いた瞬間、ユウ君は地獄で仏に出会ったような顔をして、激しく何度も首を縦に振った。 「は、はいっ! それでお願いします!」 ユウ君は親父から部屋の鍵をひったくるように受け取ると、いそいそと階段を駆け上がっていってしまった。 取り残されたガオン君ときらり君は、獲物を奪われた肉食獣のような恨めしい眼差しで、じっと私を睨みつけてくる。
「まあまあ、そう私を悪く思わないでくれたまえ。パーティー内の痴話喧嘩はゴブリンだって食わないと言うだろう?」
私はカラカラと笑い飛ばし、勇者殿を追って二階の部屋へと入った。 部屋の扉を開けると、ユウ君はすでに鎧も解かぬまま、吸い込まれるようにベッドへと突っ伏していた。
「さぞ疲れたんだろうねえ。私は港へ行って船の手配を済ませた後、昔馴染みと一杯引っ掛けてくるよ。腹が減ったら三人で適当に食事を取るといい。おすすめは通りの向かいにある『巻貝亭』さ」
返事の代わりに、布団の奥からフゴフゴとくぐもった寝息が返ってきた。完全に限界だったらしい。 さて、私もこちらの仕事を片付けるとしよう。
夕暮れの港へと足を運ぶと、運良く、明日の朝一番でドワーフの住まう大陸へと出航する大型商船の便が見つかった。私は懐から硬貨を取り出し、一番安い乗船チケットを四人分手早く確保して宿屋へと戻った。
念のため自分たちの部屋を覗くと、ユウ君は泥のように眠り続けている。続いて隣の女性陣の部屋の扉をそっと開けると、あれだけいがみ合っていた二人が、それぞれのベッドで規則正しい健やかな寝息を立てて横たわっていた。 「ふふふ、なんだかんだで仲のいいことだ」
全員が無事に休息を取っているのを確認し、私は一階の受付へと降りていった。 「親父、手配はすべて終わったよ。私はこれから巻貝亭で飲んでいるから、馴染みの連中に声をかけておいてくれないかい?」 「あいよ! 昔のツレに声をかけて回るよ。……ところで、結局いつまでこの街に滞在できるんだ?」 「残念ながらね、明日の朝一番の船で旅立つよ」 「そうかい……なら尚更、今夜のうちに盛大にやらねえとな! みんなにそう伝えておくぜ!」
親父の威勢のいい声に背中を押され、私は懐かしい顔ぶれとの再会に胸を躍らせながら、石畳を渡って酒場『巻貝亭』の扉を押し開けた。
店内に漂う、潮と焦がしバター、そしてエールが混ざり合った独特の芳香は、私の記憶の中にある匂いと何一つ変わっていなかった。 だが、カウンターから注文を取りにやってきた給仕の娘の顔を見て、私は小さく小首を傾げた。私の知っている娘ではない。
「あのね、数年前にここにいた、黒髪のウェーブがかった長い髪の女の子……まだここにいるかい?」 私の問いに、若い給仕の娘は怪訝そうに眉をひそめ、首を横に振った。 「すみません、まったく知らない人ですね……。どなたかの親戚ですか?」 「いや、そういうわけじゃないんだ。気にしないでくれたまえ」 「ご注文は何になさいます?」 「……巻貝エールを大ジョッキで頼むよ」 「かしこまりました!」
エールが運ばれてくるのを待つ間もなく、酒場の木製ドアが勢いよく開き、見知った顔ぶれがぞろぞろと店内に雪崩れ込んできた。 釣具屋の若旦那に、昔からつるんでいた漁師三人トリオのうちの二人。 「おおい、みんな久しぶりだな!」 私は彼らの分のエールを追加で注文し、泡の立つ鉄のグラスを高々と掲げた。 「海の母神に!」 ガツンッ!と、グラスがひび割れんばかりの勢いで乾杯を交わす。
「ファーサ、お前さんは本当に何一つ変わらないな!」 「相変わらず中性的で、男か女かも分からねえが、べっぴんで可愛いぜ!」 懐かしい野次と笑い声に包まれる中、私はふと、いつも三人一緒にいたはずの顔を思い出して尋ねた。 「そういえば……トリオの最後の一人、リュートはどうしたんだい?」
私の問いに、二人の漁師はふっと杯を止め、気まずそうに視線を落とした。 「……あいつはな、二年前の嵐の夜、船ごと海に呑まれちまったよ」 「……そうか。海に生きる男の宿命だな、仕方がない」
胸の奥に冷たいものが落ちていくのを悟られぬよう、私は静かにエールを煽った。 「そういえば、あの看板娘のエミリーはどうしてる?」 「ああ! あいつは隣町の船大工と結婚してな、今は三人のガキの母親さ。毎日子育てで大忙しで、こんな酒場には顔も出せやしねえよ!」
近況を語り合ううちに、宿の親父の知らせを聞きつけた昔の仲間たちが、一人、また一人と席に加わってきた。 そして、その場にいない昔の顔ぶれの名前を口にするたび、返ってくる答えは決まっていた。 病で亡くなった。海で死んだ。結婚して遠くの町へ引っ越した。家庭を持って、夜遊びなどできる身分ではなくなった——。
いつものことだ。もう、何百年も繰り返してきた、慣れ親しんだ儀式のようなものさ。 今回は前回の旅の帰りに立ち寄ってから数年しか経っていないから、まだこれだけ知っている顔が集まってくれた。これが数十年ぶりの再訪ともなれば、私の知る者はとうに墓の下で、集まってくるのはその息子や孫ばかり、という事態も決して珍しくはないのだから。
本当を言えば、今夜はこの中の誰かと熱い夜を共にし、刹那の温もりに溺れて孤独を紛らわせたいという思いが、頭の片隅になかったわけではない。 けれど、ふと瞼の裏に浮かんだのは、あの未熟で、青臭くて、必死に前を向いて生きている勇者殿の真っ直ぐな横顔だった。 (……今夜は、そういう気分にはなれそうもないな)
夜が更け、店の閉店時間とともに宴はお開きとなった。 上機嫌で千鳥足の宿屋の親父と肩を並べ、通りを挟んだ向かいの宿へと戻る。 宿の入り口で、私は親父の皺だらけの額におやすみのキスを軽く落として別れを告げた。
二階の部屋に戻ると、勇者殿は相変わらず布団を巻き込んだまま、健やかに夢の世界を旅していた。 私も自分のベッドに潜り込み、静かに目を閉じる。 もう、寂しさなんてこれっぽっちも感じないはずだった。何百年もかけて、とっくに麻痺させたはずの感情だった。 それなのに——人間の紡ぐ短い時間の流れの中に、私一人だけが永遠に取り残されていく冷酷な事実を突きつけられると、どうしても目尻から熱い雫がこぼれ落ちてしまう。
落ち着け、私。 明日になれば、またいつものように笑って忘れられるさ。 溢れ出る涙の川に心を浮かべながら、私はゆっくりと、深く底のない睡眠の深淵へと意識を沈めていった。
翌朝。 小鳥の囀りで目を覚ました私は、早々に巻貝亭へ足を運び、名物の魚介スープとパンで朝食を済ませて部屋へと戻った。 ガチャリと扉を開けると、ちょうどベッドの上でユウ君が大きく伸びをし、眠たげな目を擦っているところだった。
「ああ……もう朝か」 「オハヨウ、勇者殿!」 「うわ、すいません! 俺、昨日の夕方からずっと寝こけちゃってて……」 「気にするな! 今日の朝一番に出る船のチケットはすでに確保してあるからね、手早く出発の準備をしてくれたまえ!」
ユウ君は慌てて飛び起き、荷物をまとめ始めた。もっとも、昨日は何一つ荷解きをしていなかったため、埃を払ってマントを羽織るだけで、準備など数分で終わってしまったのだが。 「よし、準備できたよ!」 「そうか、では行こうか」
部屋を出ようと背を向けた私の背中に、ユウ君が何気ない調子で声をかけてきた。 「そういえばファーサさん、昨日の夜は何をしてたの?」 「ん? ああ、この街にいる古い友人たちと酒を酌み交わしていたのさ」 「へえ、楽しそうだね! 世界中に友達がいるなんて、俺もそういうかっこいい大人に憧れるよ」
「ふふふ、そうかい? ありがとう、勇者殿」 少年の無邪気な賛辞に、昨夜の憂鬱が少しだけ晴れ、自然と口元が綻んだ。 すると、ユウ君が足を止め、どこか言いにくそうに頬を掻きながら、じっと私を見つめてきた。
「あのさ……今さらなんだけど、一つだけずっと聞きたかったことがあるんだよね」 「何だい? 私に答えられることなら何でも聞いてくれたまえ」 「いやー……ものすごく聞きづらいんだけどさ。ファーサさんって……男なの? それとも女なの?」
唐突な直球に、私は思わず噴き出しそうになった。 「ふふふ! 勇者殿は、どっちだと思うかね?」 「いや、見ても声を聞いても本当にどっちか分からないから聞いてるんだって!」 「まあまあ、まずは君の鋭い観察眼による予想を聞かせてくれたまえよ」 ユウ君は腕を組み、私のショートカットの髪から中性的な顔立ち、そして旅装束に包まれた細身の体躯を上から下へと真剣に見つめ直した。 「うーん……女、かな……?」 「ハッハハハ! いい読みだ! だが正解はそのうち、旅の途中で教えてあげるよ!」 「ええっ、何だよそれ! ずるいよファーサさん!」
不満そうに口を尖らせるユウ君を笑い飛ばしながら、私は隣の部屋の扉をノックした。 中に入ると、ガオン君ときらり君が、まるで二日酔いの重病人よろしく、ベッドの上でだらしなく這い起きてくるところだった。
「ふぁ……ごめんなさい、今すぐ支度をいたしますわ……」 「うう……だるい……出発って、明日に延ばすわけにはいかないのか……?」
二人とも、昨日の激闘の疲労がまだ肉体の芯に残っているらしい。 ぐずる二人を急かし、荷物を担がせて、私たちは朝靄の立ち込める港の波止場へと向かった。
潮騒の音とカモメの鳴き声が響く中、頑丈な外洋船のタラップをギシギシと踏みしめる。 海原の向こうに待ち受けるのは、頑固なドワーフたちの住まう未知の大陸、そして燃え盛る火山の試練だ。 私たちの次なる冒険が、今まさに始まろうとしていた。

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