汽笛の轟音とともに船が静かに岸壁を離れると、船室のあちこちから「ふう……」と安堵の吐息が漏れ聞こえてきた。 これまでの陸路では休む間もなく魔物に襲われ続けていたため、海の上に出さえすればもう何事も起きず、のんびりと船旅を満喫できると思い込んでいるらしい。 やれやれ、まったくおめでたい連中だ。海の上に魔物が出ないと、一体誰が決めたというのかね。
粗末な二段ベッドが並ぶ船室で、三人は完全に緊張の糸を切らし、だらだらと手足を伸ばして寛いでいた。 私は一人、気晴らしを兼ねて一足先に甲板へと上がった。 潮風を胸いっぱいに吸い込み、海原を見下ろした瞬間——案の定、私の予想通りの光景が目の前に広がっていた。 私は慌てて踵を返し、船室の扉を勢いよく蹴り開けた。
「諸君! 船は出航したばかりだが、早速やりがいのある仕事が舞い込んできたぞ! 全員、私についてきたまえ!」
「ええーっ……!?」「出たばかりなのに何なんだよ……」と不満たらたらの顔で文句を垂れ流しながらも、三人は重い腰を上げて甲板へとついてくる。 潮風吹きすさぶ甲板に出た瞬間、彼らの不満の声は凍りついた。 巨大な触手を振り回す大蛸の魔物や、鋭い鱗を持つ半魚人どもが舷側を乗り越え、叫び声をあげる船員たちに次々と襲いかかっていたのだ。
「はい、状況は一目瞭然だね! 諸君、早速だが日頃の鍛錬の成果を発揮して、あの海の魔物どもを退治してくれたまえ! なーに、私はレベルカンスト間近でレベリングなど一切不要だからね。船室のふかふかのベッドで優雅に茶でも飲んで待っているよ! 健闘を祈る!」
「ちょっ、ファーサさん待ってええええっ!?」「光の矢よ! ライトアローッ!」「ぎゃああ、触手が巻きついてくるううっ!」
阿鼻叫喚の悲鳴を背中で聞き流しながら、私は鼻歌混じりに船室へと戻っていった。 それから数日間の船旅の間、彼らは昼夜を問わず甲板へ呼び出され、休む間もなく海の魔境で命がけの死闘を繰り広げることになった。 そして——私の目論見通り、実に充実した訓練を経て、船は何事もなくドワーフの国が広がる灼熱の大陸の港へと滑り込んだのだった。
「いやー! やっぱり久しぶりの陸地を踏む感触は最高だねえ!」
桟橋に降り立った私が伸びをしながら爽やかに声をかけると、私の背後から凄まじい怨嗟のオーラが立ち込めた。 振り返れば、返り血と海水の塩でドロドロになった三人が、疲労困憊の極みに達した顔で、親の仇でも見るかのような鋭い眼差しで私を睨み据えている。 うんうん、死線を幾度もくぐり抜けてきた、実にいい面構えだ。素晴らしい成長ぶりじゃないか。
「さて諸君! この港町から乗り合い馬車に揺られ、ドワーフの街へ向かえばいよいよ目的地だ! あと一息だから張り切っていこう!」
「……どうせ、街道も魔物でいっぱいなんだろ」「この大陸の街道には、一体どんな化け物が出るのやら……」「そろそろ……ちゃんとお布団で休みたいですわ……」
口々にこぼれる恨み節。若者には試練こそが一番のスパイスだからね。私は内心でニヤニヤと笑みを噛み殺しながら、彼らを馬車へと押し込んだ。 当然のことながら、馬車が荒野の街道を進む道中、ひっきりなしに魔物の大群が地響きを立てて現れた。この大陸に棲息する魔物は、前の大陸の有象無象とは比べ物にならないほど獰猛でタフだ。 実に素晴らしい実戦の舞台ではないか。 私は揺れる馬車の客席で冷えた果実水を啜りながら、窓の外で必死に剣を振るい、拳を叩き込み、神聖魔法を絶叫する彼らの勇姿を、目を細めて微笑ましく見守っていた。
そうして数日間の過酷な強行軍を乗り越え、私たちは赤茶けた岩山に囲まれたドワーフの街へと辿り着いた。
「いやー! 無事、何事もなくドワーフの街に到着したね! 『星のへそ』に誰よりも詳しい旧友がいるから、早速そこへ案内するよ!」
私が先頭に立って懐かしい石造りの街並みをずんずん歩いていくと、後ろからは足を引きずる音とともに「何事もなく、だと……?」「あいつ絶対に許さない……」とブツブツ不穏な囁きが聞こえてくる。まあ、これも後になれば美しき青春の笑い話さ。
入り組んだ路地を抜け、目的の鍛冶工房の扉を押し開ける。 鉄と煤と熱気の立ち込める工房の奥に、懐かしい姿が目に飛び込んできた。 ドワーフ特有の、百四十センチほどの小柄な背丈。しかしその小さな体躯には、幾重もの戦いと鍛冶の傷痕が刻まれた筋骨隆々の逞しい肉体が詰まっている。手入れもされず無造作に伸ばされたボサボサのピンク色のロングヘアーに、油染みのついた無骨なオーバーオール。着飾る気など微塵もない野性味あふれる佇まいでありながら、ドワーフの成熟した女性特有の豊満な曲線と、抗いがたい艶かしい色気が全身から漂っていた。
「久しぶりだな、キンカ!」
私が工房に響き渡る大声で呼びかけると、巨大な金槌を振るっていた彼女が目を見張り、バッと顔を上げた。 「おおっ、ファーサじゃないか! 久しぶりだなあおい!」 キンカは満面の笑みを浮かべるなり、ドワーフ特有の怪力で私の胸元へと思い切り飛びつき、ぎゅうぎゅうと抱きついてきた。 エルフほどではないにせよ、ドワーフもまた人間より遥かに長命な種族だ。キンカとの付き合いも、思えばすでに五十年以上になるだろうか。
旧友との再会に大喜びしていたキンカだったが、ふと私の背後に立ち尽くすボロボロの三人に視線を留めると、その表情をキュッと強張らせた。 「おい、ファーサ……あいつらは一体何なんだ?」 「彼らかい? 彼らは新しく異世界から降臨された光の勇者様御一行だよ。よしなにしてやっておくれ」 「あれが、勇者……!?」 キンカは目を丸くして三人を値踏みするように凝視した。 「あんな小汚い連中が、あの伝説の……? で、その勇者様がウチに何の用だ?」 「実はね、勇者殿に二つ目の神器『火山の剣』をお渡ししたくてね。星のへその中腹にある『火の祠』まで、案内役をお願いしたいんだよ」
私の頼みに、キンカは眉を寄せて少し不満げな顔を作ったが、やがてポリポリと頭を掻いて息を吐いた。 「……チッ、お前の頼みじゃ断れねえな。分かったよ、祠まで連れてってやる。だがなファーサ、今日はもう日が暮れちまうし、何よりその勇者様たち、今にも過労死しそうなツラしてんぞ」
振り返れば、三人は魂の抜けた顔で壁に寄りかかり、足をガクガクと震わせていた。 「違いないね。よし、今日はしっかり休息を取ろう! 宿を手配してくるから、明日の朝一番にまたここへ来るよ」 「ああ、登山の準備はこっちで整えておくさ。……それとファーサ、せっかく久しぶりの再会なんだ。今夜はウチで盃を交わそうじゃないか」 「いいねえ、もちろん付き合うよ。後で顔を出すさ」
約束を交わし、私は三人を用水路沿いにある宿屋へと連れていった。前回の街と同じように二部屋を確保して案内すると、三人は着替えもそこそこに、倒れ込むようにベッドに突っ伏して一瞬で深い眠りへと沈んでいった。
三人の健やかな寝息を確認した私は、身軽な格好で宿を抜け出し、夜の帳が下りたキンカの工房へと足を向けた。 工房の居住スペースの扉を開けた瞬間、私は思わず目を瞬かせた。 昼間の油まみれのオーバーオール姿はどこへやら、湯浴みを終えたキンカは、清潔な純白のキャミソールワンピースを身に纏っていたのだ。濡れたピンクの髪からは良い香りが漂い、昼間の無骨な鍛冶師とはまるで違う、しっとりとした大人の女の顔をしていた。
「おお、約束通り来てくれたんだね、ファーサ」 「ああ、当然だろう! 五十年来の古い親友に会うんだからね」 「……親友、ねえ」 キンカは唇を尖らせて少し不満げに呟いたが、すぐに気を取り直したように戸棚から埃をかぶった重厚な酒瓶を取り出した。 「とにかく、今夜は飲むぞ! ウチの秘蔵の年代物だ、特別な酒だからな!」
それから私たちは、卓を挟んで時を忘れるように杯を重ねた。 度数の高いドワーフ特有の火酒が胃を焼き、心地よい熱が全身を巡る。昔の馬鹿話や旅の土産話を語り合ううちに、夜は深々と更けていった。
酒がすっかり回り、夜が最も深くなった頃——。 不意に席を立ったキンカが、私の膝の上へと音もなく滑り込み、首元にぎゅっと腕を絡めつけてきた。 「おや……どうしたんだい、キンカ?」 私の問いに、キンカは潤んだ瞳で私を見上げ、震える声で囁いた。 「……どうした、じゃないだろ。私たちは……昔、恋人同士じゃなかったのか?」 「恋人か・・・・」 私が黙りこくると、キンカの顔がフッと傷ついたように陰った。 そして次の瞬間——彼女の熱く湿った唇が、私の唇を塞ぐように強く押し当てられた。
息を奪われ、濃厚な酒の香りが口内を満たす。 唇が離れた後、私は小さく息を整えながら尋ねた。 「どうしたんだい、急に。……火酒で欲情でもしたのか?」 「欲情なんかじゃないッ! ……愛だ、愛なんだよ、ファーサ」
必死に想いを訴えるキンカを、私は愛おしさを込めて優しく抱き返した。 小さな、けれど逞しく熱い肉体の温もりが、私の胸の奥へと染み渡っていく。 「……今夜は、ここまでにしよう」 私は彼女の額にそっと唇を落とした。 「私の身体が欲しいのなら、いつでも差し出すよ。だがね、明日は大事な火山の案内がある。万全の体調で挑んでもらわなければ困るのだよ」 キンカは名残惜しそうに私の胸元に顔を埋め、小さく唇を尖らせた。 「……分かったよ。だけど、その代わり……この件が無事に終わったら、またウチを抱いて、愛してくれるかい?」 「もちろんさ」
私の約束に、キンカの顔にパッと華やかな笑みが咲いた。 「約束だからな! じゃあ、また明日だ!」
夜風に吹かれながら工房を後にし、宿のベッドへと滑り込む。 暗闇の中、天井を見上げながらキンカの温もりを思い返していると、胸の奥底からじんわりとした温かな幸福感が湧き上がってきた。
……長命な種族同士の繋がりというのは、本当に心地が良いものだ。 人間の寿命はあまりにも短く、港町の人間たちのように、一度背を向けて数十年も経てば、肌を重ねた相手ですら私のことなど綺麗さっぱり忘れ去ってしまう。 だが、キンカは違った。 長い歳月が流れてもなお、彼女は私への執着と情愛を、昨日のことのように鮮烈に抱き続けてくれていたのだ。 世界に取り残される恐怖を癒してくれるその執着が、私にはたまらなく愛おしく、嬉しかった。
翌朝。 私はまだ眠気の残るユウ君、ガオン君、きらり君の三人を容赦なく叩き起こし、朝食を胃袋に流し込ませてキンカの工房へと向かった。 工房の前では、自身の背丈ほどもある巨大な登山リュックを背負ったキンカが、仁王立ちで待ち構えていた。
「よし! 全員揃ったな! これより星のへその中腹にある『火の祠』を目指す! 足元はマグマの噴出する灼熱の難所だ、お前ら覚悟はできてんだろうな!」
キンカの威圧的な檄に、三人は互いに顔を見合わせると、不敵な笑みを浮かべて同時に唱えた。
「「「フルオープン!」」」
青白い光の板が、三人の頭上に一斉に展開される。 その数値を覗き込んだ瞬間、私は思わず目を見張り、キンカは「げえっ!?」と度肝を抜かれたような声を上げた。
ユウ:【レベル32】 ガオン:【レベル20】 きらり:【レベル40】
ほんの数日前までひよっこ同然だった数値が、過酷極まりない海の魔物と荒野の連戦を経て、信じがたい跳ね上がり方を見せていたのだ。 ユウ君の纏う魔力は歴戦の騎士を凌駕し、ガオン君の全身からは上位クラス【森の闘士】としての凄まじい野性の闘気が立ち込めている。そしてきらり君に至っては、レベル40という教団の最高幹部一歩手前の領域にまで数値を押し上げていた。
基礎能力値も、港を出る前とは完全に段違いだ。もはや誰も、お荷物などとは呼ばせない圧倒的な風格がそこに宿っていた。
「よし……行こう!」 ユウ君が力強く拳を握りしめ、先陣を切る。
私たちは地鳴りのような熱気を吹き上げる火山の頂を目指し、力強い足取りで一歩を踏み出したのだった。

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