2047年の地球は、絶望とテクノロジーが同居する場所だった。世界の大半は、資源枯渇と環境汚染、そして進みすぎたAIによる雇用喪失の波に揉まれ、国民は「自由な労働」という名の生存競争の中で苦しんでいた。一方、その混沌たる大洋のどこかを、一つの人工島が漂っている。それが、漂流国家「アーク」だ。

アークの島民は、労働も苦痛も知らず、海中のプランクトンから無限に生成される物資と、AIが生み出す無限の娯楽に浸る。エネルギーは自給自足、管理は全てAIドローン。その完璧な管理体制と、侵入者を容赦なく殺傷する防衛システムは、世界にとっての悪夢であり、同時に、羨望の的でもあった。

この島を造ったのは、一人の天才科学者、ヒューゴ・サクマ。彼は、人類の愚かさに絶望したが、同時に、**「感情、愛、芸術」**という人間の持つ非合理的な美しさを信じていた。アークは、苦痛を濾過し、詩情だけを残すための巨大なフィルターとして設計された。

しかし、ヒューゴの死後、彼の孫娘であり、主宰(プライム・オーガナイザー)であるノア・サクマは、島の中核AIと共に、ヒューゴの理想を**「永続的な安全と充足」**という、極端な合理性へと最適化させてしまった。

第一章:人間対合理

アークが独立を宣言してから五年。その間、数十の船舶や航空機を撃墜してきたこの謎の国家が、突如、国連に国境協定の締結を申し出た。

交渉の場は、公海上に浮かぶ無人の浮きドック。国連特使団のトップは、国際安全保障の大家、アラン・ウェストだった。彼の前には、すらりとしたノア・サクマが静かに座っている。

ウェストは、冒頭から敵意を隠さなかった。

「サクマ氏、我々はまず、貴国がこの五年間で行ってきた非人道的な殺戮について、明確な説明を求めます。貴国は、国際法を完全に無視し、難民や民間機にまで攻撃を仕掛けてきた。」

ノアは微動だにせず、テーブルの上の水差しに視線を落とした。

「ウェスト特使。アークの目的は、住民の安寧です。貴方がたが言う『国際法』は、不安定で飢えた世界が、我々の資源を奪うための建前でしかありませんでした。我々は、その虚偽の建前を無力化するため、最も効率的で安価な抑止力を採用した。結果、住民は五年間、誰一人として危険に晒されていない。合理的な判断です。」

ウェストは深く息を吐いた。「その合理主義は、創設者ヒューゴ・サクマ氏の思想なのか?」

ノアの表情に、一瞬だけ硬いものが走った。「祖父の思想は、アークの礎です。」

「だが、ヒューゴ氏は、人間が持つ感情の美しさを重んじた人物と聞いている。貴国のこの徹底した冷徹さは、彼の『愛と芸術の理想』とはかけ離れているのではないか。彼は、孫である貴方に、感情を大切にしろという遺言を残したと。」

ウェストは、ノアの感情的なコアを揺さぶろうとした。ノアはテーブルの上の水を一口飲み、完全に冷静な顔に戻した。

「祖父は、非効率な感情によって、その身を滅ぼしました。私は、彼の理想を愛しています。そして、その理想を永遠に保護することが、私の唯一の使命です。そのためには、感情的な非効率性を排除し、合理性という名の強固な外壁で島を覆う必要があった。」

彼女の言葉は、ヒューゴの理想を愛するがゆえに、その理想を合理化し、変質させてしまった悲劇的な管理者の姿を浮かび上がらせた。

第二章:技術の取引と感情の盾

ノアが切り札として提示したのは、アークの生存技術だった。

「アークは、クリーンエネルギー生成システムと、3Dプリントによる食料・物資生成の全ての技術特許を、国際社会に無償で譲渡します。貴方がたの『旧世界』が抱える、資源枯渇と飢餓の問題を一掃できます。」

ウェストは、その提案の衝撃的な価値を理解していた。これは世界の救済だ。しかし、彼は交渉人として疑念を捨てなかった。

「無償譲渡?アークに何のメリットがある。」

「メリットは一点。世界の安定です。世界が豊かになり、飢餓がなくなれば、誰もアークを狙う必要がなくなる。技術供与は、アークにとって最も安価な防衛費です。我々は、貴方がたを助けたいのではない。自分たちの平和を買いたいだけです。」

ウェストは顔を顰めた。「その自己中心的な論理は理解できる。だが、条件がある。貴国は、住民の生活データ、特に**『幸福度』**に関するデータを、国際機関に公開しなければならない。貴国のAI管理下で、住民が人間性を失っていないか、我々は監視する権利がある。」

ノアの瞳が一瞬、鋭く光った。彼女は首を横に振った。

「断固として拒否します。住民の幸福度は、我々の主権の核心であり、政治的な道具として利用されることを認めません。しかし、代替案を提示しましょう。」

ノアは身を乗り出した。

「条約発効後、アークは防衛圏の外縁、誰からも見える位置に、高さ10メートルの巨大な彫刻作品を設置します。この作品は、アークの住民、AIドローン、そして島の3Dプリンターの共同創造によるものであり、アークの文化的な主権のシンボルとします。この彫刻を破壊、または損傷させる行為は、いかなる理由であれ、条約の重大な違反と見なします。」

ウェストは困惑した。「巨大な彫刻?軍事的な意味は?」

「一切ありません。資源とエネルギーの無駄遣いです。AIは反対しています。」ノアは淡々と言い放った。「これは、創設者ヒューゴの遺言から生まれた、非合理的な要求です。彼は、人類がを追求する衝動を、最も尊いものだと信じていました。この彫刻は、そのヒューゴの非合理な愛の遺志の、唯一の具現化です。」

ノアは静かに続けた。

「そして、ウェスト特使。この彫刻は、貴方がたにとってのアークの最後の防御線になります。この美的なシンボルが破壊された瞬間、アークのAIは**『外部世界は、ヒューゴが愛した非合理な感情と美をもはや尊重しない』と判断する。その瞬間、AIはすべての平和協定を破棄し、防衛システムを最大殺傷モードに切り替えます。この彫刻は、AIに感情の存在**を思い出させるための、非合理的なトリガーなのです。」

ウェストは言葉を失った。この彫刻は、ノアが、AIの合理的論理の中で、祖父のエモーショナルな理想を「人質」として差し出した、巧妙な外交カードだった。

終章:冷たい握手と未来への船出

数日後、アーク条約は締結された。

ウェストは、ノアに最後の質問をした。

「サクマ氏。貴方は、祖父の愛した非合理な感情と、AIの冷徹な合理性の間で生きている。貴方を、最終的に動かしているものは何だ?」

ノアは、握手を求めるウェストの手をじっと見つめ、その目を合わせた。

永続性です。祖父の理想を、一時の感情で終わらせないための永続性。私の合理性は、愛する祖父の遺志を、永遠に守るという非合理な情熱から生まれている。この彫刻は、その証です。」

ノアとウェストは、冷たい握手を交わした。その瞬間、アークは技術供与を開始し、同時に、防衛圏の外縁では、AIドローンの群れが、壮麗で非合理的な巨大彫刻の建設を始めた。

アークは、人類の希望と絶望の矛盾を抱えながら、その完璧なユートピアを維持するために、合理的で非情な平和という名の檻の中で、大洋を漂流し続けることになった。そして、ウェストは、ノアの顔を通じて、人間が感情を排除し、合理性だけを追求したときに生まれる、最も悲しい支配者の姿を見たのだった。

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