「明日までに、このバグ、潰しきれなかったら、君の評価はゼロだ」

冷や水を浴びせられたような声だった。神崎社長の書斎のような社長室――実際は高級な革張りのソファと、ガラスケースに飾られたゴルフのトロフィーしかない――で、僕は、力なく項垂れていた。時刻は午前2時。東京の夜景は、この「フューチャー・ゲート」の最上階から見下ろすと、まるで自分たちの手のひらの上に乗っているかのように錯覚させる。

志村健太、28歳。システムエンジニア。入社3年目。

急成長中のITベンチャー、フューチャー・ゲートは、その名に反して、未来へ向かうゲートではなく、社員を閉じ込める監獄だった。社長の神崎浩一は、テレビで「若き起業家精神の鑑」などと持て囃されるカリスマだが、その実態はワンマンで冷酷な独裁者だ。

「しかし、社長。この新システムは設計に根本的な欠陥が――」

「黙れ。言い訳は聞きたくない。君はプロだろう? プロは結果を出す。プロセスなんてどうでもいい」

神崎は、グラスの中の琥珀色の液体を揺らし、皮肉な笑みを浮かべていた。

エレベーターホールに戻ると、フロアは依然として煌々と光り、キーボードの打鍵音が鳴り響いていた。

その中に、同期の佐藤奈緒がいた。事務職の彼女は、いつも僕を気にかけてくれる、この会社で唯一の光だった。

「健太くん」

奈緒は僕の傍に立ち、そっと缶コーヒーを差し出した。

「奈緒。もう帰った方がいいよ。君の仕事じゃないだろ」

「いいの。一人で頑張っている健太くんを見てたら、私も眠れなくなっちゃう」

僕たちは静かにコーヒーを啜った。この会社で生き残るには、この過酷な状況に適応するか、辞めるか、の二択しかない。でも、僕には奈緒がいる。彼女の未来を守りたい。その一心で、僕は神崎の理不尽な要求に応え続けていた。

しかし、ある夜、僕はサーバー室で神崎の決定的な犯罪の証拠を掴んだ。僕が担当している新規開発システムに秘密裏に組み込まれた**「バックドア」**を利用し、神崎が顧客の機密情報を盗み出し、ライバル社に売りつけていたのだ。ログに記録された、神崎のIDによる不審なデータ転送の痕跡。

「これで、社長を告発できる」

僕は奈緒にすべてを打ち明けた。奈緒は驚き、そして震えながら言った。

「健太くん、証拠は私がまとめるわ。でも、絶対に慎重に。社長は、何を考えているか分からない人よ」

僕たちは連日、残業と称して会社に残り、告発のための準備を進めた。奈緒は僕の技術的な証拠を、誰でも理解できる明確な資料にまとめ上げてくれた。

そして、その計画が実行される日が来た。金曜日の夜。神崎社長は、新システムのローンチパーティーで壇上に立っていた。

「フューチャー・ゲートは、必ずや日本のIT業界の未来を切り拓く! 皆さんの献身に、心から感謝する!」

拍手が鳴り響く中、僕と奈緒は、社長室へと向かった。最後の仕上げだ。証拠のログのコピーを、神崎が常に使っているPCのデスクトップに保存する。

しかし、社長室の扉を開けた瞬間、僕は凍りついた。

そこには、神崎が立っていた。そして、その隣には、警察官が二人。

「志村健太くん。長かったな。君が動くのを、ずっと待っていたよ」

神崎は、勝利を確信したような、冷たい笑みを浮かべていた。

「まさか……」

僕の背後から、神崎の秘書が、一枚の書類を手に近づいてきた。それは、僕が奈緒と協力して作成した、「システム不正アクセスと情報流出」に関する告発状のコピーだった。しかし、告発の対象は神崎ではなく、僕、志村健太になっていた。

「志村くん。君は、会社のサーバーに不正に侵入し、データを改竄。その証拠を、佐藤奈緒くんが、私に報告してくれたんだ」

僕は、血の気が引くのを感じた。

「な、奈緒……?」

振り返ると、奈緒がそこに立っていた。いつものように優しく微笑んでいる。だが、その微笑みは、僕に向けられたものではなかった。神崎に向けられた、忠誠の笑みだった。

「ごめんね、健太くん。でも、この会社で生き残るには、勝者の側につくしかないの」

奈緒は淡々と告げた。彼女は、僕を利用し、僕の告発の準備を、自分たちの罠として利用したのだ。僕が神崎の犯罪を追っている間、奈緒は、僕が犯罪者であるという虚偽の証拠を、完璧に作り上げていた。

「君の才能は惜しいが、残念だ。君は、私という『ゲート』をくぐろうとした。だが、このゲートは、私の意志でしか開かない」

神崎は勝ち誇ったように言った。警察官が僕の腕に手を伸ばす。

その瞬間、僕の理性の糸が、ぷつりと切れた。

僕のポケットには、証拠をコピーするために常に持ち歩いていた小型の万能ナイフが入っていた。データケーブルを切断したり、PCケースを開けたりするための道具だ。

「お前は……お前だけは……!」

僕は、警官が腕を掴むより早く、ポケットからナイフを引き抜いた。反射的な、人間として最も原始的な怒りの衝動だった。

「志村! やめろ!」

神崎が驚愕に目を見開いた。

僕は、その冷酷な、すべてを見下ろす瞳めがけて、全力で突進した。

「この地獄の責任は、お前にある!」

警官の制止の声が響く中、僕は神崎の胸にナイフを突き立てた。

鈍い感触。神崎は、一瞬、理解不能な表情を浮かべた後、血を吐きながら、高級な革張りのソファに倒れ込んだ。

奈緒の悲鳴が、部屋に響き渡る。

警官たちはすぐに僕を取り押さえ、地面に組み伏せた。冷たい床に顔を押しつけられ、僕は、目の前の光景を見た。

神崎は動かない。彼の胸元から、赤い血が、ゆっくりと、カーペットに染み出していく。

僕が、この地獄を終わらせた。

「志村健太。殺人未遂の現行犯で逮捕する!」

警官の怒号が頭上で響く。僕は、組み伏せられたまま、力の限り、倒れた神崎を指さした。

「…あいつが、あいつが、みんなを、殺したんだ……!」

僕の声は、血を吐くような呻きになった。僕は、社長を指さしたまま、警察官に引きずられ、部屋の外へ連れ出された。僕の指先だけが、まだ、闇の帝王を指弾していた。