五十歳になる佐伯(さえき)和人(かずと)は、今日もまた、重い空気を吸い込んで目を覚ました。築年数の経った一軒家は、彼の人生そのもののように、くすんで疲弊しきっていた。同居しているのは八十歳になる母、綾子(あやこ)だ。
和人は独身だったが、その原因は「女性に縁がない」という類のものではなかった。真面目一徹に生きてきた彼は、仕事以外の生活に「現(うつつ)を抜かす」という行為が理解できなかった。ましてや女性との接し方など、まったく分からない。まるで取扱い説明書のない複雑な機械のように感じていた。
しかし、今は女性どころではない。綾子はまだ完全に認知症というわけではないが、一人で立つことも、食事をすることも、トイレに行くこともできない。完全に要介護五の状態だ。
和人は以前、中堅のメーカーに勤めていたが、母の介護に集中するため退職し、現在は労働時間に融通がきく派遣社員として働いていた。
日々の介護、労働、そして何より金銭的な不安が、彼の家庭を限界へと追い詰めていた。疲れ果てた彼の心を苛むのは、この状況にもかかわらず、いまだに「母親面」をする綾子の態度だった。
「和人、お茶はまだかね。それから、肩を揉んでおくれよ。まったく、気が利かない子だね」
その言葉が、疲労困憊の和人の心を抉(えぐ)る。
「くそ……」
夜、静まり返ったリビングで、和人は無意識にそう呟いた。この限界状況の中で、彼の頭に真っ先に浮かぶのは、罪悪感を伴う恐ろしい願望だった。
その夜。
自室で目を閉じようとした和人の前に、ぼうっと光を放つ「天使」が現れた。性別不明のその存在は、透き通るような白銀の衣を纏っていた。
「佐伯和人。あなたの心から発せられた深い嘆きと、自己犠牲的な献身の念を聞き届けました。私はあなたの願いを、一つだけ叶えましょう」
和人は一瞬、夢か幻覚だと思った。しかし、その声は彼の脳裏に直接響き、疑いようのない現実味を帯びていた。
彼の真っ先に浮かんだ願いは、心の中で形を成しかけた。それは、「母の死」。
だが、すぐに彼は激しく頭を振り払った。そんなことを望む自分を、真面目な彼は許せなかった。
次に考えたのは、「金」だった。金さえあれば、優秀なヘルパーを雇い、住環境を改善し、介護から解放される。彼の現状のすべてを変えることができる。
しかし、そこで彼の聡明で真面目な性格が顔を出す。
「自分だけ助かって、何になる? この問題は、私だけのものじゃない。日本中に、世界中に、同じ地獄を抱える人がいる」
彼は長い熟考に入った。自分の願いが、個人的な救済ではなく、この世の根本的な問題解決に繋がるものはないか。
そして、夜明け前、和人は一つの願いを思いつく。それは、彼の真面目さ、優しさ、そして限界まで追い詰められた故の、冷徹な合理性が融合した、恐ろしくも優しい願いだった。
翌朝。
和人はいつものように、母の様子を見に寝室へ向かった。しかし、そこで見た光景に、彼は完全に茫然自失となった。
昨日まで、皺(しわ)だらけでよぼよぼだった八十歳の綾子が寝ていた場所に、二十歳前後と思われる、肌艶の良い若い女性が寝ていたのだ。
和人が恐る恐る声をかける。
「…あの、お母さん?」
女性はむくりと起き上がり、ぶっきらぼうな声で返事を返した。その声だけは、聞き慣れた母のそれだった。
「なんだい、朝食の準備はできたのかい。はやく、ダイニングエリアまで連れてっておくれ」
いつもの母と同じ、きまり文句。願いが叶った喜びの実感が湧かないまま、和人が呆然としていると、女性はベッドから自力で立ち上がった。その立ち姿の軽やかさ、しなやかな肢体に、和人は思わず息を飲んだ。
そして、彼女は自分の手の甲をゆっくりと見つめる。細く、若々しい指。しばし呆然とした後、洗面所へゆっくり向かっていく。
数秒の静寂の後、家中に響き渡る大きな叫び声が上がった。
「若返っている!!」
二人とも茫然としたままだったが、和人は勤務時間がある。
「…と、とりあえず、お母さん。食事は自分で食べて、今日は家でゆっくりしててくれ」
そう告げ、彼は会社に向かった。その際、彼女の肩に触れそうになった手が、震えていることに彼は気づかなかった。
会社にいる時、昼休みでネットニュースを開いた和人は、さらに衝撃を受ける。
彼の家だけでなく、日本中どころか、世界中で同じような現象が起きているというのだ。昨日まで要介護状態だった人々が、突如として若返り、健康な姿に戻っている。
政府からは、結果が出るまで混乱しないようにと、新型コロナウイルスの時と同じような、「不要不急の外出を控える」といった要求が流れていた。誰の頭でも、この現象の整理はついていないようだった。
夢心地で帰宅した和人が家に入ると、デイサービスの担当者が、リビングで茫然と立ち尽くしていた。
「どういうことでしょうか…昨日まで、あんなに大変だった綾子さんが…」
和人は曖昧に頷き、「とりあえず、今日のところは帰ってください」と告げた。母も彼も、理解できぬまま、漠然と日々を過ごしていくしかなかった。
ニュースでは、若返った人が突発的な心臓発作のようなもので死んでいく話も報じられ始めた。しかし、政府や専門家も、この事象に対して「皆、同じように対応していいものか」と、判断ができずにいた。
三日後の朝。
若返った母、綾子から、和人は告げられた。
「和人。いろいろ考えててもしょうがないからさ。今日から日々を生きていくことにするわ」
和人は身構えた。そして、次の言葉で彼の最悪の予感が的中する。
「とりあえず、街に出ていろいろ考えたいから、私の年金の通帳ちょうだい」
年金は、和人の派遣の収入だけでは足りず、二人の生活費に組み込まれていた。自由になるお金はない。それを説明すると、綾子はヒステリーを巻き起こした。
「これは私のお金だろ! 私に使えないって、あんた、お金をちょろまかしてるかい!? すぐにここにだしな!」
和人は否定するでもなく、年金手帳と、振込口座のキャッシュカードを渡した。母はそれをひったくるように奪うと、そそくさと家を出ていった。
デイサービスの担当者には、この件が落ち着くまでは対応不要と説明し、和人は母の判断に任せることにした。
母の傍若無人ぶりは、日々エスカレートしていった。新たな収入がないにもかかわらず、「新しい青春を取り戻す」と、日々無茶な要求を重ねる。
「今の世代の服を用意しろ!」 「化粧品を用意しろ!」 「アクセサリーを用意しろ!」
和人は貯金を切り崩し、彼女の要求に応じた。それは、かつて介護で尽くした義務感ではなく、もっと個人的で、甘美な衝動に支配されていた。
彼女のために選んだ、流行のブラウス。彼女がそれを纏い、薄く化粧をしてリビングに立つ姿は、和人の長年眠っていた男としての心を激しく揺さぶった。
彼は、彼女に恋をした。
それは、彼の介護を必要とした八十歳の母ではなく、目の前にいる二十歳の魅力的な女性に対してだった。彼女の奔放さは、彼が真面目に生きてきて避けてきた「現を抜かす」人生の輝きそのものだった。
家にいる時、彼女が鏡に向かうたびに、和人は息を詰めた。彼女の首筋、立ち上がった時のウエストの細さ、そして何より、彼の介護する老女の面影が完全に消え去った、自立した一人の女性としての存在感。
彼は、婚活でいろいろ痛い目にあった経験から、女性を恐れ、避けてきた。だが、この女性は、誰よりも身近でありながら、最も遠い存在になってしまった。その矛盾が、彼の背徳的な恋心を増幅させた。
若返りから七日目の夜。
綾子が「飲みに行く」と言って出て行った後、和人は彼女の寝室に入った。彼女が昨日まで着ていた薄いパジャマを手に取り、静かに顔を埋めた。ほんのりと残る、化粧と、若々しい石鹸の香り。
「綾子さん……」
彼は思わず、母ではない、一人の女性を呼ぶ響きで名を漏らした。しかし、その恋には期限がある。最盛期の姿を取り戻した者たちは、わずか一日分の寿命を享受する。彼が願ったのは、延命ではなく、解放だった。母は若返りから十日で、以前の姿に戻り、そして静かに最期を迎えるのだ。
彼は、恋人でも、夫でもない。彼女にとっての彼は、単なる財布であり、彼女の若さを支える従順な息子でしかない。和人は、この十日間という名の「期限付きの恋」を、誰にも知られずに、心の中で燃やし尽くすしかなかった。
四:願いの結末
さらに数日たった、母が若返って十日目の朝。
和人がいつものように母の寝床へ向かうと、そこには以前の母の姿の老婆が、静かに横たわっていた。その表情は、どこか穏やかだった。若さという一瞬の炎を燃やし尽くした後の、静かな満足を湛えているように見えた。
和人はにやりと笑い、心の中で静かに呟いた。
「母は、満足しただろうか」
彼は知っていた。彼女の満足は、彼の献身的な介護から解放された満足であり、彼の叶えられなかった恋とは全く関係がないことを。しかし、彼は、その十日間で、生まれて初めて「恋」という感情を知った。それは、罪深く、一瞬で終わる、呪いのような恋だったが、真面目一徹で生きてきた彼の人生に、唯一の甘い毒を残していった。
和人が天使に願った願いは、以下の通りだった。
「この世にいる、食事、排泄を一人でできない人を、全て本人が思う『最盛期』の姿に変えさせてくれ。代わりに、その対象者の寿命を三十六十五分の一(約一日)にしてほしい」 (つまり、残り寿命を1年を1日に短縮するというもの)
「また、この対象になった者が、第三者に殺意を向けた場合、即座にその寿命を終わらせてほしい」 (最後にやけを起こさせないためのセーフティーネットの設定)
真面目で聡明な彼は、この世の介護問題を根本的に解決するべく、このような願いをしたのだ。
目先一ヶ月は、世界中で「死亡処理」に追われる多くの人がいた。若返った人々が、束の間の自由と生を謳歌した後、静かに元の姿に戻る、あるいはそのまま亡くなっていったからだ。
しかし、半年後、日本の多くの問題は改善した。莫大だった介護保険の負担は減り、介護に疲弊していた人々は解放された。
一方で、人口の半減により、労働需要も激減してしまった。これは主に先進国の問題だったが、この後どうなるかは、誰にも想像がつかない。数百年後に同じことが起きるかもしれないし、起きないかもしれない。
それでも、佐伯和人は、肩から大きな重荷がおりたような、すっきりとした感覚に包まれていた。
彼は、窓の外を見つめた。空は青い。
「この先の人生は、何があるのだろう」
彼は呟いた。孤独と、わずか十日間の恋の残骸を抱きしめて、彼の新しい人生が、今、始まる。