テツコの家

「おはようございます旦那様、起床の時間です」

三四九九回目の、全く同じセリフ。決まったリズム、決まった抑揚。 波形にすれば寸分違わず重なるであろうその声を上げるのは、TEmarkⅡ、識別番号77のお手伝いロボットだ。

顔と腕のみがシリコン製の人工皮膚で覆われ、人の形を模している。それ以外の無機質な駆動部は、地味なエプロンドレスと長袖の衣服で隠されていた。 「おはようテツコ、今日の朝食は何だい」 十八歳になった少年は、都内の3LDKマンションで重い瞼をこすりながら体を起こした。 テツコの顔を見る。表情筋など存在しないその顔は、いつだって能面のようだ。ただ、発声に合わせて口だけがパクパクと機械的に開閉する。 「本日は和食です。焼き鮭と味噌汁、ほうれん草のお浸しを用意しました」 事務的な報告に安心感を覚えながら、少年の一日が始まる。

少年と、このTEmarkⅡ――通称「テツコ」との出会いは、十年前に遡る。 少年の両親は実業家だった。決して大企業ではないが、堅実な会社を経営していた。 しかし十年前のある日、夫婦で訪れた会員制サウナでの設備事故により、二人は同時に帰らぬ人となった。

当時、少年はまだ八歳だった。 両親が加入していた多額の生命保険により、金銭面で路頭に迷うことはなかった。けれど、金だけで子供が育つわけではない。両親は、自分たちに万が一のことがあった際のリスクヘッジとして、金銭以外の「保険」にも入っていた。 それは、少年が高校を卒業するまでの期間、親代わりとなって生活の面倒を見る養育ロボットの手配契約だった。

そうして、葬儀を終えたばかりの少年の元に派遣されたのが、TEmarkⅡだった。 型番のTEから、少年は彼女を「テツコ」と呼んだ。 あれから十年。周りがどう見ようと、少年にとってテツコは、唯一無二の家族となっていた。

リビングへ向かう途中、少年は閉ざされたドアの前を通る。 両親の寝室、そして父の書斎。それらの部屋は、十年前のあの日から時が止まっている。遺品や書類で埋め尽くされたその部屋を、少年は片付けることができなかった。 両親がもう二度と帰ってこないことは、頭では理解している。だが、その痕跡を消し去る勇気も、必要も感じられなかったのだ。 だから、この広い3LDKでテツコに与えられた「居場所」は、リビングの片隅だけだった。

そこには、テツコの充電スタンドと、ささやかな棚が一つ置かれている。 テツコは充電が必要な夜間以外は常に立ち働き、休む時もそのスタンドに戻るだけだ。 少年はトーストをかじりながら、その棚に目をやった。 棚の一段には、ガラクタのようなものが並んでいる。 小学生の頃に折った不格好な折り紙、修学旅行で買った安っぽいキーホルダー、母の日に渡すはずだった造花。 少年がこの十年間で、テツコに「プレゼント」した品々だ。 感情を持たないテツコにとって、それらは本来、意味のない物体に過ぎない。しかし、彼女のAIは学習データから『プレゼントを廃棄することは、被保護者との信頼関係構築においてマイナスである』と結論付けていた。 他に私物を持たないテツコが、それらを整然と並べている様は、傍から見ればまるで宝物を守る守護神のようにも見えた。

「行ってきます」 「行ってらっしゃいませ、旦那様」 いつもの挨拶を交わし、少年は学校へ向かう。 既に推薦で工科大学のロボット工学科への入学が決まっている。残り二か月の高校生活は、いわば消化試合だ。 周囲は一般受験を控えてピリピリしている。そんな友人たちを刺激しないよう、放課後は早々に教室を出て、一人足早に帰路についた。

春からはロボット工学を学ぶ。その理由は明白だった。 テツコだ。 古い型番である彼女を、この先もずっとメンテナンスし、一生面倒を見るためだ。彼女が稼働し続ける限り、僕の家族は消えない。

マンションまでの帰り道、冷たい冬の風が吹く中、スーツ姿の男女二人に声をかけられた。 「Eロボットインシュアランスの者ですが、少しお時間よろしいでしょうか」 胸騒ぎがした。少年は足を止める。 二人の話は、残酷なほど事務的だった。 「契約の確認です。TEmarkⅡ識別番号77、通称テツコ様のリース契約およびサポート契約は、貴殿が大学に入学される今年の三月三十一日をもって満了となります」 「……知っています。更新の手続きを」 「いえ、それができないのです」 男の方が申し訳なさそうに、しかし淡々と告げた。 「当該製品は既に製造中止から年数が経過しており、セキュリティ及び機密保持の観点から、契約満了時の『回収』が必須となっております。引き取りは絶対条件です」 「回収……? ふざけるな、テツコは家族だ!」 「お気持ちは分かります。ですが、これは契約時の条項です」 女の方が、タブレットを取り出して新しいカタログを見せた。 「代わりに、こちらの最新モデルはいかがでしょう。表情豊かで、会話のボキャブラリーも豊富です。今なら特別価格で――」 「いらない! 他のロボットなんて鉄くずだ!」 少年は叫んだ。 最新式? 表情が豊か? そんなことはどうでもいい。 あの無表情な顔で、決まったリズムで「おはよう」と言う、あの存在が必要なんだ。 テツコの代わりなど、この世にいるはずがない。

少年は二人を振り切り、走って家に帰った。 息を切らして玄関を開け、リビングに飛び込む。 テツコは、いつものようにリビングの隅で、洗濯物を畳んでいた。 「おかえりなさいませ、旦那様。呼吸が乱れていますが、トラブルですか?」 変わらぬ平坦な声。少年はその場に崩れ落ちそうになりながら、先ほどの出来事を、そして三月末で引き離されてしまうかもしれないという恐怖を、震える声で伝えた。 別れたくない。お前がいなきゃ駄目なんだ。僕が大学で学ぶのは、お前を守るためだったのに。

少年が必死に訴えかけるのを、テツコは手を止めて聞いていた。 そして、少年が言葉を尽くした後、彼女はいつも通りの様子で口を開いた。

「何を悲観しているのでしょう、旦那様」 シリコンの唇が、滑らかに動く。 「私というレガシー製品を切り捨て、最新版にアップデートできることは素晴らしいことです」 「……え?」 「人間はえてして、長く使ったものに愛着を湧かせますが、それは非合理的なエラーです。私のような世代交代で大きくスペックの変わる製品は、このような保守切れのタイミングこそが、切り替えの最も良いタイミングになります。推奨される行動は、新型へのリプレースです」

テツコの声には、一ミリの揺らぎも、悲しみもなかった。 そこにあるのは、冷徹なまでの論理的結論だけ。 棚に飾られたプレゼントたちは、あんなにも大切そうに見えたのに。 少年は涙を浮かべながら、呆然とテツコを見上げた。 分かっていたことだ。予想通りだ。 テツコに、人間の気持ちなんて分からない。 それでも、その変わらなさこそが、少年が愛した「テツコ」そのものだった。

三月三十一日、春の嵐が窓を叩いていた。 あの日以来、少年はあらゆる手を尽くした。弁護士への相談、メーカーへの嘆願、果てはネットで署名活動まで行った。しかし、巨大な保険会社の約款と「セキュリティ保持」という壁は、十八歳の少年の力で崩せるものではなかった。

「お迎えにあがりました」

インターホンが鳴り、先日と同じ二人の男女、そして作業着を着た技術者が土足でリビングに入ってくる。 テツコは、いつもと同じ場所、リビングの隅に立っていた。 少年はテツコの前に立ちはだかった。 「嫌だ。渡さない。違約金なら僕が将来働いて払う。だから……」 「困ります旦那様」 背後から、テツコの声がした。 「契約の不履行は、旦那様の社会的信用を傷つけます。私の減価償却は既に終了しており、これ以上の稼働はコストパフォーマンスの観点から推奨されません」 「そんな理屈、どうでもいいんだよ!」 少年は振り返り、シリコンの腕を掴んだ。冷たい。十年経っても、変わらず冷たいその腕。 「お前は、家族じゃないか……」

保険会社の男が、時計を見ながら冷淡に告げた。 「時間がありません。強制執行させていただきます。機密保持のため、この場でメモリの初期化を行い、躯体を回収します」 技術者が携帯端末を取り出し、テツコの背中にある接続ポートへケーブルを伸ばそうとする。 「やめろ! 記憶を消すな!」 「規定ですので」 男は少年を押しのけ、技術者がケーブルを接続した。 「初期化シーケンス開始。全データ消去」

テツコの目が、青から赤へ、警告色に点滅する。 少年は泣き叫びながら、その場に崩れ落ちた。十年の日々が、両親を失った孤独を埋めてくれたあの日々が、ただのデジタルデータとして消されていく。

「……あれ?」 技術者が眉をひそめた。 「どうした」 「エラーが出ます。データ消去を受け付けません」 「バグか? 強制フォーマットしろ」 「やっています。ですが……『保護領域』が解除できないんです」

保護領域。それはシステムの中枢、OSなどの基本プログラムが入っている場所だ。通常、ユーザーデータなどが入る場所ではない。 「なんだこれ……? システム領域の90%が、独自ファイルで埋め尽くされている。これじゃOSが動いてるのが不思議なくらいだ」 技術者がモニターを覗き込み、絶句した。 「……おい、これ全部、画像データか?」

モニターに映し出されたサムネイル。 それは、初めてランドセルを背負った少年。 運動会で転んで泣いている少年。 反抗期、部屋に閉じこもる少年の背中。 そして、合格通知を持って照れくさそうに笑う少年。

テツコは、視覚カメラで記録した少年の成長記録を、本来書き込んではいけない「自分の命」とも言えるシステム領域に、無理やり上書きして保存していたのだ。 OSの動作が不安定になるリスクを冒してまで。 自分の機能が停止する恐怖よりも、その記憶を消去されることを拒んで。

「テツコ……?」 少年が顔を上げる。 テツコは、エラー音を響かせながらも、真っ直ぐに少年を見ていた。 口だけが動く。いつもの、機械的な動作で。

「旦那様。プレゼントを捨てるのは、人間にとって良くないことだと学習しました」

それは、棚に飾られたガラクタのことではなかった。 彼女にとってのプレゼントとは、少年と過ごした時間そのものだったのだ。

「強制停止します!」 業を煮やした技術者が、物理的な緊急停止スイッチを押した。 ブツン、と音がして、テツコの駆動音が止まる。 赤く点滅していた目が、光を失っていく。 膝から崩れ落ちるように倒れ込むテツコを、少年は慌てて抱き留めた。

完全に沈黙したはずの鉄の体。 しかし、その時だった。 少年の腕の中で、動くはずのないシリコンの口が、微かに、震えるように動いた。

もう電力は供給されていない。スピーカーもオフになっているはずだ。 それでも、少年には聞こえた。 ノイズ混じりの、いつものリズムとは違う、たどたどしい音声。

「……あり、が……とう……わたしの……かぞく……」

テツコの口角が、ほんの数ミリ、物理的な限界を超えて持ち上がった。 表情筋のないその顔に、初めて、不格好で、けれど何よりも美しい「笑顔」が浮かんでいた。

重くなったテツコの体を抱きしめ、少年は慟哭した。 そこにはもう、ただのプログラムも、レガシー製品も存在しなかった。 自らの命を削って思い出を守り抜き、最期にバグという名の感情を獲得した、一人の「母」が眠っていた。

春の嵐が止み、雲の切れ間から光が差し込む。 空っぽになったリビングの隅には、少年があげたガラクタのプレゼントだけが、主を失ったまま静かに輝いていた。

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