十年前に時計の針を戻す。
葬儀が終わった後の3LDKのマンションは、八歳の少年には広すぎた。 線香の匂いと、大人たちの同情的な視線が渦巻いていた空間が、急に静まり返る。残されたのは、両親のいない事実と、莫大な保険金、そして一体のロボットだった。
「初めまして。TEmarkⅡ、識別番号77です。本日より保護者代行として派遣されました」 玄関に立っていたのは、エプロンドレスを着た人形だった。顔と腕だけが妙にすべすべしていて、それ以外は布で隠されている。表情はなく、声はテレビのアナウンサーよりも抑揚がなかった。
「……帰れよ」 少年は、玄関マットに視線を落としたまま呟いた。 「命令の意味を特定できません。私は契約に基づき、あなたが十八歳になるまでここに常駐します」 「帰れって言ってるんだよ! この鉄くず!」 少年は近くにあったスリッパを投げつけた。スリッパはテツコの胸元に当たり、軽い音を立てて床に落ちた。彼女は身じろぎもしなかった。 「お父さんとお母さんを返せよ! お前なんかが代わりになるわけないだろ、偽物!」 泣き叫びながら、少年は自室に駆け込み、鍵をかけた。
それが、二人の始まりだった。
それからの日々は、拒絶の連続だった。 テツコが完璧な栄養バランスで計算して作った朝食を、少年は「お母さんの味じゃない」と一口も食べずに捨てた。 学校から帰ると、テツコが掃除したリビングを見て、「勝手に触るな! お父さんの匂いが消えるだろ!」と怒鳴り散らし、わざとクッションを投げ散らかした。 少年は、行き場のない怒りと悲しみを、全てこの「感情を持たないサンドバッグ」にぶつけた。
テツコは、何一つ反応しなかった。 怒りもせず、悲しみもせず、困惑さえしなかった。 散らばった食事を淡々と片付け、データを記録し、次の食事の時間になればまた新しい料理を並べた。投げられたクッションを拾い、定位置に戻し、少年の健康状態をスキャンする。 その機械的な献身が、少年をさらに苛立たせた。 「なんで何も言い返さないんだよ! ロボットだからって、馬鹿にしてんのか!」 「私はあなたを安全に育成するようプログラムされています。感情による非効率な動作は実装されていません」 その答えを聞くたび、少年は自分がひどく惨めで、幼い子供であることを突きつけられた気分になった。
転機が訪れたのは、両親が亡くなってから三ヶ月が過ぎた頃だった。 季節外れの台風が東京を直撃した夜だった。激しい雨風の音が、窓ガラスを叩きつける。 ゴロゴロ、と遠くで雷が鳴った瞬間、少年の脳裏に、あの日の記憶がフラッシュバックした。サウナでの事故。警察からの電話。冷たくなった両親の顔。
「いやだ……やめて……」 少年はパニックを起こし、過呼吸になった。リビングのソファで体を丸め、耳を塞ぐ。誰かに助けてほしかった。誰かに抱きしめてほしかった。 「お母さん、お父さん……怖いよ、助けて……」
その時、誰かが少年の肩に触れた。 少年はすがりつくように、その手にしがみついた。 「お母さ――」
ひやりとした、冷たい感触だった。 人間の体温ではない。シリコンの、人工的な冷たさ。
少年は目を開けた。暗闇の中、雷光に照らし出されたのは、無表情なテツコの顔だった。 「呼吸数の異常を確認。脈拍上昇。パニック発作の可能性があります」 テツコは冷静に分析結果を口にした。 少年は、その手を振り払おうとした。けれど、恐怖で力が入らない。
「大丈夫です」 テツコが言った。それは、プログラムされた慰めの言葉だったかもしれない。 「外部の気象状況は不安定ですが、この建物の構造は安全です。私はここにいます。あなたのバイタルが安定するまで、そばを離れません」
彼女は、少年の背中を一定のリズムでさすり始めた。 温かくはない。柔らかくもない。ただ規則的な、機械の動作。 だが、その「変わらなさ」が、嵐の中で唯一確かなもののように感じられた。 両親はもういない。二度と戻ってこない。その残酷な事実を、テツコの冷たい手が教えていた。 少年は、テツコの腕の中で、声を上げて泣いた。両親が死んでから初めて、子供のように泣きじゃくった。 テツコはずっと、その冷たい体で、嵐が過ぎ去るまで少年を支え続けた。
翌朝、台風は嘘のように過ぎ去り、晴れ間がのぞいていた。 少年は、泣き腫らした目で目を覚ました。テツコは、昨晩と同じ姿勢でソファの横に待機していた。 「おはようございます。朝食の準備ができています。昨晩のエネルギー消費を考慮し、糖質を多めに設定しました」 相変わらずの、事務的な報告。
少年は、のろのろと起き上がり、ダイニングテーブルに向かった。 そこには、きれいに焼かれたトーストと、スクランブルエッグが並んでいた。 少年は椅子に座り、フォークを手に取った。 一口、口に運ぶ。味気ない、完璧な味。 でも、昨日の夜よりは、少しだけ美味しく感じた。
「……おいしい」 少年が小さな声で呟いた。 テツコがピクリと反応した。 「音声入力を確認。『おいしい』。肯定的な評価として記録します。今後の調理データに反映します」
少年は、ポケットからくしゃくしゃになった折り紙を取り出した。昨日の嵐の前、学校で折った手裏剣だ。 それを、テツコの前に差し出した。 「……これ、やる」 テツコはそれを視覚センサーで捉えた。 「これは何ですか? 定義されていない形状です」 「手裏剣だよ。……昨日の、お礼」 少年はそっぽを向いて言った。「あと、鉄くずって言って、ごめん」
テツコは少しの間、沈黙した。内部でデータを処理しているのだろう。 やがて、彼女はシリコンの手で、その不格好な手裏剣を丁寧に受け取った。 「受領しました。被保護者からの初めての贈答品として、重要物品リストに登録します」
彼女はリビングの隅にある、まだ何も置かれていない自分専用の棚に、その手裏剣を恭しく飾った。 まるで、世界で一番高価な宝石を扱うように。
その背中を見ながら、少年は思った。 この冷たいロボットは、お母さんじゃない。お父さんでもない。 でも、彼女はここにいる。僕が大人になるまで、ずっと。
「テツコ、おかわり」 少年が初めて彼女の名前を呼んだ。 テツコは振り返り、能面のような顔で、口だけを動かした。 「はい、ただいま」
それが、奇妙な二人暮らしの、本当の始まりだった。
