放課後の「地域歴史調査同好会」の部室には、西陽に照らされた埃が静かに舞っていた。 部長の**真壁 航(まかべ わたる)**は、その光景を古い一眼レフのファインダー越しに眺めている。
一年前、都会からこの地方都市に転校してきた時、彼は自分でも驚くほど必死だった。痩せぎすでひょろりと高く、眼鏡の奥で常に周囲を窺っている自分。そんな「浮いた存在」の居場所を作るため、当時、部員募集のポスターを貼っていた先輩たちの『誰でも歓迎!』という緩い空気に吸い寄せられるように入部した。
しかし、現実は非情だった。 唯一の同級生は、夏休みが終わると同時に「塾が忙しい」と言い残して幽霊部員になり、可愛がってくれた先輩たちは、三月の卒業式とともにこの街からも、航の生活からも消えてしまった。
「……結局、また一人か」
彼は、指先で『市制五十周年記念誌』の背表紙をなぞる。 結局、航はこの街の歴史が好きだったわけではない。ただ、歴史を語る先輩たちの横顔に混ざりたかっただけなのだ。 一人きりになった部室。航は、自分の長身を持て余すように窮屈なパイプ椅子に座り、ただ時間が過ぎるのを待っていた。彼はこの街にとって、まだ「読み飛ばされる余白」のような存在だった。
五月の連休が明け、新入生たちの浮ついた喧騒が校内に響く頃、その「旋風」はやってきた。 ガラッ、と部室の引き戸が、外れんばかりの音を立てて開く。
「失礼します! ここが、失われしこの街の『記憶の保管庫』ですか!?」
航は驚き、椅子から転げ落ちそうになりながら眼鏡を直した。 入り口に立っていたのは、ショートカットの髪をツンツンと跳ねさせた、小柄な少女だった。小鳥遊 陽葵(たかなし ひまり)。彼女は航の返事も待たず、土足同然の勢いで(実際は上履きだが)部屋の奥へと踏み込んできた。
「あの、君は……新入生?」 「はい! 一年B組、小鳥遊陽葵です! 趣味は石碑の拓本取り、好きな地形は河岸段丘です! 先輩が、今年から一人でこの聖域を守っている真壁部長ですね!?」
陽葵は、航の胸元までしかない身長でありながら、その存在感で部屋全体を支配した。彼女は航の机に歩み寄ると、ドンッ、と一冊の古びたノートを叩きつけた。
「これを見てください、部長!」 「えっ、あ、ああ……」
航が戸惑いながらページをめくると、そこには驚くべき光景が広がっていた。市内の住宅地図をベースに、びっしりと書き込まれた手書きの注釈。 『この角の消火栓、戦前の鋳造の可能性あり』 『ここにあった豆腐屋、昭和三十年まで井戸水を使用』 『側溝の石組み、一部に江戸時代の城壁の転用を確認』 狂気的なまでの密度。それは単なる「地元好き」のレベルを遥かに超えていた。
「この街は、地層のように物語が積み重なっているんです! でも、最近の再開発でその『声』が消されようとしている! 私はそれを食い止めたい! 部長、協力してください!」
陽葵は、航のシャツの袖をぎゅっと掴み、至近距離から見上げてきた。 その瞳は、獲物を見つけた猛禽類のような鋭さと、生まれたての仔犬のような無垢さが同居している。航は、その圧倒的な「熱」に当てられ、たじろいだ。
「あの、小鳥遊さん。うちは同好会だし、そんなに大層な活動は……」 「大層じゃなくて、切実なんです! ほら、今すぐ行きましょう!」 「えっ、どこに?」 「駅裏の再開発地区です! 明日から取り壊される古い蔵の、瓦の紋章を確認しなきゃいけないんです! ほら、部長、カメラ持って! 脚立も必要です、先輩のその身長、絶対役に立ちますから!」
「ちょ、ちょっと待って……!」
航の言い分など、彼女の耳には一分(いちぶ)も届いていなかった。 陽葵は、困惑する航の長い腕を力任せに引っ張り、部室から連れ出す。 都会から来た「余所者」で、常に一歩引いて世界を眺めていた航。そんな彼の静かな生活は、この日、地元愛の塊のような少女によって、完膚なきまでに破壊された。
西陽の差す廊下を、小柄な少女に引きずられて走る、ひょろ長い部長。 航は、眼鏡がずれるのも構わず、ただ必死に彼女の歩調に合わせようとしていた。 それが、彼の止まっていた時間が、再び動き出した瞬間だった。
