蒼い地図の余白に、君が書き加えた明日 第2話

六月の上旬。梅雨入り前の、まだ湿り気の少ない午後のことだった。 「部長! 今日こそ、北の丘にある『お助け井戸』を調査しに行きましょう!」 入部して一週間。陽葵は、まだこの街の空気に馴染めずにいる航の腕を、文字通り引っ張り出した。

航にとって、この街はまだ「借り物の景色」でしかなかった。長身で痩せた体躯は、狭い路地では目立ちすぎる。街の人と目が合うたびに、彼は「不審者に思われていないか」と不安になり、眼鏡の奥で視線を泳がせ、一歩引いて歩いてしまう。 「……陽葵さん、そんなに急がなくても。あそこは私有地の近くを通るんだろう? あまり騒ぐと迷惑に……」 「大丈夫ですよ! 街の人はみんな優しいですから!」 陽葵は振り返りもせず、スキップのような足取りで進んでいく。

目的地は、古い民家が密集するエリアの裏手にあった。地図上では道がつながっているはずだが、実際に行ってみると、そこはどう見ても「誰かの家の庭」を突き抜けなければ辿り着けないような細い獣道だった。

「ちょ、ちょっと待って。これは流石に……」 航が立ち止まり、引き返そうとしたその時。 「あ! 三上のおばあちゃん! こんにちはー!」 陽葵が、庭先で洗濯物を干していた高齢の女性に、満面の笑みで手を振った。 航は血の気が引いた。都会なら「警察を呼ばれる」か「舌打ちをされる」シチュエーションだ。彼は慌てて頭を下げ、逃げる準備をする。

「あら、陽葵ちゃん。今日はまた、えらく背の高い彼氏さんを連れて」 「違いますよ、部活の部長さん! 井戸の調査に来たんです!」 「そうかい、そうかい。あそこの道、草が茂ってるから気をつけてね。帰りにお茶でも飲んでいきなさい」

航が固まっている間に、交渉は一瞬で終わっていた。 「……陽葵さん、知り合いだったの?」 「いえ、今日初めて話しました!」 「えっ」 「だって、この街に住んでる人はみんな仲間じゃないですか!」 陽葵は当然のように言い放ち、再びぐいぐいと奥へ突き進んでいく。航は、自分の常識が音を立てて崩れるのを感じながら、彼女の小さな背中を追いかけるしかなかった。

ようやく辿り着いた「お助け井戸」は、シダ植物に覆われた古い石造りのものだった。 「見てください部長! この石組み、江戸時代の末期に組まれたものですよ。この街が干ばつに襲われた時、ここだけは水が枯れなかったって言い伝えがあるんです!」

陽葵は井戸の縁に身を乗り出し、夢中でカメラのシャッターを切っている。その勢いでバランスを崩しそうになる彼女を、航は慌てて長い腕を伸ばして支えた。 「危ない……! 落ち着いてくれ」 「わっ、すみません。……でも、部長。見てください、これ」

陽葵が差し出したデジタルカメラの画面には、木漏れ日に照らされた古い井戸と、それを守るように茂る緑が、宝石のように美しく写っていた。 「この街には、こういう『守られてきたもの』がいっぱいあるんです。……それを部長と一緒に見つけたかったんです」

航は言葉を失った。 自分は今まで、この街を「知らない場所」として拒絶していただけではないか。 目の前で汗をかきながら笑う少女は、自分が勝手に引いていた境界線を、なんの躊躇もなく飛び越えてくる。

「……そうだね。たしかに、これは調査しがいがある」 「でしょ!? じゃあ、次はあの崖の上の石碑です! 行きましょう、部長!」 「えっ、今から!? ちょっと待って、まだメモが……!」

結局、その日の活動が終わる頃には、航の靴は泥だらけになり、ポケットには三上のおばあちゃんから貰った飴玉が詰まっていた。 へとへとになりながらも、航は不思議と悪い気分ではなかった。 (……友達作り、か。こんなに全力で振り回されるのは、予想外だったけど) 眼鏡の奥で、航の瞳が少しだけ和らいだ。

それが、二人の「最初の調査」の記録。 航がこの街を「自分の街」だと思い始める、小さな第一歩だった。

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