あの日、巨大な緑の魔樹が世界を貫き、絶対的な絶望で空を覆い尽くしてから、10年の歳月が流れた。
世界は完全に反転した。 かつて地下で暮らしていた地の民(虫人間)たちは「ハイ(上級)」と名乗り、地上を支配。対して、人間をはじめとする天の民は「ロー(下級)」と蔑まれ、多くの都市でまともな生活すら許されない奴隷のような扱いを受けていた。
約束の地が存在した大陸の北側。赤茶けた砂漠地帯に、ギラギラと下品なネオンを放つ不夜城があった。「妖艶な地」――娼館、賭博場、そしてハイたちのための悪趣味な観光で成り立つ、欲望の吹き溜まりのような都市だ。
その場末にある、薄暗い酒場。 酸っぱい酒と泥の匂いが染み付いたカウンターに、一人の男が突っ伏していた。 中年のくたびれた薄汚いコートを着て、無精髭を伸ばしきった男。焦点の定まらない目で、ジョッキの底を見つめてブツブツとうわ言をこぼしている。
「……あァ? 何見てんだよォ……」
バシャッ!!
突如、男の頭から、飲みかけの安い酒が勢いよくぶちまけられた。 「ひゃははは! 汚え面洗ってやったぜ!」 ゲタゲタと下卑た笑い声を上げたのは、派手なスーツを着たバッタ型のハイの男だった。
「おいおいマスター、ロー風情がこの店を利用するなんて聞いてないぜ? ここでは、こんなゴミにまで酒を出すのかよ」 バッタの男が、カウンターの奥でグラスを拭いているカマキリ型のマスターに嫌味ったらしく言う。
マスターは、複眼をギラつかせながら冷淡に答えた。 「うちは、金さえ払してもらえれば、ハイだろうがローだろうが、誰にでも酒を出すよ。……もっとも、そいつがいつまで金を持っていられるかは知らんがね」
「違いねえ! 相変わらず、金にがめつい店だぜ!」 バッタの男は満足そうに笑い、連れの女を抱いて店を出て行った。
酒を頭から被ったローの男――かつて、世界を救おうとした「火」の戦士、ジョーは、濡れた髪を拭いもせず、ニヤニヤと自嘲気味に笑った。 「へへっ……頭からとはいえ、酒を奢ってくれるとは……いい旦那だ……」
それから数時間後。 「閉店の時間だ。さっさと帰りな、ゴミ屑」 マスターの容赦ない言葉と共に、ジョーは路地裏へと蹴り出された。
ふらつく足取りで、ジョーはスラム街の片隅にある、あばら家のような我が家へと帰っていく。 「……ただいまー……フィオー……」
錆びたドアを開けると、微かなランプの灯りの下で、一人の女性が待っていた。 艶やかな黒髪を長く伸ばした、30歳前後の美しい女性。10年前、ジョーが全てを捨ててでも取り戻したかった恋人、フィオだ。
「……また、飲んできたのね」 フィオは咎めるでもなく、静かな声で言い、濡れたジョーのコートを脱がせた。 「ほら、お水飲んで。ちゃんとベッドで休んで」 彼女の献身的な手当てを受けながら、ジョーは泥のように眠りについた。
翌日の昼過ぎ。 酷い二日酔いで目を覚ましたジョーは、のそのそと起き上がり、またあの場末の酒場へと向かった。 変わらない、泥水を啜るような無気力な日常。 しかし、その日は少しだけ違っていた。
午後3時頃。薄暗い店内に、不釣り合いな客が入ってきた。 ボロボロの服を着た、ローの子供の兄妹だった。兄は10歳そこそこ、妹はまだ幼い。
「頼む! 何でも、どんなことでもやるから、ここで雇ってくれ!」 兄は、カウンターのマスターに向かって必死に頭を下げた。飢えと絶望の中で、藁にもすがる思いだったのだろう。
しかし、マスターは冷徹に言い放った。 「ここは子供の来る店じゃない。帰んな。……それとも、その妹を娼館にでも売るための手引きをしてほしいのか?」
「っ……!」 兄は顔を真っ赤にして唇を噛み、とぼとぼと妹の手を引いて店を出ようとした。
その時だった。 「おいおい、ローのガキ。ここは俺たちハイのいる世界なんだよ」 昼間から酔っ払っていたゴキブリ型のハイの男が、ゲタゲタと下卑た笑いを浮かべて兄妹の前に立ち塞がった。 「お前らみたいな汚いローのガキは、とっとと道端でくたばりな!」
男は、無視して出て行こうとした妹の足に、わざと足を引っかけた。 「きゃっ!」 妹が派手に転び、膝をすりむいて泣き出す。
「てめえッ!! 怒り狂った兄が、ハイの男に殴りかかった。しかし、子供の細腕が屈強なハイの怪人に敵うはずもなく、あっさりと腹を蹴り飛ばされ、床にうずくまった。
悔し涙を浮かべる兄妹。周囲のハイたちは、それを娯楽として笑って見ている。 カウンターの隅にいたジョーは、その光景を虚ろな目で見つめたまま、ピクリとも反応しなかった。ジョッキの酒を、ただ喉に流し込むだけだ。
「ひゃははは! 傑作だぜ! もっと泣けよ、ローのゴミ共!」 ハイの男が、再び蹴りを振り上げようとした、次の瞬間。
ドゴォォォォンッ!!!
凄まじい衝撃音と共に、ゴキブリ型のハイの巨体が宙を舞い、酒場の分厚いレンガの壁に深くめり込んだ。
「な、なんだ!?」 「誰だッ!」
静まり返る店内。 そこに立っていたのは、いつの間にか店に入ってきていたフィオだった。 彼女の右腕は、人間の肌ではなく、鈍く光る『鋼鉄』へと変貌し、白煙を上げていた。
「フィオ……」ジョーが微かに目を見開く。
「……弱いものいじめは、見ていて気分のいいものじゃないわ」 フィオは冷ややかな目で、周囲のハイたちを睨みつけた。
「て、てめえ! ローの女風情が、ハイに逆らう気か!」 怒り狂った数人のハイが、一斉にフィオを取り囲む。 しかし、ジョーは動かない。ただ、カウンターに肘をついて見ているだけだ。
「……ハァッ!」 フィオは恐れることなく踏み込んだ。彼女の鋼鉄の拳と蹴りが、ハイの怪人たちの外殻を次々と打ち砕き、いとも容易く全員を床に這いつくばらせた。
その夜。 いつものように閉店後に追い出され、家へと帰ってきたジョー。 あばら家のリビングには、ボロボロの毛布に包まって眠る、あの兄妹の姿があった。フィオが連れ帰ったのだ。
ジョーは何も言わず、フラフラとベッドへ向かおうとした。
「……ジョー」 背中越しに、フィオの悲痛な声が響いた。 「ジョーは、こんな人じゃなかった。……10年前、私を救うために世界を敵に回した、あの熱いジョーは……どこに行っちゃったの?」
ジョーの足が止まる。 しかし、彼は振り返ることも、答えることもしなかった。 「……うるせえよ」 それだけを吐き捨て、ジョーはベッドに倒れ込み、現実から逃げるように目を閉じた。
翌朝。 酷い頭痛と共にジョーが目を覚ますと、リビングには異様な光景が広がっていた。
ジョーは目をこすった。 フィオが、いつもの質素なワンピースではなく、体のラインに密着した黒い革のライダースーツ(かつてジョーが着ていたものに似ている)を身に纏い、ブーツの紐を固く結んでいたのだ。
フィオは立ち上がり、冷徹な目でジョーを見下ろした。 「ジョーが、いつまでもそうやって酒に逃げて寝ているんだったら……私が、世界を救うわ」
「……」
「私も、あのカプセルの中で眠っていただけの小娘じゃない。……ジョー、あなたがその体で一番よく知っているはず。カプセルに入るずっと前から私が持っている、この力がどれほどのものか……。私にも、世界は救えるわ」
「……っ!」 ジョーは鉛のように重い体で、這うように手を伸ばすが、扉は閉ざされた。 バタン、と。 無情にも、扉は閉ざされた。
「妖艶な地」の中心にそびえ立つ、悪趣味な金色の高層ビル「ジョーカータワー」。
タワーの豪華なエントランスのガラス扉が、内側から爆発したように吹き飛んだ。 「な、なんだ!?」 「侵入者だ! ローの女が一人!」
警報が鳴り響く中、フィオは両腕を鋼鉄化させ、無表情のままタワー内へと歩みを進めていた。 襲いかかってくるハイの警備兵たちを、彼女は鋼の拳で容赦なく打ち砕き、弾き飛ばし、文字通り「端から皆殺し」にしながら上層階へと登っていく。
そして、最上階の豪奢なペントハウス。 分厚いマホガニーの扉を蹴り破り、フィオはその部屋に足を踏みに入れた。
「ハァ……ハァ……」 さすがのフィオも、単独でのカチコミで息が上がり、革のスーツは破れ、鋼鉄の腕にも無数の傷が刻まれていた。
部屋の奥、純金のデスクの向こう側に、ふんぞり返って葉巻を燻らせている怪人がいた。 黄金の外殻を持つコガネムシのハイ、この街の支配者である「ダック」だ。
「……大した女だな。たった一人でここまで上がってくるとは」 ダックは、余裕の笑力を崩さずに葉巻の煙を吐き出した。 「で? 何が望みだ? 金か? それとも、俺の女になりたいのか?」
フィオは、鋭い視線でダックを睨み据え、即答した。 「……私たちの、自由だ」
「カッカッカッ! 自由! ローのゴミが、自由ときたか!」 ダックは腹を抱えて笑い、そして、スッと目を細めた。 「……全く、残念だな。少しは遊べるかと思ったが、交渉決裂だ」
ダックの姿が掻き消えた。 「!?」 フィオが反応する間もなく、ダックは彼女の背後に回り込んでいた。コガネムシの硬質な腕が、恐るべき速度でフィオの背中を強打する。
「がはぁッ……!」 フィオは吹き飛ばされ、大理石の床を転がった。鋼鉄化していた背中の装甲に、深い亀裂が入る。
「鋼鉄の体か。珍しい能力だが……俺の黄金の力(パワー)の前には、ただの紙切れ同然だ」 ダックが、ゆっくりとフィオに歩み寄る。その腕が、致命の一撃を放つべく高く振り上げられた。 「残念だが、あばよ。狂った女戦士気取り」
フィオは、死を覚悟して目を閉じた、その瞬間。
ダックの背後に揺らめく、見紛うことのない深紅の炎を。
「……あ?」
ダックの動きが、ピタリと止まった。 彼の視線が、ゆっくりと自身の下腹部へと向けられる。
そこには、ポッカリと、焼け焦げた巨大な穴が開いていた。
「……な、に……?」 ダックの口から、金色の体液が溢れ出す。
張り詰めていた鋼鉄の体に、安堵の力が抜ける。彼女は振り返ることもなく、その背中で揺らめく炎の主へ、10年ぶりの、深く、揺るぎない信頼に満ちた笑みをこぼした。
「……やっぱり、来るって分かってたわよ」
「……全く。相変わらず、危なっかしくて放っておけねえな」
ダックの背後。 そこには、いつの間にか、くたびれたコートを羽織った男が立っていた。 その右手の拳からは、ダックの黄金の装甲すら容易く溶かす、桁違いの熱量を持った「深紅の炎」が吹き上がっていた。
ジョーは、無精髭の口元をニヤリと歪め、燃え盛る拳をダックの体から引き抜いた。 「待たせたな、フィオ。……悪酔いは、すっかり醒めたぜ」
ダックの巨体が、ズシンと音を立てて崩れ落ちる。
10年の絶望と沈黙を破り。 天の民の反撃の業火が、今、再び燃え上がった。

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