「カグヤ……! お前、その姿……!」 すっかり見違えたカグヤの姿に、ジョーが喜びと驚きを交えて駆け寄ろうとした。 この10年間の出来事、そして世界がどうなってしまったのかを急いで説明しようと口を開きかけた、その時だ。
スッ。 カグヤが静かに右手を前に出し、ジョーの言葉を遮った。
「お久しぶりです、ジョー様、アンナ様。……初めまして、フィオ様ですね」 カグヤは、以前と変わらぬ優雅なお辞儀をした。しかし、顔を上げたその瞳には、深い知性と揺るぎない力が宿っていた。 「ご案じなく。状況は全て、ここから視ておりました。説明は不要です。……まずは、修羅の国に平和を取り戻しましょう」
カグヤは振り返り、見守っていた8人の導師たちに深く頭を下げた。 「師匠方、9年もの間、本当にありがとうございました。私は再び地上に降り、この世の平安を取り戻して参ります」
導師たちは、満足げに深く頷き、笑顔で彼女を見送った。
カグヤはジョーたちの近くに集まると、スゥッと息を吸い込み、両手で複雑な印を結んだ。 「裏八卦(うらはっけ)――『乾(けん)』」
その言葉が紡がれた次の瞬間。 フワッ、と視界が歪み、ジョーたちの足元から地面の感覚が消えた。
「なっ……!?」 「きゃあッ!」
突風が吹き抜け、視界がクリアになった時、一行は思わず息を呑んだ。 そこは崑崙山の山奥ではない。彼らが数週間前に追い出された、修羅の国の北の都――カグヤの実家である巨大な宮殿の、堅牢な正門の目の前だったのだ。
「テレポート……!? おいおい、冗談だろ……」ジョーが目を剥く。
動揺するジョーたちが冷静さを取り戻す前に、カグヤはふっと、以前の彼女なら絶対にしないような「好戦的な笑み」を浮かべた。
「さあて、虫けら共から、私の故郷を取り戻すとしようか」 完全に、あの「ミカ」の口調だった。カグヤは再び素早く印を結ぶ。 「裏八卦――『艮(ごん)』ッ!」
カグヤが手のひらを向けただけで、不可視の凄まじい衝撃波が放たれ、鋼鉄で補強されていた巨大な宮殿の門が、まるで紙屑のように木端微塵に吹き飛んだ。
10年前とは比べ物にならない圧倒的な力と、カグヤの気品の中に突然混じるミカの粗暴な口ぶりに、ジョー、フィオ、アンナの三人はただただ呆然とするしかない。
「な、何事だッ!?」 「侵入者だ! 殺せッ!」
爆音を聞きつけ、宮殿内から武装したカマキリやクモのハイたちが、怒声を上げながらワラワラと湧き出してきた。 「チッ、数が多い! フィオ、アンナ、構えろ!」 ジョーが右腕の義手をカチャリと鳴らし、戦闘態勢をとろうとした。
しかし、カグヤは一歩前に出ると、流れるような動作で印を結び、冷たく叫んだ。 「裏八卦――『離(り)』」
カグヤの周囲から発生した青白い炎が、津波のようにハイの雑兵たちを飲み込んだ。悲鳴を上げる間もなく、数十匹のハイが一瞬にして黒焦げの灰へと変わる。
「……ふぅ。辺りに敵の気配はなくなったね。さあ、行くぜ」 カグヤはミカの口調で首をコキッと鳴らすと、ジョーたちを振り返りもせず、建物の奥へとズンズン進んでいく。
「お、おい! 待てってカグヤ!」 底知れない強さを手に入れた仲間に、慌てて追いすがるジョーたちだった。
破壊された門を抜け、宮殿の内部へと足を踏み入れる。 そこは、まさに地獄絵図だった。美しい回廊のあちこちに、新八代将軍「忠蜂(ちゅうばち)」の分泌液を摂取させられ、虚ろな目でよだれを垂らすロー(人間)の中毒者たちが、ゴミのように転がっていた。
「ひどい……」フィオが顔をしかめる。
カグヤは立ち止まり、中毒者たちを慈愛に満ちた、悲しげな目で見つめた。 そして、静かに両手を合わせ、祈るように印を組む。 「裏八卦――『坎(かん)』」
カグヤの体から淡い水色の光が波紋のように広がり、倒れている人々の体を包み込んだ。 すると、中毒者たちの口や毛穴から、毒素が「黒いモヤ」となって抽出され、空中で浄化されるように消え去っていった。顔色の悪かった人々の呼吸が、みるみると正常なものへと戻っていく。
「……それでは、決着をつけに行きましょう」 振り返ったカグヤの瞳には、静かだが、鋼のように強い意志の光が宿っていた。 ジョーたちは言葉を失い、この強大で神々しい戦士の後ろを、ただついていくことしかできなかった。
宮殿の最奥。かつては華やかな宴が行われていた大広間。 しかし今では、そこは不気味な六角形のハニカム構造で装飾された、ハイの王座へと成り果てていた。
玉座にふんぞり返っていたのは、人間大の巨大なスズメバチの怪人――新八代将軍の「忠蜂」だ。
「……『妖艶な地』では、よくも新八代将軍の金虫(ダック)をやってくれたねえ」 忠蜂は、鋭い毒針を持つ腕をすり合わせながら、忌々しそうにジョーたちを睨んだ。 「だが、あいつは新八代将軍の中でも最弱。……私と同じレベルだと思わないことだよ!」
忠蜂が腕を高く振り上げると、広間の両サイドから、武装した「人間の兵隊」たちがぞろぞろと現れ、忠蜂を守るように幾重もの肉の壁を作った。彼らもまた、毒によって完全に操られたローの民だ。
カグヤは、自らの領民である兵士たちを見つめ、悲しそうに眉をひそめた。 「……あなたたち……」
忠蜂は羽を震わせ、下劣に笑う。 「カッカッカッ! ほら、どうした? 自分の国の、大切なお仲間を攻撃できるかい? あんたら天の民は、お優しいからねえ!」
「くそっ、人間の盾かよ……!」ジョーが歯ぎしりをする。 アンナもフィオも、操られているだけの人間に攻撃を仕掛けることを躊躇していた。
しかし、悩むジョーたちの前で、カグヤが凛とした、強い声で言い放った。 「……我が修羅の国の兵士は、兵になったその瞬間から、国のために死を覚悟しております。彼らの決死の覚悟に対する、今のその無様な姿……これ以上の侮辱はありません」 カグヤは右手を高く掲げた。 「彼らへの情けは無礼。……私が、誇り高き兵士たちに引導を渡します。……八卦――『震(しん)』ッ!」
カグヤの放った青白い電撃が、空気を伝って大広間を走り抜けた。それは絶妙に手加減された雷撃であり、人間の兵士たち全員が、一瞬にして白目を剥き、バタバタと気絶して倒れ伏した。
「な、なんだと……!?」人間の盾を一瞬で無力化され、忠蜂がたじろぐ。
「……さあ、あんたで終わりだよ」 カグヤはミカの口調になり、拳を顔の前に構えた。 「覚悟決めて、タイマン張りなッ!」
「舐めるなッ! 私と一対一で勝てるとでもいうか、脆弱な人間風情がぁッ!!」 激高した忠蜂が、猛スピードで宙を舞い、必殺の毒針をカグヤの顔面へと突き出した。
しかし、その毒針がカグヤに届くことはなかった。 「遅いね」 言い終わらないうちに、カグヤの拳が、正確無比な軌道で忠蜂の鳩尾に深々と突き刺さっていたのだ。
「ぐふッ……!?」 忠蜂の動きが完全に止まる。だが、忠蜂は痛みを堪え、ニヤリと笑った。 「……ハッ、所詮はローの力。私の硬い甲殻には、その程度の拳など効かんわ……」
「八卦――『艮(ごん)』」 カグヤは無表情のまま、突き出した拳を引かずに、そこに「もう一つの拳の力」を重ねるように衝撃を打ち込んだ。
「ガハァッ!?」 忠蜂の硬質な甲殻に、ピキリと亀裂が入る。苦悶の表情が浮かんだ。
「八卦――『艮』」 再度、静かな声と共に、ゼロ距離からのさらなる衝撃波が忠蜂の内部を破壊する。
「ギャアァァァッ!!」 耐えきれず、忠蜂の巨体が後方へと吹き飛ばされた。玉座に激突し、緑色の血を吐き出す。
「こいつで、終わりだ」 カグヤは姿勢を低くし、右の拳を腰だめに構えた。 「八卦――『艮・六十四』ッ!!」
カグヤの拳が、眩いばかりの銀色の光を放ち始めた。 極限まで圧縮された気の光。その輝きの中に、くっきりと『月』の文字が浮かび上がる。
目にも留まらぬ踏み込みから放たれた、渾身の正拳突き。 月の光を纏ったその一撃は、忠蜂の硬い甲殻を、肉を、内臓を完全に粉砕し、背中までを一直線に貫いた。
「ゴパァッ……!!」 忠蜂の腹部に、大穴が開く。
「……バ、バカな……私が……こんな、人間の小娘に……」 忠蜂は崩れ落ちながら、呪詛のように言葉を吐き出した。 「だが……これで勝ったと思うな。……既に世界は、我らハイのものだ……。私が死んでも……絶望の状況は、何も変わらんわ……!!」
ドサリ、と。 修羅の国を支配していた新八代将軍は、完全に息絶えた。
静まり返る大広間。 カグヤは、ゆっくりと拳を引き抜いた。 純白の修行着は、返り血で酷く汚れ、彼女の美しい顔にも緑色のハイの血がべっとりと飛び散っていた。
しかし、血に塗れたカグヤは、振り返ってジョーたちを見つめ、天使のように優しく、そしてどこか狂気を孕んだように微笑んだ。
「……これで、二匹ですね」
その、あまりにも美しく、そして無慈悲な姿に。 ジョー、フィオ、アンナの三人は、背筋が凍るほどの「頼もしさ」と、それと同等かそれ以上の「恐ろしさ」を、同時に感じずにはいられなかった。

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