ダーティーメモリー 第一話

人間の心身を蝕む「うつ病」や精神疾患の根源は、多くの場合『記憶』にある。 人間には、忘れたいと願う記憶が山のようにあるものだ。時間の経過とともに自然と忘却の彼方へ追いやることができる者もいれば、それができずに苦しみ続ける者もいる。ある意味において、新しいことを「覚える」ことよりも、深く刻み込まれた傷を「忘れる」ことの方が、人によっては遥かに困難で労力を要するのだ。

昔の辛い記憶に囚われ続ける人。あるいは、恐怖によって歪んでしまった誤った記憶を抱え込み、精神を病んでいく人。 そんな現代の心の病に対する抜本的な対策として、ある新しい技術が産声を上げた。 それは、脳の特定領域に干渉し、『特定の記憶を強制的に忘れさせる』という夢のような技術であった。

「レテ・クリニック」の主任医師である志堂 愁(しどう しゅう)は、冷徹なまでに合理的な男だった。 彼は人間の脳を「精密なハードディスク」程度にしか考えていない。不要なデータ、バグを引き起こすウイルス(トラウマ)があるなら、デリートしてしまえばいい。それが彼の信念であり、このクリニックが提供する救済だった。

その日、志堂の診察室に現れた患者――結城 杏奈(ゆうき あんな・32歳)は、まるで幽霊のようだった。 季節は初夏だというのに、首元まで隠れる分厚い黒のタートルネックを着込み、深い隈の落ちた目は怯えたように床を泳いでいる。志堂がカルテをめくる微かな音にすら、彼女の肩はビクッと跳ねた。

「結城さん。事前検査の結果、あなたの社会不安障害の原因は、学生時代の暴行事件のフラッシュバックに起因するものであると断定できました」 志堂が淡々と告げると、杏奈は震える両手で顔を覆った。

「……先生、助けてください。もう、生きていけないんです」 掠れた、消え入りそうな声だった。 「男の人の声がするだけで吐き気がする。電車にも乗れない。外を歩くときは、すれ違う人全員が私を襲ってくるんじゃないかって……頭がおかしくなりそうなんです。犯人は捕まっているのに、私の頭の中では、毎日、毎日……っ」

志堂は無表情のまま、彼女のカルテにペンを走らせた。 「当クリニックの技術を用いれば、その事件に関する記憶のネットワークを物理的に分断できます。つまり、あなたは『その出来事自体がなかったこと』になる。……ただし、リスクはあります」 「リスク……?」 「記憶とは、経験です。そして恐怖は、生存するための防衛本能だ。火を触って火傷をした記憶を消せば、人は再び平気で火に触れるようになる。……それでも、消去を望みますか?」

志堂の警告は、事務的なものに過ぎなかった。この状態の患者が「NO」と言うはずがないと分かっていたからだ。 案の定、杏奈は血の滲むほど強く唇を噛み締め、顔を上げた。 「構いません。この地獄が終わるなら、私はなんだって差し出します」

処置は滞りなく終わった。 三ヶ月後、定期健診に訪れた杏奈を見て、志堂は一瞬、人違いかと思った。

「志堂先生! こんにちは!」 診察室に入ってきた彼女は、明るいレモンイエローのワンピースを着て、華やかなメイクを施していた。かつて幽霊のように怯えていた面影は微塵もなく、その笑顔は春の陽だまりのように無邪気だった。

「経過は良好のようですね、結城さん。睡眠薬はもう必要ないですか?」 「はい! 毎日ぐっすり眠れています。最近、新しいカフェで働き始めたんです。店長も男の人なんですけど、すごく優しくて……。あ、そうだ! 今度、友達と夜桜を見に飲みに行くことになったんです。私、夜に出歩くのなんて初めてで!」

弾むような声で語る杏奈を見つめながら、志堂の胸の奥に、ほんのわずかな違和感がよぎった。 (夜に出歩くのが初めて……?) 違う。彼女は過去に、夜の道で襲われているのだ。しかし、その記憶を消し去った今、彼女の認識の中では「夜の外出=楽しい未知の体験」に書き換わっている。

「……結城さん。いくら元気になったとはいえ、夜道には気をつけるんですよ。世の中には、危険な人間もいますからね」 志堂は柄にもなく忠告を口にした。 しかし、杏奈はきょとんとした顔をした後、朗らかに笑った。 「大丈夫ですよ、先生。世の中、そんなに悪い人ばかりじゃありませんから!」

その淀みない、あまりにも無防備な笑顔を見たとき、志堂はかつて自分が口にした『火傷の記憶』の話を思い出し、背筋に冷たいものが走った。 だが、彼はその不安を無理やり飲み込んだ。彼女は完治したのだ。医者としての自分の仕事は、完璧に成功したのだから。

それから半年後。 志堂の診察室の電話が鳴った。相手は、所轄の警察署だった。

『レテ・クリニックの志堂先生でしょうか。以前そちらに通院されていた、結城杏奈さんの件でご連絡を——』

受話器越しに事件の概要を聞きながら、志堂はゆっくりと目を閉じた。 現場は、深夜の人気の少ない路地裏。見知らぬ男に「落とし物を探してほしい」と声をかけられ、彼女は一切の疑いを持たず、笑顔で薄暗い路地へついて行ってしまったのだという。

彼女は、何の警戒もしていなかった。 男の背後に潜む暴力の匂いにも、暗がりの持つ危険性にも、全く気が付かなかったのだ。

『……結城さんは現在、ICUで治療中ですが、意識は戻っていません。非常に残念ですが……』

電話を切った後、志堂は静まり返った診察室で一人、自身の震える手を見つめた。 彼女を地獄から救い出したのは、間違いなく自分だ。 だが、同時に彼女から『恐怖』という名の強固な盾を奪い去り、無防備な赤子の状態にして夜の街へ放り出したのも、また自分だったのだ。

「……私は、彼女を治したのではなかったのか……?」

答えのない問いが、空虚な部屋に吸い込まれていく。 待合室からは、今日もまた「忘れたい記憶」を抱え、救いを求める患者たちのざわめきが聞こえていた。


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